溢る闇を掬う三日月
朧に揺れるその存在は、確固たる輪郭で縁取られている。喧騒で彩られるフルセルに、一点の静寂が佇んでいた。
ムージュの脳内に、誰かの言葉が浮かんでいた。
滋味に富んだ上品な料理に、獣人族が使うような葉の皿は似合わない。
君のような化け物に、その可愛げな身体は似合わない。
ムージュは禁断の行為によって生まれた。獣人族のハーフなのだ。
禁断の行為というのは、何も異種族との性行為のことではない。望まぬ性行為だったというのが禁断なのだ。
それは戦争による弊害だったのだ。
ムージュに物心がついたとき、彼女は既に国に引き取られていた。
誰からも愛を受けず、ただ戦いの技術のみを叩き込まれた。
人間の繊細さと獣人の野生と、情を一切捨てきった英才教育は混ざり、化学反応を起こし、アブノーマルがフラスコの中に出来上がった。
彼女はただ闇雲に日々を生きていた。
黒い髪から瞬く間に色が消え、表情を表す眉も抜け落ち、死に場所の行方も知らぬままだった。
ある日、教官がこんなことを呟いた。
「一流の暗殺者とは、姿を見せぬ暗殺者である」
「誰も名を知らぬ暗殺者である」
もともと名は無いので、そこは心配なかった。
だが問題は姿である。
この頃ムージュの身体からは異様なオーラが溢れ出し、側にいるだけで心拍数が幾らか高まってしまうと誰もが言うようになっていた。
彼女の側にいると、月夜の晩、森に一人放り出されたような感覚を味わうのだ。
それでいて、常に殺気を感じるような。
一度見たら目に焼き付くこの姿、一体どうやって隠すべきか。教官は一つの魔術に目をつけた。
それが、幻覚の魔術である。
こんな姿になってまで、やっと強さを手に入れたと思ったのに。私が手に入れたものは、孤独のみだった。
ムージュの心に、本人も知らぬうちに、何かがふつふつと湧き上がっていた。
これが嫉妬だろうか、僻みだろうか。
初めて感じるものが、紙に染みゆく水滴のように心を染め、支配していく。
「犯罪組織のリーダーを殺した。女だった。彼女の母親は墓の前で泣いていた…」
月光は威圧するように、光沢を深める。
ムージュはその母親の気持ちもわからず、誰の心も理解できず、自分勝手に、しかし真実を叫んだ。
「私は誰からも愛されていないのに!!」
フラスコの中のアブノーマルが爆発した。
その瞬間、ドラセナは理解した。ムージュの本当の恐ろしさはその卓越した剣技ではない。
本体か偽物かすら見分けられない程繊細な、そして一人一人が全く違う動きをしてくる、幻影魔術こそがムージュの恐ろしさなのだ。
魔波は爆発するほどの歪みを見せた。
巨大な黒馬が、そこに現れた。
黒馬の上に闇と月が並んだ。夜風は吹き渡り、黒馬は走り始めた。
ドラセナは急にこんな化け物が現れたことに驚愕しつつも、相手の魔術力により警戒を深めた。
これも幻影か。なんて技術なのだ。ドラセナはムージュを睨んだ。
ムージュも何故か少し狼狽えを見せたものの、気を取り直し長剣を構えた。
黒馬の上でも、全く動かない。
先に仕掛けるのは危ないとドラセナは勘付いていた。じっくり品定めをするように、悠長に構えていれば、いつか噛み付いてくるはず。
ドラセナは牙を研ぐ様に、静かにその時を待った。
瞬間、月輪が闇を貫いた。研いだ牙は脆く折られた。
目の前でじっと構えていたムージュは、幻影だった。
本当のムージュは闇に身を潜ませ、油断するのを待っていたのだ。
「…!」
ドラセナは遠くの方の地面…もとい、黒馬の首元からから黒い鎖を伸ばし、ムージュの脚に絡みつかせた。
ムージュの視界は不意にぶれ、腹が底冷えするような感覚を味わった。鎖が収縮を始めたのだ。ぐんぐんと黒馬の首元に引っ張られてゆく。
放物線を描いて飛ばされているムージュは、予想される着地点に薄暗い槍が生えているのを見た。
「小癪だ」
ムージュは長剣を構え、脚に絡みつく鎖を断ち斬り、間合いに入った槍を微塵に斬った。
着地した後迫るドラセナを睨み、唸った。
「今更怖じけ付くなよ」
闇がかき消え、ムージュは十人に増えた。幻影だ。
ドラセナのメリーが回転し始めた。キュルキュルと騒ぎながら、ゆっくり闇が広がっていく。
ムージュ達はドラセナに突進した。
揺れる長剣の切っ先は、稲妻の如く轟いた。
走る閃光を闇で受け止め、ドラセナはムージュの頭に指を突きつけた。
ムージュの頭は一瞬にして黒い霧で覆われた。
そして、倒れた。
しかし、それは幻影だった。ドラセナの首に剣が突き刺さった。
「!」
「ほう、身体を煙のようなものに変化させることができるのか。不意打ちでなければ、ダメージは与えられないかな?今の不意打ちは成功しなかった…?」
ドラセナの胸部から黒い球体が飛び出し、ムージュよの頭を消し飛ばした。しかし、ドラセナの腹に重い衝撃が響いた。
ムージュの脚が、みぞおちにめり込んでいた。
「かっ…」
胃液が逆流し、口から漏れ出た。飲み込もうと口を閉じたが、今度は背中を蹴られ、踏み潰された。
ドラセナは地面に蹲った。
「はっ…あ、うう」
息ができない。
「打撃が有効か。不思議だな…まあいい、殴る蹴るといった暴力はあまり好まないんだが」
三度腹を蹴り飛ばし、黒馬の背中からドラセナを蹴落とした。
そこには、廃村なのか古く朽ちた村々が広がっていた。
ムージュも黒馬から飛び降りた。
ムージュは空中で、笑みを浮かべた。
初めての感情だ。私は今、自分の感情で動いている。
自分のためだけに、動いている!
