不夜城の怪人 第二六話 星条旗のもとに 15
「久しぶりですねラーサー」
「帝国標準語で話せ」
この奇妙な会話の意味を理解できたのは会話の主の二人だけだった。帝国標準語とは一体なにか? それは銀の仮面をいつの間にか被った「彼」すらも知らない。
しかし舞台が炎の壁に包まれ、ピエロと鬼ごっこの“鬼“の姿が見えない今、たとえ理解できないとしても観客は二人の悪魔の会話に耳を傾けるしかなかった。
とはいえ銀の仮面を被った男のせいで、それすらもこの劇の演出であるかのように思えたのも事実である。
ここから先の言葉は田沼、ラーサー、「彼」しかその内容を聞き取ることができなかった。「彼」が帝国標準語を理解できたのは、「彼」が魔本の能力者となり言語能力の福音を得ていたからである。
「リキエル、あれが貴様の兵器か」
「本当に久しぶりですねラーサー」
二人の悪魔の姿は対照的だった。
「随分と貧弱な兵器だな。ヒトを見る目が狂ったとみえる。あんなチビとは。おまけになんだ、あの精神構造は? リキエル、お前がやったのか?」
馬鹿にしたように吐き捨てるラーサーの姿は不健康そのものである。全身からは匂い立つようにアルコール臭が漂い、目は落ち窪んでクマがひどい。体肢は痩せこけて飢えた肉食獣を思わせる。
「ミナトは友人ですよ」
一方のリキエルと呼ばれる田沼は清潔な紳士を思わせた。整った執事服を身にまとい、赤く細いタイを丁寧にちょうちょ結びで結んでいる。丸メガネの奥のキツネ目は鋭くつり上り、同じくつり上がった口角の口元は微笑をたたえていた。
「“オーディン”を見捨てろと言った男の言葉とも思えんな」
しかし二人の容姿と表情は、不気味というただ一点においては共通のものだった。
「ヒトは変わるものです」
ラーサーの中傷に田沼はただそう答える。
しかしラーサーは「俺たちは悪魔だ」と素っ気なく答えたのみだった。
「何を意味ありげな会話をしている。私に理解できるよう説明しろ」
それまでただ二人の会話を聞いていた「彼」がしびれを切らしたようにラーサーの胸ぐらを掴んだとき、舞台から轟音が鳴り響いた。鉄塔が悲鳴にも似た唸り声をあげ、炎の化身となり観客席へと倒れ込んでくる。それまでは傍観者でしかなかった観客は自分が事件の当事者であることを知った。炎で赤く染まる劇場に狂喜乱舞の悲鳴が轟く。
炎のカーテンの向こう側、舞台上では一体何が起きているのだろうか?
「これで外にはこの中の会話が聞こえない。アレックス教えてくれ、一体何があったの?」
田沼とラーサーが数千年ぶりの再会を果たしていたとき、炎に包まれた舞台上でミナトは床に鼻血を滴らせながら天井に立つピエロに話しかけている。高鳴る胸の鼓動は何のせいだろう? 走りまわったせいか? ピエロの能力のためか? それとも無理やりに抑え込んだ彼の内に眠る「男」のせいか?
「話して。でないと何もわからないよ」
半ばくぐもった声でそれだけのことをやっと絞り出すと、今度は目から雫が落ちた。血の水たまりにぽちゃりと波紋をつくると、波を引くように消え去った。
「説明はする」
アレックスはそれだけ発すると、靴の電磁石の電源を切って天井から地上へと軽やかに降り立った。
「君を殺さないとシェリーが殺される」
そう呟くと、アレックスは笑い顔の半仮面をとった。ピエロの奇怪なアルカイックスマイルの下にあったのは泣きじゃくってボロボロになったアレックスの素顔だった。
「全部「彼」にバレていたんだ。もうおしまいなんだよ……!」
アレックスの顔を見つめるミナトは奇妙な感覚に陥っている。目の前のピエロは泣いている。しかしその涙の半分は偽物の涙だ。泣き顔のメイクを施した片面は一筋の涙も流してはいない。大きなティアドロップ型の涙の粒が描かれているだけだ。一方、笑い顔のマスクの下から現れた素顔にはとめどない、紛れもない本物の涙が溢れ出ている。
なにかが奇妙だった。その涙は本物か? 本物ならば何故片側からしか流れないのだ?
