二 どうしてこうなった ⑨
僕が頷くと、真壁は首を縦に振りつつボールペンを手元に引きよせた。次いでいつの間にか私費で購入したらしい、卓上カレンダーを持ちあげてしげしげと覗きこむ。
「それについては、さっきの話の続きになるが──利権がらみだと仮定した場合──たしかに犯人は議員を動かすのには成功した。ところが年が明けて巡回がはじまった。犯人側にしてみれば、イタズラを何度も繰りかえす必要が出てきたわけだ。ここで引きさがっては、巡回で不審人物がいなくなったと永井議員が判断してまた意見を翻す恐れがあるからね。とはいえ何も考えないでイタズラに出ると、巡回中に捕まってしまう。それを避けるために、君の言うように現場を監視する方法もあるだろう。だが巡回中に撮影したこの映像はどうだ」
僕は手元のノートパソコンを操作し、巡回中にドライブレコーダーとビデオカメラで撮影した動画をそれぞれ早送りで再生してみたが、真壁の言うとおりどちらも静止画像と見まごうほど動きがなく、街灯があるにも関わらず上屋に覆われているせいで薄暗く照らさるばかりのお地蔵さまが延々と遠景から映しだされるのみ。人の往来が確認できるのは午前三時以降であり、問題の時間帯にあやしい人影はまったくないのだ。強いて言えば以前と同じくアパートの前でイチャつくカップルだが、彼らは現場にはまったく近寄らずいつの間にか姿を消している。トイレ休憩などで僕や真壁が目を離している間も、まったく人が寄りつかなかった証拠だ。
「もし犯人が俺たちを窺っているのなら、少しは挙動不審な男が映っていてもいいはずだ。しかし現場に張りつかなくても、俺たちと出くわさずに済む方法がある。言うなれば庁舎内に内通者を置いて、もしくは庁内の誰かを共犯者にしてスケジュールを把握しておけば鉢合わせは起こらない。巡回の予定が、もう今の時点で漏れてるかも知れないんだぜ」
利権争いの裏工作だなんて! 僕には無縁だと思っていた。管理職ならたびたびこういう問題にも晒されるのかも知れないが、まさか直に携わるハメになろうとは思いもよらない。真壁の危惧が当たっているなら、とんでもないことになる。
「だから仮にあの駐車場を利用するにしても、イタズラを実行する日だけでいい。その日に俺たちはいないから、周囲に多少の気を配るだけで済む。あのとおり現場はほぼ無人だ。無断駐車でもばれる確率も低い」
「もしそうなら本当にまずい。でもスケジュールを把握するなんて、いったいどうやって」
「簡単だ。たとえばスケジュール表のデータが入ったこのノートパソコン」
真壁は画面を閉じて指をさした。
「庁内ネットワークで繋がってるんだ。俺たちと同じ生涯学習課はもちろん、情報システム課の人間ならデータは手に入る。そうでなくともある程度の技術があれば可能だ」
官公庁に限らず他の民間企業でも似たような運用だと思うが、ここ火床市役所ではほぼ全てのノートパソコンは無線LANに接続され、機器を盗みだされてもデータが流出しないように作成したファイルはほぼ全てを課の共有ドライブに、やむを得ない場合に指定のUSBに保存する決まりになっている。個人情報等の保護の観点からこうした措置は妥当ではあるものの、それは職員が共有ドライブを利用してデータを盗みださないという性善説を前提に成りたっている。むろん違反者への罰則は設けられているにせよ、これだけ大きな利権が絡むとなると危険を冒してでも真壁の言う勲一等を得ようとする者が現れてもおかしくない。もっとも、どこから盗みだされるかが分かれば対策もできる。情報の流出経路を遮断するのだ。
「じゃあ、無線LANのスイッチをオフにすればいい。スケジュール表はデスクトップかUSBに保存すればどうだろう。課長に相談すれば許可は出るんじゃないかな」
ためしに提案してみるも、真壁は不満そうな顔を見せる。
「まあ万が一にも盗み見られないように今後はそうしておいて、必要なとき以外はLANを切っておくとしてもだ、広瀬くん、スケジュール表をごく限られた相手にしか見せないのならそれだけで済むかも知れない。でも深夜の巡回をするために、教育部の体制は今どうなっている?」
話は途中までだったが、そこで分かった。
