第32話 どうやら、ちゃんと回り始めたみたいです
朝、庭に出ると老庭師のフェルドが花壇の前にしゃがんでいた。
夏向けに植え替えた苗は4週間が経ち、先週より葉に厚みが出てきた。
いくつかの先端がわずかに上を向いていた。
「このくらいになると、暑さにも少し慣れてきます」とフェルドが言いながら、土の状態を指で確かめた。
「あとは水の量を見ながら、夏の終わりまで管理を続けます」
「植えた後も、ずっと続くんですね」
「植えたら終わりではありません。形が整ってからの方が、むしろ手がかかる時期です」
フェルドが次の苗の根元に手を向けた。
前世で言うなら、仕組みを入れた後の方が大事だった。
導入だけで満足して、定着を見届けずに離れる。
そういう段取りの抜けをいくつも見てきた。
部屋に戻ると、廊下で老執事が帳簿を持って立っていた。
◇
「本日は外からの予定はございません。午前中は書類の整理のみです」
「暑い日が続きますね」
「昨日から廊下に遮光の板を立てております。室内は昨日よりも少し涼しいかと思います」
老執事が帳簿を一枚めくった。
「明後日に食材の追加納品がございます。冷たい飲み物の材料も含まれています」
「ありがとうございます」
老執事が帳簿を閉じ、廊下の奥へ向かった。
◇
昼過ぎ、ルナが冷やした茶を持ってきた。
「今日は暑いですね」と言いながら、卓に道具を並べた。
「廊下を歩くだけで参ります。端の方から歩くようにしていますが」
「工夫していますね」
「屋外に出なくていい日は、ありがたいです」
リシェルも同じことを思った。
窓から庭が見えて、風が通る。
用事がなければここにいるだけでいい。
「フェルドさんは今日も朝から出ていましたね」
「植えた後の方が手がかかる時期だそうです」
「暑いのに大変そうです」
ルナが「でも毎日ちゃんといますよね」と言い、冷えた茶杯を置いてから出ていった。
◇
午後、老執事が書状を持って部屋に入ってきた。
「フィリアン様からの書状です」
受け取った。一枚で、短い文だった。
『受け取った補足、現場で使っている。前より迷いが減った。ひとまず回っている』
「ひとまず回っている」という部分を一度読んだ。
称賛でも感謝でもなく、現状の報告だった。
記録様式が補足込みで使われていて、担当者が迷わずに動けている。
それだけのことが書いてあった。
それで十分だった。
「回っているそうです」
「それは良かったです」と老執事が言い、少し頷いた。
「お渡しになったものが、ちゃんと使われているということですね」
「補足の範囲で済みました。向こうで回るなら、その方がいいです」
老執事が「おっしゃる通りです」と言い、部屋を出た。
◇
夕方近く、ルナが片付けに来た。
「書状、届いていましたね」
「見ていましたか」
「気になって」とルナが言い、卓の上を軽く拭いた。
「どんな内容でしたか」
「記録様式が、補足込みで回り始めたそうです。前より迷いが減ったと」
ルナが少し間を置いた。
「ちゃんと使われているんですね」
「そのために渡したので」
「でも、今回は誰も来なくてよかったですね」
「来なくて済むなら、その方が楽です」
ルナが手を止めた。
「書いたものが向こうで動いているって、なんだか不思議な感じですね」
「渡した後は向こうの仕事なので」
「そうですよね」とルナが少し考えてから言った。
「また何かあれば、来るんですかね」
「来たら、その時に考えます」
ルナが「そうですね」と言い、空になったトレイを持って出ていった。
◇
窓の外で、フェルドがまだ花壇の前にいた。
夕方の水やりを終えて、苗の根元をもう一度確かめているようだった。
日が傾いて、庭に長い影が伸び始めていた。
向こうで回るなら、それで十分だった。
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