不夜城の怪人 第二四話 星条旗のもとに 13
「どなたか、この鬼ごっこにご参加頂けませんか?」
舞台上のアレックスがそう告げたとき、観客席は困惑の渦中へと放り込まれたようだった。静まり返った聴衆は突然の提案に理解が追いついていないようだった。
それはミナトも同じである。
「なんだか妙なことになりましたね」
傍らの田沼が嬉しさを抑えるように囁いてきた。この悪魔は、さして仲良くない知人とエレベーターで乗り合わせたときの沈黙のような、ある種気まずい雰囲気のようなものを好んでいた。それはあくまで側から見るときに限ったが。
「ん?」
ピエロがこちらをまっすぐ見つめているような気がするのは気のせいだろうか? いや、気のせいではない。ピエロメイクのアレックスが助けを求めるようにこちらを見ている。泣き顔のメイクをした方の目が仕切りにウインクを繰り返している。
「僕に助けてほしいって……、こと?」
どうやらそのようだった。
「仕方ないなあ」
そう呟いた僕の顔は少しニヤケていたかもしれない。それこそ仕方ないだろう? これまでの人生で僕が頼られることなんてほとんどなかったんだから。まるでマナト兄さんのように頼られるなんて、今までなかったんだ。
左腕の袖が軽く引っ張られる。
「ミナト……」
田沼が掴んでいた。
「どうしたの、そんな真剣な顔しちゃってさ。いつもみたいに笑っててよ」
丸メガネの奥のキツネ目はこれまでにない輝きを放っている。不安と予感、そして行くなと言うような哀願の瞳。
「胸騒ぎがします。行くのはやめて下さい」
その声にはふざけるような調子が一ミクロンも含まれていない。真剣だった。
「大丈夫だよ。アレックスのショーに少し協力するだけさ」
これまでにない熱っぽさをもった田沼の頼みを僕は無視した。少し困っているアレックスを助けてあげるほうが大事だ。
そしてゆっくりと手を挙げた。
アレックスの顔が一瞬切なげな色を見せたのは泣き顔のメイクのせいだろうか? しかしそれも瞬たきの次には消えていた。
「おお! そこの男性、こちらにどうぞ」
張り上げられた声に促されてミナトは舞台へと一歩一歩と進んでいった。しかし、顔が火照ってくるのが自分でもわかる。側からみたら多分ゆでダコみたいに耳まで真っ赤に違いない。
「お名前は?」
分かりきったことを聞くなあ。
「興梠ミナトです……」
しかし、緊張の色は隠せない。顔から火が出るようにあつい。
「勇気あるミナト君に盛大な握手を!」
戸惑いを感じさせながらも観客席からパラパラと拍手が立ち上った。それはやがて大きな渦のように会場全体を包み込む暖かい音の波となった。
「ごめんミナト」
「え?」
それは冷たい声だった。会場の暖かさに比して冷徹すぎる言の葉。
アレックスが耳打ちしてきたのだ。背中に軽く手のひらの感触があった。それはなぜか冷たく感じる。鼻の奥から鉄の匂いが漂ってくる。
明らかな異変だった。
「君に能力をかけた」
ピエロの冷めきった低い声がまた鼓膜を揺らした。
理解が追いつかない。能力をかけた? 一体どういう意味なんだ?
「僕の能力はカウントダウン。君の脳へと至る血管にある仕掛けをした」
「何を言ってるの……? アレックス?」
引き潮のように血の気が引いていくのを感じた。
血管に仕掛け?
「その仕掛けは数分かけて大きくなっていき、やがて完全に血管を塞ぐ栓となる。そして……」
「……そして?」
「そしてちょうど一◯分後、閉幕の瞬間に……、君は急性の脳梗塞になって死ぬ」
死ぬ!?
脳梗塞?
まさか!?
