不夜城の怪人 第二八話 星条旗のもとに 17
阿鼻叫喚のサーカスアクト、燃えさかる炎のただ中、誰も彼もが恐慌していた。出口に向かって一目散に駆け出す者、腰を抜かしてただ泣いている者、それを助けようとして炎に飲み込まれる者……。
例外は五人いた。そのうちの三人はただ事態を静観している。一人は仮面の奥に薄ら笑いを浮かべ、また一人は引火もおそれずウイスキーを煽っている。最後の一人は長い脚を組んで観客席に平然と腰掛けていた。
恐慌していない例外は五人。静観している三人を除けばあと二人。
その二人は……
「たかが人間のくせに愉しませてくれるじゃァねェか! ほらよ!」
パチンッ
小柄な男が舞台の上で軽快に指を鳴らすたび炎の蛇が踊った。紅の蛇たちはうねりながら天井の一点へと飛び上がっていく。
天井に張り付いていたピエロは不気味な高笑いとともにそれを躱した。宙返りを繰り返して地上に降り立ったかと思うと、今度は壁を縦横無尽に駆け抜ける。
「オニさんこーちら! あーと二分!」
赤と緑の奇抜な衣装に身を包んだピエロを、燃えさかる火球が轟音と共に追いかけた。火球の通った跡は黒く焼け焦げ、煙が会場に充満していく。目の染みるような空気の中、ピエロの片面は笑顔を崩さない。
「ほう、ほほう!」
銀のナイフが数十本、ミナトに向かって投げられた。オレンジ色の光に彩られたそれは、迷いなくミナトの白磁のような眉間に吸い込まれていく。
パチンッ
指鳴りがひとつ鳴ると、飛来するナイフは一瞬にして融けて消え去った。
それを意に介すでもなくピエロは舞台に躍り出て、空中ブランコの鉄塔を駆け上った。そしてブランコを両手で掴むと、そのまま空中に身を放り出す。大きな弧を宙に描き、右に左にと振られていく。
口元に嗜虐的な笑みをたたえていた小柄な男は、その宙にぶら下がる目標に向かって火球を放ったが、段々と彼の大きな猫目は苛立ちに歪んでいった。
ラチがあかねえ。
その思いが込み上げてくる。彼がいくら炎を吹き上げようとも、ピエロは神経を逆なでするような高笑いとともに躱すだけだった。この広い会場の中にいる限り、奇特な赤と緑の衣装に身を包んだ道化師は壁や天井、あるいは空中でさえ自由に往き来できるのだ。ピンポイントな攻撃をあてるのは至難というものである。
「どうした、どうした? 突っ立ってるだけじゃあ捕まえられないよう? 何かしなくちゃあ!」
もはやこの血塗られた鬼ごっこの鑑賞者などいないのに、ピエロは芝居掛かった調子を崩さない。どころかそんな自分をみて自嘲的になっているフシがある。
「……うるせえ、ぶっ殺してやる!」
泣き顔と笑い顔が共存するピエロメイク同様に、悲しみと昂りの二面性を見せる道化師が腹立たしくて堪らない。そうでなくてもこの心の中は怒りで満たされているというのに。
しかしミナトの薄い唇は、アリ地獄に落ちるアリを見つめるように軽薄な笑いのカタチになっていた。
「つまりあの小僧は二重人格ということか?」
「彼」が尋ねると、ラーサーはアルコール臭を撒き散らす。炎がジリジリと白い肌を焼くようだった。
「正確には違う。小僧の人格に別の人間の人格を組み込み、状況処理を分担させている」
「どういうことだ?」
ラーサーは壁にもたれたまま、酒瓶を逆さまに向け中身を喉に流し込んだ。勢いが強すぎたのか少し咳き込むと、床に向かってよだれを垂らす。
「日常生活においては最初の、ミナトとかいう大人しいガキがあの細っこい身体を動かすようだ。例えばメシを喰うとか、クソをするとか。それから飲めるのか知らんが酒を飲む、とかな。――しかし条件が整うと今暴れている男が現れる」
ラーサーは炎を吹き上げている小柄な男を指した。
「条件?」
「条件は二つ。ひとつは重大な危機をミナトが感じること。殺されそうになる、とか知り合いがこめかみに銃を突きつけられるのを見た、といった具合だ。これがまず前提となる」
「もうひとつは?」
ラーサーの落ち窪んだ目が「彼」の目をとらえた。
「能力を使うことだ。今はどちらも満たしている。ミナトが日常を担当するのに対し、あれは戦闘用の人格だ」
炎がサーカス会場を満たしつつあった。煙が薄く充満し、床一面ほぼ火の海だった。ピエロに扮したアレックスは必然宙を飛び回り火を躱している。
「強力な能力だ。アレックスは敗れるだろう」
「彼」は薄ら笑いを浮かべながらそう呟いた。
「そう、強力な能力だな。だからこそあの精神構造にしたのだろう」
ラーサーも呟く。「彼」は問うた。