「なら「彼」を殺せばいい。僕を殺す必要なんてないだろう?」
鼻血がダラダラと流れていく。生暖かい。
「ダメなんだ。ここに「彼」がいる。「彼」は不意打ちでないと殺せない……」
泣きじゃくってアレックスは嗚咽を漏らしている。どう見ても本物の涙だ。自分は何を疑っているのだろう?
「一体「彼」って何者なんだ? 能力は?」
ミナトがそう質問したとき、アレックスの嗚咽が止まった。
「「彼」は僕の先生だった。僕の今の生活全てに恩義がある。バレてしまった以上、裏切れない。シェリーを守る為にも。だから……」
アレックスは半仮面を再び身につける。口角が大きく釣り上がり得体の知れない笑みを浮かべた。ふわっと跳び上がったかと思うと、そのまま後方宙返りを繰り返し空中ブランコにつかまり鉄塔へとふわりと降り立った。
「このピエロを捕まえることができれば、全てを教えよう。僕かミナト、どちらでもいい。いつの日か「彼」を殺す日のために今日は敵となろう。残り時間はあと五分。全力で逃げさせて頂く」
ピエロはそう告げると、奇怪な笑い声を響き渡らせた。せせら笑いのようであり、泣き声のようであり、複雑怪奇な男の心情をそのまま表すかのような笑いである。
――もういいだろ? 俺の出番だ
その笑い声を聞いたとき、かろうじて保っていた理性の糸がプツンと切れる。目を閉じたミナトは糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。それは白磁でできた人形のようだった。
しかしすぐに立ち上がる。今度は嗜虐的な瞳を妖しく光らせ、象牙細工のような男が立ち上がった。
パチンッ
鉄塔がオレンジ色の炎を吹き上げる。燃えさかる塔は身をよじるような金切り声をあげている。ねじり切れるように塔は倒壊していく。
「お前を殺す。そして「彼」とやらも殺してやる」
赤い目をしたミナトはそう告げると、一瞬驚きを顔に張り付かせたピエロに向かって駆けて行った。
「これが一三本目の血よ。そろそろ限界なんじゃない? あなた随分老けたもの」
漆間は血に染まった谷底で、肩で息をしていた。触れると崩れそうなほどに乾いた皮膚には、例外なく深いシワが刻まれている。
未体験領域だな。
老いてダルダルになった皮膚を見て心の中でそうつぶやく。自分の顔を見られないので正確には分からないが、おそらくは八十代の老人のような顔をしているだろう。
息を吸い込むたびにひゅうと喉の奥から風の音がした。肺と気管支が正常に機能していない証拠だった。心臓の拍動は一定のリズムを守らずに奇怪な三拍子を紡いでいる。
呼吸は荒い。膝が笑う。腰が泣く。全身すべてが悲鳴を上げている。老いとはかくも怖しいものなのか?
そんな考えが浮かんだ自分を鼻で笑う。
俺には関係ない。
漆間は周囲の赤い岩石地帯を見渡した。正確には自分が逃げ回った敗北の軌跡を目で追った。一二回目に血を浴びたときにいた場所から、一一、一〇、……と続き、最初に女の血を浴びせられた場所に視線を移した。そこにはくびれた腰に手をやりけだるそうな黒髪の女が立っている。
漆間はシワだらけの頬でにやりと笑った。
漆間の能力は右手と左手に分けられる。右手は生命力を奪う。左手は生命力を与える。生命力とは生物が等しく備える生命活動を支えるエネルギーであり、食事等で当たり前にやり取りされる生物全体に循環するものである。
漆間の能力はその生命力を強制的に奪い、与える能力で、極論すれば、食物連鎖の頂点のライオンから奪った生命力を、野原の雑草を育てるために使うこともできるのである。
漆間は麻生という女から逃げ回る間、慎重にコートのポケットに忍ばせておいたミントを少しずつばらまいていた。砂漠に草木は芽生えない。吹けば飛ぶようなわずかな雑草。しかしミントという雑草は苛烈ともいうべき繁殖力を持っている。そこに漆間の生命力が注がれればどうなるか? 彼は今、それを示そうとしている。
「観念しなさい。今なら無傷で連れ帰ってあげる」
反撃の準備が整ったとも知らずに黒髪の女、麻生は憐れみからかクスリと笑った。
「観念するのはお前の方だ」
漆間がしゃがれた声でそう言うと、麻生は眉をひそめる。しかし漆間が地面に左手をあて、ミントの切れ端をつまみ上げると、表情が少しこわばった。