鼻筋から赤いものが垂れ下がる。鼻血がゆっくりと雫をつくり床へと落ちていく。
「解除の方法はただ一つ」
感情を抑制されたその声からは地獄の冷気が漂うようだった。
「僕を閉幕までの間に捕まえること。そうすれば能力は解除され、血栓はなくなる。……さあ命を賭けた勝負が始まるよ」
「待ってアレックス!」
慌ててかけた声は冷たいピエロの背中に消えた。流れ出した鼻血はもう止まらない。
冷酷な道化師はその冷徹を笑い顔のマスクに隠す。そして陽気な声を高らかに張り上げ、
「さて、鬼ごっこのスタートです!」
ミナトの生命のカウントダウンのはじまりを告げるのだった。
「本当に室長だけ残して帰国してしまってよかったんですかね?」
ふと隣に目をやると、心配そうな顔をした田辺がそんなことを聞いてきた。
「そんなこと言ったってもう飛行機の中さ。引き返せないよ。それとも飛行機をジャックしてマッカラン国際空港まで帰るかい?」
「冗談じゃないですよ!」
鈴木と田辺は警視総監の命により、二人にかけられた犯罪シンジケート『王国』との関与の疑いを晴らすため、日本に帰国する途中である。空の旅は長く退屈もしていたし、何より麻生室長を川藤と二人、ラスベガスに残してしまった負い目もあり、不安で眠ることもできずに田辺は約一時間周期でこんなことを聞いてきているのだ。
「田辺君、見なよ綾崎を。よく眠っているだろう? これがまだ室長が無事っていう何よりの証拠さ」
鈴木は田辺とは反対の隣に座らせている綾崎を大きくゆすった。懐から取り出したcross製のボールペンの尻で彼の頬をつっついたが、綾崎は白雪姫のように眠りこくり起きる気配すら見せなかった。麻生室長の能力、『麻酔体液』で十分に眠らされている証拠であり、同時に彼女が健在である証でもあった。彼女が死亡、あるいは意識不明の重体にならない限りは、その能力は解けることはない。すなわち綾崎が眠っている間は心配する必要などないのだ。
「はあ、まあそうですが……」
田辺が心配そうに声をかけてくるたびそう説明しているのだが、他にすることがないというのは思考レベルを低下させるらしい。彼は壊れたラジオのように不安を吐露してくる。おそらく一時間後にもまた同じ言葉を聞くことになるだろう。
「不安というなら私たちのほうさ。川藤は何を報告したのか分かったもんじゃない。帰国したら私たちは一体どんな扱いを受けるのやら……」
誰にともなく声に出していたが、田辺は窓の外に目をやり聞いていなかった。参ったなあもう、と心の中でつぶやき、捕まえた綾崎を起こさなくてはならないときに室長に電話できるな、と、後にして思えば吞気すぎることを考えていた。
私はラスベガスに帰るべきだったのだ。たとえ飛行機をジャックしてでも。
銃弾が三連。大きく側転をし、これを躱す。牽制にこちらからも二発撃ち返す。
しかし黒髪の美女は二条の銃弾を最小限の動きで躱した。
「お前、本当に何者だ?」
互いに崖を駆け下りながらの漆間の問いかけに女は妖しく微笑むのみで、崖上にいた頃から一度も答えようとしない。
二人の戦場はハーミッツレストから大きく崖下に移動していた。女が突然放った銃弾を間一髪躱したときから二人はずっと谷底へと駆け下りていったのだ。それは二人の超常的な戦いが人目に触れるのを恐れたかのような、女の巧みな射撃技術のなせる技だった。射線によって漆間をグランドキャニオンの深い谷底へと徐々に徐々にと誘導していた。
無論、漆間はこれに気づいていたが、どうすることもできない。そこに蜘蛛の巣のような罠があるのを承知で、斜面を転がり始めた岩石のように崖下へと降りていくしかないのだった。
しかし……
「なぜ、俺を直接撃ってこない!?」
それが疑問だった。女は優れた射撃技術を持ちながら、それで漆間を撃ち殺そうとはせず、あくまでも牧羊犬のように漆間を谷底へと誘うだけである。何か別の意図があるのは明白だ。
「ここまでくればいいかしら?」
女がそう言ったとき、周囲の光景はもはや岩と砂しか存在しなかった。三六◯度、見渡す限りの岩石地帯、空までそびえるような断崖絶壁、見上げた空は岩間に僅かに薄暗い青空を確認できるのみである。人っ子ひとりいないそこは紛れようもなく二人だけの世界だった。
「もう一度だけ聞く。お前は何者だ?」
何度も繰り返した質問を、何度も無視された質問を、漆間は繰り返した。なんの心当たりもない女だ。こいつは誰だ?
