不夜城の怪人 第二五話 星条旗のもとに 14
「オーニさーん、こーちら! っほら、捕まえてごらんよぉ!」
「くうっ、ふぅっ……、ハァハァっ……!」
天井に立ち、壁を走り、空中ブランコが雄大な弧を描く。舞台上を縦横無尽に翔けるピエロは、必死で追いかけるミナトを小馬鹿にしたように大きな身振りで煽り立てている。
舞台端のブランコの台の上でおふざけを繰り返すピエロを捕まえようと、金属製のはしごを駆けのぼり、ピエロの尖った靴にあと一歩、というところまで手を伸ばす。しかし緑と赤の奇抜な格好をしたピエロは足をあげコミカルにそれを躱すと、ブランコに乗って反対側の鉄塔へと去ってしまった。それを見た観客席からは大きな笑いの波が、ドッと湧く。息を切らし必死に追いかけるミナトはその嘲笑を一身に受け止めなければならなかった。
「どうしてなんだ、アレックス……」
とめどなく流れる鼻血をハンカチで抑える。純白だったそれは今やもう赤いハンカチへと塗り変わっている。このままいくと、アレックスの言った能力より先に出血多量で死ぬんじゃないか、そう不吉な想いがよぎるほどだった。
現実はもっと不愉快である。
アレックスの能力は脳梗塞を起こさせるもの、らしい。このままいくと、ミナトはちょうど公演が終わるとき――時間にして約八分後――に急死を遂げる。舞台上にあがったときアレックスはそう耳打ちしてきた。
それは完全犯罪である。側から見れば、ミナトは突然倒れて死んだ、ということになる。誰もそのとき側にいたピエロが脳梗塞を起こさせたなどと信じないだろう。第一、脳梗塞を人為的に起こせる手段があるなどと疑うものなどいない。アレックスの能力は暗殺に最適の能力だった。
「わからないよ、どうして突然こんなことに」
泣き出しそうに潤んだ瞳は、天井の照明にぶら下がり挑発するピエロに焦点を結んだ。
「僕を騙していたのかい?」
一体どこまでが本当だったのだろう? ミナトを家に招いたときからこの命がけの鬼ごっこは計画されていたのだろうか? 「彼」とは実在するのか? 妻のシェリーが人質というのも嘘?
何も知らない観客の笑い声は残酷である。ミナトの心中には裏切りと疑心暗鬼の渦が台風のように涙の雨を伴って吹き荒れていたが、この会場内は愉快なピエロに演出された歓喜の渦に包まれていた。
囃し立てるような歓声の中、ミナトは凄惨なイジメに耐える中学生のような心境でただ鼻から滴る赤い血を拭っている。
「なるほど、左手はそう使うのかぁ」
感心したような声を甘いため息とともに漏らすと、黒髪の女はまた試験管を空に向かって放り投げる。そして銃を構えると、それが落ちてくる前に撃ち抜いた。真っ赤な血が夕霧のように空に拡散される。
漆間はそれを躱すために背後に跳びづ去ったが、それは無駄な抵抗というものだった。赤い霧は毒のように漆間の巨体に染み込み、漆黒のその姿を紅に染めていく。濡れた箇所から感覚を失っていき、力をなくしたように動かなくなった。それは強力な麻酔そのものである。
そして空から降ってくる銃弾。それは試験管を撃ち抜くのに放たれたものである。放物線を描き最高到達点を通過し、今漆間のすぐそばに落ちてきたのだ。
麻生の攻撃は多段的だった。まず麻酔効果を持つ血霧で動きを止め、空から帰ってくる銃弾でダメージを与える。銃弾は当たればよし、当たらずとも動けなくなった獲物を今度こそ直接撃てばよい。非常にシンプルながら効果的な攻撃である。
一つの誤算は漆間の左手の能力だった。
血に染まった漆間は左手の手袋をとる。すると柔らかな光で包まれた白い左手があらわれた。そしてその左手を麻痺した箇所へとあてがっていく。すると、死んだナマズのように鈍い感覚が支配していた身体が、ピチピチと元の活発さを取り戻していった。漆間の左手は細胞の新陳代謝を活性化させることで麻酔効果を終わらせることができるのだ。
「無駄な足掻きね」
辛辣な言葉は黒髪の女、麻生のものである。
「確かにあなたは私の麻酔能力を無効化できるかもしれない。でもそれは回数制限つきのようね」
麻生の指摘は正鵠を射ている。漆間の左手は万能の能力ではない。それは先ほどまでなかった目尻のシワに現れている。
「能力は一人にひとつ。つまりその黒い右手と白い左手は一対の能力となっている、そうでしょ?」
事実だった。
漆間の能力は生命力と呼ばれるエネルギーをやりとりすることにその真髄がある。右手で他の生物から生命力を奪い、左手で他の生物に奪った生命力を与える。右手で奪った生命力が十分にある場合はそれでいい。しかしない場合、左手は与える生命力を自らの肉体から得ようとするのだ。
生命力は老いと若さに似ている。
漆間は左手の能力を使えば使うほどにその肉体が老いていくのである。
生命力を右手で補給しようにも、この谷には目の前の黒髪の女以外の生物がいない。人間はおろか、動物もいなければ草木すらもない。漆間の生命力が尽きるのは時間の問題である。なにせ補給手段がないのだから。
「つまりこれは我慢くらべ。漆間、あなたの左手の能力が尽きるのが先か、私の用意した血入りの試験管が尽きるのが先か。――勝負よ!」
力強くいうや否や、麻生はまた試験管を投げ、それを撃ち抜く。血霧の降るその谷は誰の墓標を打ち建てられるのか?
