不夜城の怪人 第二〇話 星条旗のもとに 9
綾崎を追って約二時間、事態は夜の平穏のままに過ぎた。あてもなくさまよう綾崎にほんのわずかな苛立ちを覚えること以外は、漆間にとってそれは歓迎すべきことだった。
「あいつは一体何がしたいんだ?」
大きめの独り言を誰にともなく呟くが、それを見咎める者はいない。ここはラスベガス。皆、自分それぞれの快楽に浸りきっており、酒浸り、女浸りで、誰も不気味な東洋人など、視界に入ったことにも気づかないのだった。
不意に漆間の視界の端を黒い流線が走った。
漆間はそれを思わず目で追う。退屈のせいかもしれない。しかしそれを視界に捉えたのは必然だった。
その男はラスベガスという街から完全に浮いた存在だった。三揃の黒いスーツにスキンヘッドと見まごう短い金髪、そしてなにより夜にもかかわらず外さないサングラスは明らかに異様な存在感を放っている。
その男をじっと見ていると、また別の男が現れた。現れた男も同じ格好で、こちらは眉間の深いシワが特徴的だった。男たちは何やら話をしている。
周囲の酒気を帯びたざわめきのせいか、声は当然聞こえない。男たちは通り沿い、綾崎と漆間の間にいたが、それでも一◯メートルは離れている。辛うじて彼らの動作を窺うことしかできない。近くて遠い距離がもどかしかった。
近づいてみようか、と漆間が決めたとき、黒スーツたちが何かから身を隠すような動きを見せた。それも漆間の方ではなく進行方向の何かから隠れるように。
綾崎が一瞬振り返っていた。
「狙いは綾崎か」
漆間の決断ははやかった。人混みをかき分け二人の黒服坊主頭に悠然と近づくと、金髪の顔を右手で鷲掴みにした。黒い右手、生命力を奪う黒い右手。掴んだ勢いのまま男を路地裏に引きずりこむと、右手から生命力を奪い尽くす。
生命力とは老いと若さに似ている。
男はわずか数秒で変わり果て、老人のようにしわくちゃになって地面に倒れ伏した。
謎の男に突然因縁をつけられた仲間を追ってきたつもりのもう一人の坊主頭はそれを目撃していた。みるみるうちに老化していく仲間を見て一瞬、ギョッとした恐怖心を顔に表出させたがすぐに鋭い目となりその場から離れようとした。
もちろんそれを逃す漆間ではない。
その巨大な全身を走狗のように男のもとに運ぶと、サングラスごと彼の顔に掴みかかった。体格同様その大きな右手は闇を纏っていた。男はさけび声をあげる間もなく仲間と同じように老い果てた。
「……どうし……伍長? 応答せよ……」
男のつけていたイヤホンマイクから声が漏れている。耳に差し込む部分を軽く拭うと、それを右耳に差し込んだ。
「こちら異常なし」
堂々たる声でそう答えると、通話相手は続けた。
「了解、引き続き『綾崎』を尾行せよ。確保はこちらの命令を待て」
「何? 確保だと?」
耳に飛び込んだ情報に思わず聞き返してしまった。すると舌打ちの音が小さく鳴った。
「貴様は何者だ? 『綾崎』か?」
「違う」
「では『漆間』か。伍長はどうしてる?」
「眠っているよ。お前こそ何者――」
いきなりプツンと通話が切れた。どうやら相手には長々と話す気はないらしい。
イヤホンマイクを放り投げると、目の前に老いて倒れた男の胸もとを探った。サイフ、スマホ、手錠、そして拳銃。拳銃は漆間の持っているベレッタと同じものだったが、こちらにはサイレンサーがついている。念のためもう一方のほうも探ったが、出てくる物は全く同じだった。何か正式な組織の備品のよう思える。
用意の周到さに心臓の鼓動が早まる思いだった。
元いた通りに戻ろうと明るいほうへ歩き出す。しかし目の前にまた同じ黒いスーツの男が現れた。後ろを振り返ると、そこにも少し小柄な黒スーツ。二人ともサングラスを掛けている。
「おいおい」
漆間は両手を挙げた。前後を塞ぐ男たちは両手でサイレンサーつきの拳銃を構えている。そこに殺意はなく、むしろ職人のような視線である。それが逆に彼らが躊躇なく撃つことを確信させた。
「『漆間』確保」
男は事務的にそう告げると、
「足下の二人を殺したのはお前か?」
と聞いてきた。冷たい声だった。
「俺は殺しはしない。ただ眠っているだけだ」
人ごとのように答えながら綾崎のことを思う。これは相当にまずい事態になっているのではなかろうか?