「どうしても知りたいの?」
挑発的な笑みを浮かべながら、女は初めて漆間の問いかけに反応を見せた。
「私の名前は麻生清美。清美さんって呼んで」
「名前なんてどうでもいい」
「じゃあ何が知りたいの?」
「お前がなんの目的で綾崎を攫って、なんの目的で俺をここに連れ出した、どこの誰かを教えろ」
背後関係が知りたい。何らかの組織に属しているのか、いないのか? そして魔本を知っているのは何故なのか?
「知りたいんだ?」
そう言うと、女は小馬鹿にしたようにクスリと笑みを漏らした。
「いいわ、教えてあげる。……あなたが私に勝ったらね」
女は背中に手をやると、赤い液体で満たされた試験管を取り出した。それは鮮烈で生々しいほどの赤色で、禍々(まがまが)しい光彩を放っている。
「これは私の血よ」
そう言うと女は左手に持ったそれを狭い空に向かって放り投げた。岩壁と岩壁の間から漏れる青空の光と、ルビーを溶かしたような真っ赤な血液入りの試験管との対比は奇妙に現実感を欠くものである。高々と放り投げられたそれに一瞬目を奪われたが、谷中に反響する爆竹を炸裂させたような音がしたのち、試験管はバラバラに砕け散る。そしてその中身たる赤いドロドロとした液体が漆間の頭上に降り注いだ。
血は広範囲に渡って降り注ぎ、雨とまではいかないまでもマンションのベランダから誤って階下にこぼしてしまったじょうろの水程度の勢いはあった。降ってくる血の雨は避けようにも避けようがなく、躱そうにも躱しようがない。漆間は全身でその血を浴びた。血の接触した部分が一瞬禍々しい赤い水玉模様となり、すぐに重力に従ってより禍々しい幾条もの赤い線を彩った。
漆間は浴びた血を袖で拭ったが、すぐに異変に気づく。
「私の血に触れてしまったのね。全身が重いでしょう?」
血を浴びた部分に感覚がない。触れているのに触れられた感覚がなく、拭った袖に触れている手首も、皮膚が鉛にでもなったかのように重だるい。
「貴様……、能力者か」
そこで初めて漆間は気づいた。目の前の黒髪の女が何らかの能力者であるということに。しかし身体の自由は徐々に奪われている。重だるい感覚が全身に広がっていき、身体を動かす力と痛みを感じる触覚とが失われていく。それは砂時計の砂のように緩やかだが、確かな変化だった。
「そのとおり」
麻生清美と名乗った女は漆間の問いにもならない問いに首肯した。
「どんな能力かは教えない。それにもう知る必要もないでしょう? あなたはもう動けないのだから」
麻生は嗜虐的な笑みを浮かべたかと思うと、その少し上がった口角が下がらないうちから瞳に憂いをたたえていた。うれしいのか、哀しいのか? それは単純ならざる思いの表れか?
ともかくも漆間はグランドキャニオンの深い谷底、青空の影のうちに全身を麻痺させて身動きがとれなくなってしまったのだ。
ここは孤高の大地。隠修士の修業の場である。助けなどあろうはずもない。この場を切り抜けるのは自分以外の誰にも期待できないのだ。
そのはずだった。
「……ハロー? 警察ですか?」
ハーミッツレストの崖の上から一つの通報が行われた。




