不夜城の怪人 第二七話 星条旗のもとに 16
「皆さま、当機は着陸に備え高度を下げてまいります。お座席、テーブルは元の位置にお戻しになり、シートベルトをご着用ください」
CAのたおやかな声に目を覚ます。もうすぐ羽田に着くらしい。私はというと、イヤホンを耳栓代わりにどうやら眠っていたらしかった。隣をみやると、田辺君もどこかのタイミングで眠ったらしく、彼はまだ起きてはいない。ただテーブルを出しっぱなしだったので元の位置に戻してあげた。降りる直前に起してあげればいいだろう。
腕をぐーっと伸ばして伸びをした。椅子で眠ると背中が痛い。何気なく反対隣りを見る。綾崎も眠っていた。こちらは起きるはずもない。麻生の能力で眠らされているのだから。乗せるときもそうだったが、降りるときも田辺君の手を借りなくては。
「んっんぅ……」
鈴木は耳を疑った。
綾崎がくぐもった声を上げたような気がしたのだ。
そんなはずはない。そんなはずはないのだ。
「あれ、ここどこ……? 飛行機……、か……?」
驚くべきことに綾崎は眠い目をこすり目を覚ました。
パパチンッ
鈴木はすぐに綾崎が指鳴らしをできないように指先の摩擦係数を操作した。ツルツル滑って音などならないだろう。しかし問題はそこではない。
「綾崎、君はなんで目が覚めた?」
胸騒ぎがする。麻生が健在であれば目など覚めるはずもないのだ。
健在であれば……。
そろそろだな。
グランドキャニオンの谷中に吹く風が異様に冷たかった。防弾ベスト越しに伝わってくる土の感触も固く冷たい。仕事の前はいつも寒い。ここが砂漠だとか、日が陰っているとか、季節が秋だとかは関係がない。そんな些末なことで寒いのではない。寒いのはこんな仕事をしなければならない俺の心だった。
はるか遠く、一キロメートルほど遠く、スコープの中にとらえられているのは一組の男女である。男の方は資料を通してしか知らない男だ。危険な男で『死神』と呼ばれているらしい。
女の方は知人である。より正確に言うならば同僚、そして上司であり、完全に正しい表現をすれば、今回の仕事のターゲットだ。
麻生清美警視正。警視庁公安部公安五課特殊事件対策室、通称、『妖隊』の室長。在任二年。
彼女の功績は巨大すぎた。
いわゆる能力者のスカウトを効率的に行うために、携帯キャリア各社と連携しスカウト対象に限りGPS情報を提供させることに成功した。
また、特殊事件対策室の本来の目的である能力者のスカウトでも一定の功績をあげている。
それまでの――つまり麻生の室長就任以前――スカウトはあまりに苛烈だった。以前までは、対象者を無理矢理連行したうえで精神的、肉体的リンチにより協力を要求すること、これをスカウトとよんでいた。ちょうど嶋野と千田がミナトに行ったものがそうである。これはスカウトに応じなかった者は精神を病んで廃人となるか、肉体の損傷が祟って――ある者は死亡時に眼球が一つ行方不明になっていたり、またある者は手足含めて二〇本の指すべてが切断されていた――死亡するという悲惨な結果を生んでいる。またスカウトに応じて警察官となった者もスカウト時のリンチがPTSDとなり自殺したり、逆にその悲痛な経験を自分のスカウト対象者に実行し、自身の恨みを晴らそうとするなど、非効率で目的意識過少、復讐心過剰の行動が目立った。その結果、スカウトのための拘束まではすんなりとすすむものの、実際の能力者警官はなかなか数が揃わなかった。それもこれも皆死んでいくせいだった。また、警察が拷問を行っている、という不名誉な噂が能力者たちの間で盛んに行き交い、生命の危機を感じた能力者による犯罪シンジケート、『王国』の誕生の遠因ともなっている。
この負のスパイラルを麻生は払拭した。まず彼女が取り掛かったのはスカウトマニュアルの作成である。それまで個人の裁量に任されて、挙句の果て精神的、肉体的リンチと成り下がっていたスカウト業務を、マニュアルに沿って行うことにより健全化した。これにより主に能力者警官の精神が安定し、自殺者と不名誉な拷問者は激減し、能力者は勇気と誇りを持った警官となった。飛躍的にその総数も上昇し、今や日本全国に能力者警官を派遣するほどになっている。
これは警視庁という東京都の組織としては異例のことであり、特殊事件対策室は警察庁にその組織を異動の上、『室』から『課』への格上げが噂されている。
このころからである。特殊事件対策室、特に麻生警視正の率いる能力者軍団が上層部から『妖隊』と呼ばれるようになったのは。
上層部、特に川藤の直属の上司である警視総監、若島津は『妖隊』を危険視した。警察組織内部で急速に勢力拡大を続ける麻生を危険分子とみなし、またその配下である能力者軍団を自身の手駒にする方法を探っていた。
その結果がグランドキャニオンでライフルのスコープを構える川藤につながるのだ。
「どうか恨まないでください麻生室長。この数日でわかったが、あなたはきっといいひとだ。しかし私はあなたを撃たねばならない」
若島津警視総監は漆間のラスベガス逃亡をきっかけに名案を思い付いたのだ。
それが麻生清美暗殺である。
どうやら『死神』と麻生の戦いが終わりを迎えたようだった。
川藤はライフルのスコープを覗き込む。チャンスは一度きりだ。以前、病院前でマゼンタとシアンと戦ったとき、麻生はシアンに麻酔をかける際にキスをした。唇が重ねられる瞬間に、麻生が目を閉じるということを川藤は確認していた。つまり、麻生が目を閉じる瞬間は外敵に対して無防備になる瞬間であることを意味する。麻生を殺すという命令を実行できるのはその一瞬しかない。