「どういう意味だ?」
「本来、ミナトという男はあの強力な能力を運用するに足る非情な精神を備えていないとみえる」
今日のラーサーはいやに饒舌だ。普段なら酒瓶を要求するところをすらすらと話しだす。
「だからこそ、他人の人格を――それも怒りの人格だけを――融合させて戦闘用人格としてあるのだろう。戦闘における非情さを完全に分離し、日常生活へのフィードバックを起こさせない。それによりあの小僧を安定した兵器として扱える」
「ラーサー貴様、今日はやけに口が軽いではないか。兵器とはなんだ?」
酒浸りの悪魔は視線を切った。
「……ふたつの人格の融合はごく近親者でしか可能とならない。これはもう推測でしかないが、今表層に現れているあの人格は、肉体の持ち主の――すなわちミナトの――兄弟だろう。人格に加えて記憶まで融合させるのはリキエルにしかできぬ芸当だ。……リキエルめ。非情なことを平然とやりやがる。なにが友人だというのだ」
ラーサーは唾を吐き捨てると、身を起こして燃えさかる観客席に向かって怒鳴った。
「リキエル! お前は繰り返そうというのか!? 俺はもう戦争は御免だぞ!」
叫ぶラーサーを横目に「彼」は奇妙な感慨に浸っていた。ここまで感情を発散させる悪魔を初めて見たからだ。
しかしそんな感慨を無視していれば「彼」は気づくことができたかもしれない。
能力を意図的に『選択する』ことができるかのように、ラーサーが話していたことを。ミナトをまるで、田沼が思いのまま都合のいい能力者へと創り上げたかのように話していたことを。
アレックスは道化師の仮面の隙間から、サーカス場最後方のデジタル時計の表示を確認した。煙がかってよく見えないが、緑色のLEDで閉幕まであと一分だということがわかる。それはすなわちミナトの生命の時間である。
何もかもが終わってしまう。
天井に立ち上がるとアレックスはせき込んだ。涙のしずくが額に向かって垂れていく。煙が目に染みるのか、友人をを殺してしまうからなのか、あるいはその両方か? これが何の涙なのかもう自分ではわからない。きっと心が枯れているのだろう。
頭上に広がる景色を見渡す。一面火の海だ。コウモリのように天井に立つ自分に向かって、煌々(こうこう)と燃えさかる炎が伸びている。まるで自分を捕えようとする悪魔の触手のようだ。観客はいつの間にかすべて逃げ去り、空席となった客席が虚しく煙をくすぶらせている。
いや、一人だけ座っている者がいる。燃える客席の真ん中で、平然と、あるいは優雅に腰掛けている。誰かは知らない。だけどきっとミナトが日本から連れてきたという魔本の悪魔だろう。
そのミナトはどこだろうか? 道化師は広い会場内をぐるりと見渡した。焔色のカーペットが広がり、その上を灰色の煙が埋め尽くす中、一隅だけがまるで聖域のように炎に侵されていない。澄んだ空気がそこにだけはあるようだ。
道化師はその聖域のような一隅を見つめた。煙のせいか視界がゆがむ。それでも目を凝らして炎の地獄からその天国のようなその一隅を見つめた。
「まだ生きているのかい? だったら向かってこなきゃいけないだろう!」
ミナトは辛うじて生きている。その天国のような一隅で血のため池を足元につくってまだ生きている。鼻から流れ出たその血の量は、残り時間が少ないことを如実に表している。
しかしミナトの眼は鋭い。彼はまだ精神的に死んでいないようだ。
「なあに、テメエを始末する準備が整っただけさ。死ねピエロ野郎!」
パチンッ
指鳴りとともに銃弾のような火球が飛んでくる。アレックスは天井を走ってそれを躱した。心なしか足元がおぼつかない。きっとずっと逆さまに立っていたからだろう。
そう思い立ってとんがり靴の電磁石をきって、煙がくすぶる宙に向かって足を蹴りだした。否、蹴りだそうとした。
踏ん張りが効かない!
アレックスは電磁石を切ったとたん、赤く燃える観客席へとそのまま真っ逆さまに墜落していった。
炭化していた客席がクッションになったのか、痛みはそれほどない。しかし身体が全く動かない。炎に包まれ、ピエロは飛べなくなった鳥のように這いつくばっている。奇怪な笑顔を張り付けた仮面が軽薄な金属音を立てて床に転がった。
手足がしびれ始めていた。目もかすむ。なにより異常なのは自分が上か下か右か左か、どの方向を向いているのかわからないことだ。突然に地球の自転を感じるかのように、めまいに襲われて三半規管が馬鹿になっている。これも天井から落ちたせいなのか?