血霧のグランドキャニオンで、二人の戦いを息を潜めて見守る者は二人いた。
その内の一人の名前は川藤という。日本警察の警部補であり警視総監と繋がりのある男である。彼はこの谷のとある地点で狙撃用ライフルを構えて息を潜めている。
もう一人は少女だった。名前はリタ・シュミット。ごく平凡な、とは言えない行動力を発揮し、観光バスの貨物スペースに潜みラスベガスを遠く離れ、このグランドキャニオンサウスリム、ハーミッツレストへと漆間を尾行してやってきたのだ。ただ好奇心を満たすためだけに。
しかしまだ幼い彼女の見たものは壮絶だった。眼下の谷は血で赤く染まり、追ってきた漆間は明らかな窮地に立たされている。
あまりに現実離れした光景を目にした彼女にできるのはひとつだけだった。
「警察に通報しなきゃ……!」
かくして警察は三◯分後にこの地に殺到することになる。
血染めの谷にいるこの二人はお互いの存在を知らない。そのことは川藤が警察が群れをなして現れることを知らないことを意味するが、それが一人の運命を大きく流転させることになろうとは。
流転した運命の持ち主はホテル王、テオ・ランベルティである。
しかしこのときはまだそれを誰も知らなかった。
――俺に代われよ
うるさい、黙れ!
――このままだと死ぬぜ?
アレックスは友達だ。そんなことしないはずだ!
――ならなんで鼻血が止まらねえ? ミナト、いくらウスノロのお前でも気づいているはずだ
「うるさい!」
思わず叫んでいた。鼻血がポタリと垂れる。気のせいか、頭が少しぼうっとする気がする。血を失い過ぎたのだろうか?
このままではいけない。
その気持ちが支配的だった。
笑い声が耳鳴りのように鼓膜を揺らした。観客席に並ぶのは笑顔ばかりである。邪悪なものではない。素直で正直なショーを純粋に楽しむ喜びの笑顔である。皆知らないのだ。舞台上に立つ道化師と一人の男が命を賭けて戦っているなどと知ろうはずがないのだ。
しかしミナトにはそれが堪えた。彼の少女のような白くカタチの整った耳には、観客の笑い声が嘲笑にしか聞こえない。あざ笑っているのだ。限りある生にしがみつく自分を。生きる価値もないのに死を怖れる自分を。無謀にも友人ができたなどと喜んでいた自分を。
――許せねえと思うだろ?
――みんな燃やしちまおうぜ?
――おまえがヤらねえなら俺がやってやる
――全部、燃えちまいな!
パチンッ
舞台が一瞬、業火に包まれた。焔色に燃え上がる壁が観客席と舞台との間に巨大な隔たりをつくりだす。この演劇の鑑賞者は驚きと興奮でわぁっと声をあげた。観客席はオレンジ色の炎に照らされて赤く染まっていた。
「ほう」
つぶやきを漏らしたのは会場の最後方で壁にもたれている「彼」だった。
「なかなかに強力な能力ではないか」
「彼」はこの会場において観客たるに甘んじている。それはアレックスへの信頼だった。これは「彼」の独り言に過ぎず、誰にも聞こえないはずだったがこのときは返事があった。
「リキエルの子だ。あんなものは悪戯に力を誇示した結果に過ぎない」
アルコール臭を漂わせながら、どこからか現れた魔本の悪魔、ラーサーが呟いた。
「なるほど、やはり魔本は貴様以外にもあるか」
これは「彼」にとって些細な軽口に過ぎなかった。しかしラーサーのそれに対する応答は――と言っても半ば独り言のようだったが――「彼」にとって驚くべきものだった。
「リキエル……? なぜそんなところにいる?」
ラーサーのやつれて落ち窪んだ両目がとらえたのは、炎の壁の明かりに照らされて赤く輝く黒服で痩身の男だった。リキエルとは六人いる魔本の悪魔の名前である。その存在を知ってから「彼」は悪魔たちをさがしている。
「あれが貴様以外の堕天使か……?」
「彼」もその男に視線を送る。座席から半ば立ち上がったその男は炎の壁に向かって茫然自失と視線を送っていた。
「リキエル! 貴様なぜこの街に来た!?」
隣に立つラーサーが大声を張り上げる。骨と皮でできたような不健康極まりないその身体のどこにそんな力を残していたのかと思うほどの怒号であった。
男が振り返る。その姿は執事服に丸メガネ、その奥の瞳はキツネのように意地悪くつり上がっている。しかしサラサラとした黒髪の下のその瞳は、人間らしい涙に濡れていた。
「久しぶりですねラーサー」
涙はすでに消えている。代わりにあがった口角は意地の悪い笑みを浮かべている。
「我らは再会せねばなりません。きたるべき“時“のために」