麻生は川藤には自分が敗北したときにそれを報告するよう命じただけだった。それは川藤に対する不信感を表していたがこの際は関係がなかった。
漆間の老いた身体が持ち上がる。スコープの中で男女の顔と顔が近づいていく。川藤はライフルの引鉄をためらいもなく引いた。
血霧の谷に銃声が鳴り響く。しかしライフルの弾は音よりも速い。その音が二人の鼓膜を揺らすのは麻生のこめかみに銃弾が吸い込まれたあとである。
川藤はまだスコープを覗いていた。スコープの中で男と女は儚かった。男は直面した恐怖に震え、女は何も知らずに死んでいく。
女の頭から血が噴き出した。蛇口を捻って水が出ることほど当然のように、ぴゅーと鮮血を吹き上げた。女は膝から崩れ落ち、その上に男が折り重なった。糸が切れたマリオネットのように悲劇の幕が下りていく。
「お前にも死んでもらう」
川藤はもう一度ライフルを構えなおす。老人になって倒れ伏している漆間も危険な存在だった。ここで殺さなければのちのち必ず災いとなる男だった。引鉄を引く、銃弾が男を貫く、これで終幕、そのはずだった。
遠くからサイレンの音が鳴り響く。警告灯がわずかに残った青い空を朱色の輝きで染め上げる。
「警察だと? 誰が呼んだ?」
確かめる余裕はない。この谷にまもなく警察が殺到する。
捕まるわけにはいかない。
つまりは逃げるしかない。
「運のいい男だ。それとも運が悪いのだろうか?」
漆間を撃つような余裕はもうない。というより撃っていたら逃げる時間がない。
川藤は素早く撤退の準備を整えると、足音も立てずに立ち去った。
目的は果たしたのだ。なんの引け目があろうか? 人を殺してしまった以外のなんの引け目があろうか……。
背筋に悪寒が走ったのは気のせいではない……。
絶体絶命の危機、美しい女性の整った顔が近づいている。口づけをかわそうとする彼女の閉じられた目を縁取るマツゲが長かった。逃げようにも逃げられない。腕は力なく垂れ下がり、脚は自分の体重さえ支えられない。漆間の全身は寝たきり老人のように老い疲れ果てていた。
柔らかい唇がそっとふれてきた。
終わりだ。
そう思ってぎゅっと目を閉じた瞬間、事態は急転直下で変化した。
自分の唇に触れていた女の唇が下にずれていく。あごにキスしたかと思うと、柔らかな感触が消え去る。漆間の身体を支えていた力は霧消し、どさりという音とともに顔にシャワーのような温かいものが降りかかってくる。
目をあけた。
麻生という女が倒れている。こめかみから勢いよく赤い血を吹き上げながら倒れている。赤い血が漆間の頬にあたっていた。
死んでいる。目の前の女が死んでいる。つい数瞬まえまで生きていた女が死んでいる……!
この血は浴びてはいけないはずだった。少し触れただけで麻酔のように感覚が麻痺する能力者の血液だった。しかし今、この血を浴びた顔は麻痺していない。血の温かさを感じるうえに、勢いよく当たった血で肌が押される感覚をも鋭敏に感じ取っている。
ダメだ。身体を支えられない。
麻生の死とは関係がなく、漆間の身体は老いていた。それも自分の身体では立てないほどに。漆間の身体は前のめりに倒れていき、死んだ麻生の身体に折り重なった。
サイレンの音が聞こえていた。しかし意識が急速に遠のいていく。疲労と老いと衝撃と。
「誰だこの爺さんは?」
「知らん。その下の女は死んでるぞ。アジア人同士がコソコソと辺境で何をしていやがる」
グランドキャニオンで殺人事件が起きようとしている……。
謎の通報を元にサウスリムのハーミッツレストまでバロック保安官はやってきたのだった。
グランドキャニオンでの殺人事件はそれほど珍しいことではない。しかしそのほとんどは被害者が死亡して数日経ったあとに腐った死体、あるいはそこに生息する肉食獣に食い散らかされた破片と骨が観光客に見つかるのみである。それらは自殺者や、元から死体として捨てられたり、そうでなければ周到に計画された殺人の結果であり、殺人の途中に見つかることはまずない。グランドキャニオンに来たときにはほとんど死んでいるのだ。精神的な死も含めて。
その点を鑑みるに、自分たちがこの血で染められた谷にくる原因となった通報は異例だった。通報の内容を詳述すると次である。
『若い男が、年増の女に撃ち殺されそうになっている。急いで助けにきてほしい』
実際にはもっと切羽詰まった物言いだったらしいが、バロックが電話をとったわけではないのでそこまでは知らない。それよりも気になるのはその内容である。
通報では若い男が被害者であるようだが、実際に死んでいたのは女である。しかも年増とあるが、どう見ても二◯代後半といったところだ。年増と言うほどではない。通報者は子どもか? それに死んだ女に覆い被さるようにして意識を失っているこの爺さんは何者か?
どうやら少なくとも三人、いや通報者を含めると四人が事件に関与しているようだった。
「やれやれ……」
これからの苦労を思うと思わずため息に似た言葉が口をついて出た。しばらくはこの件で頭を悩ますことになるのだろう。
そう悲観したバロックだったが、ほどなくして彼はこの悩みから解放される。事件の解決という形ではなく、空軍の介入という形によって……。