「ようやく墜ちてきやがったか。ギリギリだったぜ」
小柄な男がどこからか歩いてくる。前なのか後ろなのか。確実なのはそれが自分の眼のついているほうだということだけだ。
「鳥みてえにチュンチュン飛び回りやがるからよ、間に合わねえかと思ったぜェ。鼻血も止まらねえし……。たしかテメエに触ればいいんだったか?」
鈍い痛みが鼻っ柱にたたきつけられた。鼻から鉄の匂いが吹き抜ける。どうやら鼻の骨が折れたらしい。
「おっ、止まった止まった。これで俺は死なねえですむってことだ。ん? 今度はテメエが鼻血を出す番だな。よくでてるぜピエロ野郎。間抜けな顔にお似合いだ」
こいつは誰だ?
アレックスは奇妙な違和感を覚える。ミナトはこんな言葉遣いをする男ではなかった。しかしまわる視界のなかでじっと目を凝らしても、目の前にいる男はミナトにしか見えない。
「睨むなよ。照れるだろうが。どうして動けないか知りたいらしいな」
「……知りたいのはそんなことじゃない……」
「いいから話させろ。苦労してテメエをそこに這いつくばらせたんだからな」
ミナトはこんな目つきをする男ではなかった。目の前の男の瞳は愉悦感で満たされている。これから話すことに興奮しているようだった。
「いいか? テメエはどう思ったか知らねえが、俺は闇雲にそこら中を燃やしまくってたんじゃねえ。こいつは作戦だったんだ」
選手に説教するバスケットのコーチのように彼は指先をこちらにむけた。
「俺はまず床から燃やしたんだ。テメエが下に降りてこられねえようにな。なぜだと思う? ……おい返事くらいしろ、話がいがねえだろうが」
ミナトの姿をした男はこちらの襟元を両手でつかむと軽くゆすった。
「まあいい、聞け。結論からいうとテメエが落っこちたのは一酸化炭素中毒のせいだ」
ああ、そういうことか。
男はアレックスを投げだすと、天井に向かって独り言のように話しはじめた。
「燃えた床から発生した煙は対流によって天井に運ばれる。つまりテメエがチュンチュン飛び回ってた天井に一酸化炭素も昇っていくわけだ。テメエはそうとも気づかずにそれをどんどん吸い込む。一酸化炭素中毒患者のいっちょあがりだ。目がかすむだろう? 手足もしびれてるんじゃねえか? そいつは疲労じゃねえ。俺の策略だったのさ」
急に男がこちらに向き直った。
「さあ、死んでもらおうか。俺をこけにした罰だ」
指を鳴らす形にされた手が目の前にさしだされた。これはこのサーカスアクトを燃やし尽くした手だった。次に燃やされるのは自分だ。
「最期にひとつ、いいことを教えてやる。俺の名前は興梠マナト。弟のミナトじゃない。いいか、お前を殺すのはマナトだ」
僕は死ぬ。それはもう避けられない。だったら……
「待ってくれ……! どうせ死ぬなら最期に、ミナトに会わせてくれ! どうしても言わなくちゃならないことがあるんだ!」
声が出づらい。煙が肺から出るような違和感がある。
「そいつは無理だ。お前は今すぐ死ね」
「だったら君がミナトに伝えてくれ……! どうせ死ぬのなら「彼」について知っていることを全部話たいんだ!」
アレックスはできる限りの大声をだした。広い会場内にそれは反響したりはしない。目の前の男に届いたかもわからない。だけど今出せるだけの大声だった。
目の前の男が頭を抱えて苦しみ始める。
「……おいやめろ! いいところなんだ。俺の邪魔をするんじゃねえ!」
ぐるぐるとまわる視界の中で小男が暴れだす。頭を抱えて左右に振ったかと思うと、うずくまって低くうなりだした。
「……邪魔するな……、お前じゃ勝てそうにないから……、俺を呼んだくせに……。終わったら交代だなんて、ミナト、お前はひどい野郎だ。弟のくせによぉ……」
かすれた声でそれだけ言い残すと、ミナトの姿をしたマナトという男はパタリと倒れた。しかしすぐに起き上がると「アレックス!」と叫んだ。
「アレックス! ごめん、ごめん……!」
黒く大きな瞳を濡らし、何度も何度も謝ってくれる。これは間違いなくミナトだ。
「いいんだミナト。先に裏切ったのは僕なんだから……」
そういった言葉はかすれていた。この命ももう長くはない。報いだろう。
「大丈夫、漆間くんならまだ助けてくれるはずだ! だから一緒にいこう」