「そうか。決裁は教育総務課と合議だ。おまけによその課から人を出してもらってる。どうやったって情報は漏れる。もしかしたら、決裁印を押してる職員が内通者なんてことも十分にあり得る。だとしたらスケジュールは筒抜けも同然」
「そのとおり。いくら情報漏洩を防ぐためといっても、応援を要請しておきながら所属長の決めた人間を当日いきなり呼びだして、深夜の巡回に行かせるなんていうのは無理だ」
板垣議員から無理難題を突きつけられ、急ごしらえで作りあげた体制に完璧を求めるのいくら何でも酷だ。だいたい、いち係員が管理職にそれを求めるのはおかしな話でもある。かといって巡回体制の変更を申し出たとしても、仮定の話が前提では聞きいれられるとは思えない。昼間に相談室を留守にできない以上、よその課の協力ぬきでは一人で巡回に出ることになってしまう。いくら男でも深夜の単独行動を肝月課長は認めないだろう。
「詰みってことか? これじゃ、いくら深夜に出張っても無駄だ」
「さっき君が言ったように、これはあくまで可能性のひとつだ。もしかすると単なる愉快犯かも知れないし、それでいて意図して巧妙に俺たちの目を逃れているとしたらその方法が分からない。だからこそ今のうちいろいろ考えておくべきだし、可能な捜査はやっておいた方がいいとさっきから言っている。どうすればいい?」
「さあ……」
これまで、僕はおおよそ上の命令にしたがって仕事をしてきた。自主判断を求められるのは細部のみで、あとは課内や外部との調整がメインだった。企画部門にでも配置されない限り、係員が仕事の大きな流れを決定する機会は少ない。公務員というのはこの点でどこも似たり寄ったりのはずであり、少なくとも僕は過去そういった事態には直面しなかった。したがって上の命令なしに動くべきだと理解はできても、意見を求められてすぐに答えは出てこない。ところが真壁には、何やらよい案があるらしい。
「俺は、まず犯人の絞りこみが重要だと思う」
「絞りこむったって、どうやって?」
「お地蔵さまにされたイタズラは、亀甲縛りだ。犯人は常日頃からそうした行為に及んでいる可能性が高い。地理的にも、現場は歓楽街からそこそこ近かったはず。まずは俺たちが聞きこみに行ってみるのが一番だ」
「行ってみるって、どこへ?」
「はっきりした情報はないが、この火床市にSMクラブのようなものはないだろうか?」
僕は耳を疑った。たしかに亀甲縛りと言えばSMプレイ。犯人は関連施設に出入りしていると考えるのが自然だ。それにある逸話をどこかから伝えきいた覚えがある。かつてビデ機能の設置を命じられたさる便器洗浄機の開発者は、人体の構造を確認するためストリップ劇場に通ったという。だとすればSMクラブに足を運ぶのも理には適っている。しかし僕たちは市職員なのだ。
「えっ。まさか」
「当たり前だろう? そこに行くんだ。顧客情報をたやすく漏らすとは思えない。それでも話を訊きにいく価値はある」
真壁の答えには思わず絶句した。当たり前だ。サービスを利用するかしないかは別にして、店に行くなり相手の時間を拘束するのなら金銭を支払う必要がある。ではその費用はどこから捻出するのか? 公務となれば公費から出すべきだが、それをもって風俗店に行くなど許されるはずがない。前代未聞だ。予算もついておらず、予備費を要求したところで財政課は首を縦には振るまい。笑い話で済むならまだしも、立川部長の耳に入りでもしたらそれだけで訓告あたりを喰らう恐れがある。
「経費は?」
「自腹に決まっている。これは庁内の人間に対して秘密裏に行うべき捜査だ」
そもそもが実質的には公務だというのに、職員個人が自腹を切る調査など認められるわけがない。やはり気が引ける。とはいえ予算云々などと贅沢を言っていられないのも事実だ。僕がわずかばかり迷っていると、真壁は段々と苛ついた様子を見せはじめた。
「いいかい広瀬くん、よく考えるんだ。俺たちがこのまま巡回を続けるだけで、犯人が捕まるならいい。だがそうでなかったらどうする? 間違いなく四月の異動でロクでもない部署に飛ばされるんだぜ。可能性は低いかも知れないが、、もしそこへ行っていれば犯人を捕まえられたのに、少しの恥を恐れて事件が未解決で終わったとしたらこんな馬鹿な話はない。それ以降に俺たちが被る損失は、自腹を切る分より遙かに大きいはずだ。君が嫌なら俺が出す。その代わり、この捜査が功を奏した暁には俺ひとりの手柄にさせてもらう」