「その右手はなんだ? ――いや能力か」
見ると手袋を外したままで、モヤのような闇を纏った手が露わになっている。
「能力を見るのは初めてか?」
嘲笑うような口ぶりを努めてそう言ったが、前後の二人は鼻で笑うばかりである。そこには一片の動揺も怒りもなかった。
この状況を切り抜けなければならない。
「動くなよ」
後ろの男が後ろ手に漆間の手首へと手錠をかけた。胸には銃が突きつけられている。
「これから貴様を基地へと運ぶ。抵抗はするな。面倒が増える」
「基地? お前たち軍人か?」
「なんだと思っていたんだ、このテロリストが」
目の前の男は今なんと言った?
「テロリスト? 俺がか? 何か勘違いしているんじゃないか?」
「しらばっくれるか。それもいい。だが基地には来てもらう」
冗談ではない。テロなど考えてはいない。このまま連行されるのはどう考えてもまずい。
後ろの男が早く歩け、と銃身で背中を強めに小突く。しかし体格差のせいか、よろけたのは男のほうだった。
生命力とは老いと若さに似ている。
漆間は右手で自分の左手首を掴んだ。左の前腕が急激に老いていく。肌の張りがなくなり、シミとシワが刻まれていき、痩せ衰えて細くなる。やがてミイラのようになった左手は手錠から抜けた。
自由になった右腕を振るい、目の前の男の銃をはたき落とす。同時に後ろの小柄な男の胸を蹴りつけた。蹴られた男は勢いよく壁に叩きつけられる。
目の前の男の驚きは一瞬だった。なぜ手錠が外れたのか? そのことへの逡巡はすでに消え去り、再び拘束するにはどうすべきか、その一点のみに集中力が注がれる。
男は黒い右手を両手でつかむと、懐に入り込んできた。男の背中が漆間の身体を持ち上げる。男の背中をテコの支点に、地面が空に、空が地面に入れ替わる。
漆間は背中から地面に叩きつけられた。息が止まりそうな衝撃が背骨を伝わる。かはっと肺から空気が溢れた。
苦悶を滲ませながらふと見上げると、目の前に緩やかな動きで銃を拾おうとする手があった。させるものか、と必死で伸ばされた黒い右手は、銃ではなくその腕を掴んだ。
手のひらのカタチをした闇に包まれた男の右腕は草木が枯れるように萎れていく。掴んだ銃の重みでパキパキと指の骨が折れる音が路地裏に響く。少し遅れて拳銃が地面に落ちた。
ようやく立ち上がった漆間には小柄な男の銃口が向いていた。反動で男の身体が揺れる。発砲音はない。しかし左肩を貫く痛みは銃が発砲されたことを意味している。
「殺せ! 脳さえ無事ならいい!」
萎れた右腕を庇いながら男は叫んだ。第二射が音もなく飛んでくる。
漆間は目の前の男のスーツの襟を右手で掴むと、射線上に引っ張り上げる。衝撃で男の身体が揺れた。
身代わりにした男の身体を投げ捨てると同時、漆間は小柄な男に向かって駆けた。振りかぶった闇を纏った右手は半紙に走らせた墨筆のように華麗だった。
しかし、一発の銃弾が漆間の疾走を止めた。視線を横に切ると、銃弾を受けたはずの男が生命力を奪われていないほうの手で銃を撃っていた。
「ここは引くべきか」
漆間の立ち位置は火線が十字を切るところであった。これでは同士討ちの危険もなしに男たちは漆間を滅多撃ちにできてしまう。
背後に開けた退路に向かって漆間は走り去る。それを追いかけるようにいくつもの銃弾が放たれていたが、音もなく夜の闇に溶けていった。
ようやく逃げ切り、息を荒げるほど走ったのち、左手の手袋を外した。現れたのは輝く白い手。それは闇夜に一隅の光明をもたらした。あたりが柔らかい光に包まれる。