「お前の生命力をいただこう。残りの生命力、すべて注ぐぞ!」
左手の輝きが谷中を白く照らした。眩い白光は漆間の命の輝きそのものだった。これ以上漆間は老けられない。すべての生命力を彼は左手に握られた粗野な雑草に注ぎ込む。
すると、しおれた情けないミントはみるみる水気を取り戻し、みずみずしい生きた植物へと変わっていく。ミントは急速に成長をはじめ、漆間のばらまいたミントの切れ端へとどんどん伸びていく。ミントとミントは繋がっていき、大きな緑の帯を形成していった。帯もまた伸びていき、成長を繰り返しながら麻生の足元へと追いすがった。
「なにこれ!?」
麻生のすらりとのびた美脚に絡みついたミントはなおも増殖と急成長を続けた。黒のパンツスーツはあっという間にミントに覆われ、鮮やかな緑へと変貌していく。くびれた腰を侵食するように緑の葉は伸び、彼女の下半身を覆いつくした。
「醜いシワともおさらばだ」
息も絶え絶え、地面に横たわった老人漆間は、生命力を奪う黒い右手で、ミントの端を掴んだ。そのミントは帯となり、はるか遠く麻生の腰から下を覆いつくした緑のミントとつながっている。
つまりはミントの帯を、生命力を奪うための導線としたのだった。漆間の黒い右手は、対象と接触していなければ生命力を奪うことができない。本来、ごく近距離でしかその能力を発揮できないという弱点があった。しかし、絡み合ったミントの帯という生物を媒介すれば、遠くの対象の生命力を奪うことができるのである。ミントはさしずめ生命力を漆間へと運ぶ維管束のような役割を果たすのだ。
黒い右手に掴まれたミントの端は、少しだけ萎れてしまった。端から順に、ミントの帯は次々に萎れていく。それは漆間の「奪う」力がどこまで達したかを表すようだった。「奪う」力は加速していき、ついに麻生の足元へと数歩というところまで迫った。黒髪の麻生は迫りくるその力を恐れるように身もだえ、下半身に絡みつくミントから抜け出そうともがいたが、ミントは頑として麻生の美しい脚を放そうとはしない。彼女の表情が恐怖から恐慌へと転じようとしたその瞬間――
麻生清美はにやりと笑った。
「なんてね」
白いブラウスの隙間に手を入れ、柔らかな胸の谷間から何かを取り出した。
カチッと機械的な音がした。
メラメラと揺らめく炎が点いた。金属製のライターだった。
それを目の前のミントに向かって投げる。すると彼女に追いすがっていた緑の帯は一瞬にして燃やし尽くされた。炎が勢いよく上がるでもなく、地面を焦がすでもない。それは儚い夢のように一瞬にして消え去った。漆間の最後の希望とともに。
「鈴木に竹の檻が急にできた、と聞いたときからこのことは予想できていたの」
パンツスーツに残った哀れなミントの灰を片手で払いながら麻生は言った。特に誇るでもなく、淡々とした語り口だったのが余計に絶望的だった。
「おそらく漆間、あなたの能力は生物の成長と老化を自在に操ることができる能力」
美しい敵は自らの血に染まった谷を一歩一歩と老いて衰弱しきった漆間へと近づいてくる。漆間にはもう指一本動かす体力すら残っていなかった。グランドキャニオンに響く足音は絶望の音色。
「そして先の例からわかる通り、あなたは植物を用いる。植物を攻撃に使ってくる可能性は高かった」
麻生が漆間の頭の先で立ち止まった。
「植物なら対処は簡単。そもそも植物の生えていないグランドキャニオンに呼び出せばいい。ここならば周りに利用できる植物はなく、その黒い右手でエネルギーを補給することはできないしね」
右手の手首をつかんで無理矢理に立たされる。ギリギリと締め付ける手は力強い。
「万が一、植物を持ち込んでいたとしても、それはポケットに収まるだけのものでしかない。――つまりあなたが一生懸命にばらまいていた雑草よ。これってミント? 歯磨き粉みたいなにおいがするもの」
気が付くと麻生の整った顔が目の前にあった。猫みたいに大きな目を縁取るマツゲが長いのがやけに印象的だった。
「次に目が覚めたとき、あなたは日本よ」
目を閉じて、とさざ波のような声でささやくと、静かに目を閉じた女はゆっくり顔を近づけてきた。互いの息がくすぐったい距離感で柔らかそうな唇が近づいてくる。
しわくちゃな男と麗しい女の唇が重ねられようとしたそのとき、血霧の谷に一発の銃声が鳴り響いた。