ミナトはそのか細い腕でアレックスの身体を支えようとする。しかし彼の身体にたまった疲労も相当なもので、引きずるのが精いっぱいだった。
「せめて空気のきれいなところまで……!」
「ミナト、いいんだやめてくれ。それよりも僕は約束を守らなくてはいけない。「彼」について話すよ」
アレックスは静かに目を閉じた。これを話してしまえば、負けてしまった自分だけじゃなくて妻のシェリーまで殺されてしまうかもしれない。だけどもうこれ以上、「彼」の思い通りにさせてはいけない。「彼」のせいで運命を狂わされた人たちはもう数えきれないほどになっている。それに案外、自分の利用価値がなくなればシェリーは助かるかもしれない。
「ミナト、耳を貸して」
泣き出しそうな目をしたミナトは首を振ったが、「お願い」と優しくつぶやくと、左の耳を口元に近づけてきた。
「絶対に「彼」を殺してくれ。先生はやってはいけないことを繰り返している。恩人だけど、恩人だったけど、もう僕は死ぬ。聞いてくれ。特徴は雪のように真っ白な髪だ。「彼」の名前は……」
傷ついたアレックスの言葉が鼓膜をゆらしたとき、空気を切り裂く音が鳴り響いた。不意にアレックスが僕の両肩を掴む。息が荒い。ふとアレックスの顔を見ると、さっきまでの安らかな顔は消え去り、額に汗して必死の形相である。
「なにこれ……?」
アレックスの身体を支えていた自分の手を見ると、赤い血がべっとりとついている。
誰の血?
自分に痛みはない。だったら……
「アレックス!」
アレックスは腹から血を流している。なぜ? いつ?
「ミナト、名前はさっき言った通り……、だ。最期になる。「彼」の能力は……」
銃声が二度響いた。
「余計なことをいうな負け犬め、お前はもう用済みだ」
「アレックス、アレックス!」
肩を力強くつかんでいた手がだらりと力なく垂れ下がる。目は虚ろに明後日の方を向き、口元から血を垂らしている。
「うそでしょ、なんで? アレックス!」
アレックスは死んだ。ミナトに「彼」の名前を告げて。
「貴様、いい能力を持っているな。どうだ? 私の部下にならんか?」
銃口から煙が揺蕩う銃を持った男がいつの間にかいる。痩身のその男は銀の仮面をかぶり、わずかにみえる口元は笑っている。
「お前が殺したのか!?」
「その男は触れただけで脳梗塞をおこさせることができるという非常に暗殺向きの能力を持ちながら、貴様に真っ向勝負を挑むような馬鹿だよ。軟弱だったのだ」
白いシャツを着た痩せたその男は、雪のような真っ白な髪をしている。
「それに私はリキエルが欲しい。貴様はラーサーをさがしに来たのだろう? 利害が一致していると思わんか?」
ラーサー? それは田沼に聞いた魔本の悪魔の名前だ。
「お前が「彼」……か?」
呆然と、ミナトの口からそれだけがこぼれた。白髪の男は、薄ら笑いを浮かべると、
「巷ではそう呼ばれているらしいな。そう、私が「彼」だ」
悪びれるでもなく、堂々たるさまで両腕を左右に広げて「彼」はそう答えた。その背後では炎が赤く燃えている。
「それなのに、それなのにお前はアレックスを殺したのか!?」
「そうだ。弱者に用はない。裏切り者にもな」
「アレックスは、アレックスは、全部お前のためにやってたんだぞ!!」
怒りのままにミナトは指を構えた。目の前の男がすべての元凶だ。不幸にもアレックスが殺人を繰り返したのも、自分とアレックスが殺しあわねばならなかったのも、すべてこの白髪の男が原因なのだ。アレックスを殺したのもこの男なのだ。
「お前のようなやつがいるから殺人がなくならないんだ! 死んでしまえ!」
力を込められた指を鳴らそうとしたとき、突然、流水が中に飛び込んできた。サイレンの音が響き渡る。白い水蒸気があたりに立ち込める。炎が急速に静まっていく。
「チッ、消防が今頃きたか……。まあいい。貴様、私はフリーモントストリートエクスペリエンスにて待つ。私が現れるのは夜だ。待っているぞ」
そう言い残すと、「彼」は水蒸気とともに消え去った。まるで初めからそこにいなかったかのように。
ミナトは中に飛び込んできた消防隊員に抱きかかえられて、地獄と化したサーカスアクトをあとにした。アレックスの遺体とともに。
ミナトはアレックスのつけていたピエロマスクを形見のように抱えて放さなかった。




