首に纏わる鉄いばら
管理人とやらは、一つ一つの絵を歩いて説明してくれた。
「この絵は少女を歪めて創られたものです。周りに人形だとかが散らばっているでしょう。乳歯も転がっています」
俺は寒気を抑えられなかった。
「ま、待ってくれ。俺達は絵を見に来たんじゃ無いんです」
管理人は不思議そうな顔をした。
「では何故」
「自分自身の記憶を、思い出しに来たんです」
管理人はふむ、と唸り、胸ポケットに手を忍ばせた。
「少し、観ましょうか」
取り出されたものは、黄金色の縁が周りに飾られた虫眼鏡だった。それを俺の胸に当てた。
「ほう、んー…」
徐々に、管理人の顔が赤くなっていった。
「す、凄い。何という凄惨な」
管理人は虫眼鏡を元の位置にしまった。
「案内しましょう。ついてきてください。但し、自己責任でね」
何やら不穏な事を言って、管理人は向こうの方へ歩いていった。ドロイトは不安気にこちらを見た。
俺は頷いた。
「もう腹はくくっている」
俺は管理人についていった。
「この絵をご覧下さい」
薄暗い密室が描かれた絵だった。窓ガラスからささやかな日光が注がれ、一点を染めていた。
「なんです、これは」
「…そちらの女性の方は、少し待っていてください。何もせずに」
管理人はこちらを見た。
「それでは、私に捕まってください」
俺は管理人の肩を掴んだ。管理人は手を伸ばし、この絵に触れた。
「…ここは」
薄暗い室内に窓ガラス。この光景はまさか。
「先程見た絵画の中です」
管理人は部屋の中央に立った。
「これから貴方は酷い目にあいます」
「ど、どういうことだ」
管理人は再び虫眼鏡を取り出した。
「この空間は何もかもが滅茶苦茶になっていて、時間も外の世界とは違うし、何より想像と現実の境目が曖昧なのです。ここでの一時間が、外の世界での一瞬です」
管理人は万年筆をポケットから取り出した。
「ここで貴方は、記憶を再現することになる」
俺は何がなんだかわからなかった。
「絵の中って…どういうことです」
管理人は目を瞑った。
「…昔、この美術館は一人の魔術師が創りました」
知っている。ドロイトから聞いた話だ。
「魔術師は人々を殺し、絵にしました」
酷い話だ。
「…天罰が下ったのでしょう。ある日魔術師は誤って自分ごと空間を歪めてしまいました」
「何」
「彼はその後、死ねない体となり、また美術館から出ることも出来ませんでした」
「…」
「そう。私です。私が、この美術館の創造者。この部屋は私がまだ未熟だった頃に誤って創ってしまった『禅の部屋』です」
お前が、と俺は呟いた。
「…さあ、思い出すのです。記憶を」
何処からともなく、ピアノが現れた。視界を外した隙に、そこにあった。
「手伝ってあげましょう」
管理人はピアノに手を伸ばした。
指をそっと鍵盤に当て、一音を弾いた。
暗い、重い一音だった。これは…
雷が落ちたような気がした。そうだこれは。思い出した、今思い出した。一瞬だけ、思い出せた。なんてことだ、何だこれは。余りにも酷すぎる。俺はこんなものを思い出そうとしていたのか。駄目だ抵抗するな受け入れろ、記憶を受け入れなければならない。これを忘れることは許されない。俺の目から止めどなく涙が溢れ出してきた。あまりの衝撃に崩れ落ちた。日光は冷ややかに俺を照らし、管理人はゆっくりと歩き去って行った。
俺は無我夢中で手を伸ばした。なにかに手を伸ばした。掌は空を切った。
どん、と重い衝撃が身体中を貫いた。吹っ飛んだ。
吹っ飛んだ先に、何かがある。あれだ。
有刺鉄線だ。
空中で少しだけもがいた。
止まらず、俺の首にそれは纏わりついた。
刺さる。
切れた。
少しずつ入ってくる。
血を吹き出す。絡まった。
くるりと回った。
そして、締まった。
管理人が絵から出てきた。
「あれ、行って戻って来ただけ?…灯葉君は…?」
管理人は絵の方を振り向いた。
「そうですね、後三秒程でしょうか」
私は絵からちょっと離れた。何か、嫌な雰囲気があった。
「三秒…まあいいや、直ぐに帰ってきてくれるなら」
管理人は首を振った。
「いいえ、百年程です。こちらの三秒は、あちらの百年です」
どうすれば良い。早くここから出なければ。
首を絞める有刺鉄線は、俺には全く操作が出来なかった。
暴れれば暴れるほどゆっくり刺さっていき、息ができなくなっていった。
死ぬ。死んでしまう。
俺は狂ったように足をばたつかせた。
とれない。
逃げ出せない。
そうわかると、俺は動くことを辞めた。
暴れることよりも、あの記憶をゆっくり整理することのほうが大事なのではないか。そう思ったのだ。
実際三十年経った頃、俺は最早痛みを感じなくなっていた。
それの胸は、紅色に光っていた。
禍々しい光を放ちながら、優雅に回っているのだ。
それは、ゆっくりと地面に落ちた。
まるで再び産まれたかのような、そんな神秘的な光景だった。
それは暫く、ゆっくり這いずった。余りの苦しさにとっくに自我を失い、彼はこうして這いずり回っているのだ。
軈てピタリと止まった。
しかし直ぐに、這いずりを始めた。
それから十年経った。
やっと、それは起き上がった。思い出したのだ。全ての記憶を。
ここから出なければ…
絵が、破れた。中から男が出てきた。
「うわっ!」
ドロイトは腰を抜かしてしまった。
「だ、誰…?何?」
その男は首を傾げた。
「ドロイト、俺は変わったか」
首元にはポツポツと穴が空いていた。
目は完全に光を失い、表情はなくなってしまった。
髭や髪はみだらに伸び、胸あたりが紅色に光っていた。禍々しい光。嫌な光だ。だけど、妙に惹きつけられる。
「彼は、完全な悪魔となったのです
管理人が口を開いた。
管理人は笑っていた。興奮している。
「右手の、あの傷。呪晶だ。何故あの傷が呪晶と呼ばれているか、わかりますか」
私は管理人を見つめていた。彼は震えていた。
「あの傷を持ってこの世界に来た人間は、皆例外なく、悪魔へと変貌したからですよ!」