そっちの趣味もないのにSMクラブに足を踏みいれるのは、リスクが大きい。僕は個人の嗜好には寛容であろうと努めているので、誰がどんなナイトライフを楽しもうと口を差しはさむつもりはないが、万が一にもその場に出入りするところを市役所の誰かに見られたら果たしてどんな噂を流されるか。ちょっと恥をかく程度では済まされないだろう。ただ、真壁の発言は突飛でも理不尽でもなかった。懲罰人事で異動などさせられようものなら、言ってしまえば生活支援課などに行かされようものなら、今とは比べものにならない激務に晒される。それ以外の部署でも残業地獄だ。
「いや、僕も出す。一緒に行くよ」
是非もない。理不尽な扱いを受けてようやく手に入れた、というか与えられたこのポストを手放すよりは少しくらい自腹を切った方がはるかにマシだ。僕たちの立場と心身の健康が危機に晒されようとしているのは初めから分かっていたが、事ここに至り、また真壁から直に言及され、勤労の精神や全体への奉仕、職務専念義務を全うするとかいう高尚なレベルではなく、我が身を守るために勤務時間内外を問わず事件解決に向けて全力を尽くさなければならなくなったことを改めて実感させられる。同時にこの点で、僕たち二人はある種の運命共同体である事実を噛みしめた。
それにしても事件解決のために聞きこみをするなど、まるで探偵ではないか。探偵が警察にも持ちこまれた事件を解決する、というのは架空の物語の中だけかと思っていた。私立探偵に捜査権が与えられていたのはとうに昔の話で、現在は捜査協力という例外がわずかにあると耳にはするものの、あくまで主導的に捜査を行うのは警察のはずだ。
ところがその事件に適用される刑があまりに軽く、かつ行政と司法が特殊な関係にある場合はどうなるか? 司法が動かなければ行政、つまり市職員が事実上の捜査を行うしかない。噂では納税課あたりで近い仕事があると聞くが、あれは徴税吏員の正当な業務だ。深夜の巡回ならまだしも、SMサロンへの聞きこみなど市職員が従事する業務の枠を逸脱している。まさに探偵という他はない。僕たち堅気そのものの公務員とはほとんど対照の位置にある職業だ。少なくともそうした業種に就いた経験がない僕にとっては、不安だらけだった。
「しかしいくらかかるんだろう? 僕たちが調査に出向いて応じてくれるんだろうか?」
「電話番号がどこかに載ってるはずだから、事前にアポは取る」
「でもそういうお店は、いたぶられて喜ぶ男が行くとこだろ? お地蔵さまに亀甲縛りをするのは、どっちかってと言うと女の人をいたぶる方だと思うけど」
「君がそう疑問に思っているのなら、なおさら行ってみた方がいい。どちら側の人間がそこに出入りしているかも分かる」
「じゃあ、お店か何かへ行ったとして、僕たちの身分を明かして聞きこみをするの?」
「たしかに、言われてみればそうだな」
結局、捜査の方針から対象に至るまで真壁に任せてしまった。もっと危機感をもって事に当たるべきなのに今も質問をしてばかりで、長いあいだ染みついた人に頼る悪い癖がなかなか抜けない。よって、このあたりで少しはこちらからも案を出さねばなるまい。
「どう名乗るかは、僕の方で考えておくよ」
「それについては君に任せた。それよりこんな地方都市にSMクラブの類があるかどうか確かめる方が先だ。なかったらそれまで。定時を過ぎたら庁舎を出て、近くの喫茶店あたりでネット検索と打ち合わせをしよう。さすがに役所のパソコンを使うのはまずい」
真壁は小さく息をつくと、何か思いついたようにキーボードを叩きだした。僕はといえば午前中にまとめた報告書を見直して決裁を起案しつつ、さっそく店に入ったときのことを想像して知恵を絞ろうとした。当然ながらすぐにはよい考えなど思いうかばない。しばらくして頭休めに視線を逸らすと、先ほど真壁が手に取っていた卓上カレンダーが目に入る。そこには三月議会の予定が書きこまれていた。質問通告締切は三月八日の水曜日。事件解決まで残された日数はあと三十五日だった。