「貫通してくれてよかった」
その左手を左肩にそっと当てがう。すると、肩の肉を貫き生々しい血を滴らせていた穴は、その円周からせり出す筋繊維でみるみる埋まり、跡形もなく塞がった。コートに空いた穴はそのままに。
「さて綾崎は無事か?」
もはやアートレベルのラクガキをした壁に背中を預け呟く。追いかけていた綾崎はとっくの昔に見失っている。無事を祈るばかりだった。
隣で微笑む美女の絵は泣きぼくろが印象的で、挑発するように微笑んでいた。
「どうしたもんかねえ」
綾崎は暗い夜空に明るいネオンの中、もうストリップ沿いを二時間近くは歩いていた。ピラミッドとか大噴水とか、観ているだけでもそれなりに楽しいのだが、そろそろどこかで休みたいところだ。……できれば女連れで。
グフっと下品な笑みを浮かべるが、そんなアテもないことを思うと余計に虚しく、思わずため息を深くつく。
自分の寿命はあと一◯五日しか残されていない、らしい。
正直に言ってまだピンときていない。斬られたほうの手を開いたり閉じたりしてみたが別段違和感もないし、その手を胸に当ててみても心臓は正常に機能しているように思われる。自分にとって死はまだ、遠い未来に必ず起こる悪いこと、の域を出ていない。
「なのにこんなところまで来ちまったんだよなあ」
生まれ育った日本を離れ、約九千キロメートル、時差にして一六時間のはるかラスベガスにまで来てしまった。残念ながら遊びに来たのではない。田沼があると言っているだけの願いを叶える魔本を探しに来たのだ。
漆間の呪いは解いてやりたい。そのためなら命も惜しくない。その言葉に嘘はないつもりだ。
だけどこの半月は真面目にやりすぎじゃあないか?
ラスベガスに来てからずっと、もっと言うと日本で田沼を探していた二年間、自分と漆間はほとんど休まず働き(金は稼いでないけど)続けている。
「俺たちはまだ若いんだ」
遊びたい日もあればだらだらと怠けたい日もある。それは若いうちにしかできないことだ(たぶんそんなことないけど)。
付き合わされた興梠には迷惑な話だけれど。
「あなた日本人?」
頭の中で自己弁護の妄想を繰り広げていた綾崎は思わず飛び上がりそうになった。背後からの声に破裂しそうな心臓の鼓動を隠しながら、できるだけ平静を装って振り返る。
「わお、美人……、あっ」
思わず漏れてしまった本音にその長身の美人はたおやかに微笑む。
「ありがと。やっぱり日本人みたいね」
「あなたも日本人ですか?」
「そうよ。見えない?」
女の声はどこか人を落ち着けるような響きを持っていた。それは遠い異国で同郷の人と出会ったからではなく、彼女自身の資質によるもののように思える。
「あの、俺、綾崎って言います。よかったらこれから二人でどこかでお茶でもどうですか」
女はその整ったあごに人差し指を押し当て首を傾げる。どうしようか悩んでいるようだ。
「同じ日本人のよしみで」
綾崎は続けた。が、失敗したか? と口をつぐんだ。
「そうね、いいよ。どこか行きましょうか。二人で」
「嬉しいです」
軽く微笑む彼女に気づかれないよう、爽やかに笑いながら心の中でガッツポーズをした。やった、こんな美女とお話しする機会がもてるとは、と。
「そういえばお名前……」
「私の名前は麻生清美。清美さんって呼んで」
綾崎の問いに答えた彼女は一瞬不敵な笑みを浮かべたように見えた、が気のせいだったかもしれない。