ムージュは堪えきれなくなり、高笑いをしてしまった。
なんとか抑えようと口を手で覆って、掴んでも、笑いが漏れ出てくる。止まらない、こんなにも面白い!
人生とはこんなにも面白い!
闇が伸び、月が欠けた。
ドラセナが地上から、空中にいるムージュに反撃を行ったのだ。
ムージュは夜風に逆らって、吹っ飛んだ。それでも尚、笑いは止まらなかった。
月は教会に墜落した。
そこでようやく笑いが止まった。
「はあ…はあ…」
涎と血を袖で拭い、息をついた。吐く息は白かった。
「…おや」
ムージュは気がついた。教会の済に、何かがある。繭玉のようだ。
星の光を受けて、白く艶かしく光っている。ゴソゴソと蠢くことも無く、じっと止まっている。
「何かな」
ムージュは繭玉に近づいた。…違う、繭玉ではない。
人間だ。
体中に茨のようなものが巻き付いている。顔なんて、茨で覆い尽くされて見えないほどだ。
「死体か」
顔を近づけてみると、僅かに胸が動いているのが見えた。なんなのだろう、これは。
「…顔を見たいな」
ムージュは茨を斬るために長剣を構えた。その時、後ろに気配を感じた。
ドラセナだった。
走ってきたのか、体中で息をしている。
「あぁ、そういえば名前を聞いていない。君の名前は何だ」
ムージュはぬけぬけと質問をした。ドラセナは不快そうな表情をしたものの、応えた。
「ドラセナ」
「そう。私の名前はムージュだ。…もう言ったか。ドラセナ、来てくれ。見てほしいものがあるんだ」
ドラセナは耳を疑った。見てほしいものがある?殺しに来た相手に対して何を言っているんだ?
しかしまだ幼い知的好奇心を抑えることはできず、見に行ってしまった。
「…うわあ」
ドラセナの顔が引きつった。
「死んじゃってる?」
「否、生きている」
ムージュの心臓は、今までに無いほど高まっていた。彼女達の心は、まだ幼い。彼女達は今、子供が秘密基地を見つけて探索するときの高揚感と、全く同じものを味わっている。
「顔の茨、とったほうが良さそう…生きているんでしょう、可愛そうだよ」
「…子供みたいなことを言うな…私と違って、幼いんだな」
軽くマウントを取りつつ、ムージュは茨を丁寧に斬った。
「…」
一本一本丁寧に斬っていく。
そのうち、穴だらけの顔が現れた。
「うわっ」
ドラセナは思わず後退りをした。ムージュは呟いた。
「男だな」
ドラセナは少し離れたところから、この様子を見ることにした。ムージュは男に顔を近づけた。
「やはり、生きている」
天井から差し込む夜空に包まれたその男は、ただ呆然と目を瞑っていた。起きているということは、なんとなくわかった。
「…まあ、暫く放っておこう」
ムージュは振り返った。
「さあ、再開だ」
「え」
ムージュはゆっくりと歩いてきた。ドラセナは困惑していた。再開って、戦いを?そんなに早く切り替えられるものなのか。ムージュは、切り替えることができる。だからこそ、ムージュなのだ。
ムージュがムージュである理由なのだ。
ドラセナは少し遅れつつも攻撃の構えをとった。しかしムージュは止まらない。
「…!」
ドラセナは手を前に突き出した。ムージュの輪郭は絶え間なくゆり動く。
ムージュは夜空を背景に、不敵な笑みを浮かべた。
その瞬間、ドラセナの頭にフラッシュバックした。
あの忌まわしい虐殺の記憶を。
メリーが黒く染まった、きっかけを。
彼女は動けなくなった。
容赦なく、肝臓に拳が突き刺さった。
ドラセナは哀しげな瞳で、崩れた。
「…」
ムージュは止まった。ドラセナの目に、自分と似たものを薄っすらと感じた。
それを振り払うように、倒れたドラセナを踏みつけた。
ドラセナは抵抗しない。
「…」
ムージュは震えた。
「…何をしているんだ、私は…?」
足を退かし、ボロ雑巾の様に横たわるドラセナを暫く見つめていた。その時、足音が聞こえた。
ドロイトだった。
右手に長い木の枝を握っている。
「はあ、はあ…ドラセナ!」
「…」
ドラセナは声に応え、起き上がろうとした。しかし、起き上がれなかった。
ドロイトは駆け寄った。ムージュは無言で、ドラセナの側から退いた。
ドラセナは、寄り添ったドロイトに抱きついた。
「ど、どうしたの」
「…」
何も言わないドラセナをドロイトも何も言わずに抱きしめた。
ムージュは独りでこの光景を見つめていた。
ドロイトはなんとなく感じ取っていた。
ムージュが愛に飢えていることを。
「いいよ」
「…え?」
ドロイトは頷いた。
ムージュは立ち尽くしていた。混乱していた。
混乱は脳内を掻き回し、欲望の赴くままにムージュを動かした。
「…」
暖かかった。
暫くして、ドロイトはふと教会の天井を見た。穴が空いている。
そこからまばゆい星々が覗き、床を照らして…
「…あれ」
ドロイトはそこにある何かを見つめた。
「あれは」
「…人」
ドロイトは一旦立ち上がり、近付いていった。
「嘘」
ドロイトは呆然とした様子で、横たわる人に近づいた。
震える手で、顔に触れた。
「灯葉君」




