不夜城の怪人 第一六話 星条旗のもとに 5
「アッシュビー万歳!」
「アッシュビー大統領!」
アレックスとともにホテルマーカスサーカスへと向かう途中、群衆から口ぐちにシュプレヒコールがあがる。ダニエル・F・アッシュビーの巨大な肖像を前にして熱狂する姿はもはや狂気としか映らなかった。
「うるさかった?」
「いや、そういうわけじゃ」
「いいんだ、いいんだ。日本人のミナトにはわからないだろうね。だけど僕たちアメリカ人にとって、アッシュビー先生はこの国の希望なんだ」
そう言って視線を足もとにやるアレックスはどこか哀しげだった。
――ミナト――
頭の中に声が響いた。
なんだい、田沼。
――あのアッシュビーとかいう男についてです――
あの大統領候補がどうかしたの?
田沼は一瞬沈黙した。まるで躊躇するかのように。
――アッシュビーは能力者です――
ばっとアッシュビーの巨大な肖像に振り返った。心臓がドクドクと脈打ち、全身の毛穴から汗が吹き出る。
アッシュビーが能力者、そして大統領候補筆頭。この国は能力者を大統領にしようとしている。彼は何者なのだ? 漆間くんたちに教えなくては!
「どうかした? ミナト」
アレックスがきょとんとこちらを見つめている。
「ああ、いやなんでもない」
今さらどの面下げてあの二人に会えるんだ……。
被りを振ってミナトはアレックスについていった。
「観客席で観ててよ」
関係者用の裏口からマーカスサーカスのサーカスアクトへと入った二人は二手に分かれた。一人は演者として舞台へ、もう一人は観客として客席へ。
ミナトは小骨が喉に刺さったような気持ちを抱えながらも空席だらけの客席の一つに腰掛けた。周囲をぐるりと見渡して見ると、昨日よりはいくらか客入りが増えているようだ。赤いベロア生地を張った椅子に深く腰掛け、開演の時間を待った。
「漆間さんたちはどうしたのですか?」
突然の声に左を向くと、丸メガネの男が隣の椅子に軽く腰掛けている。田沼だった。
「あの二人とは……、別れたよ」
田沼は一瞬、驚いたような顔を見せた。これがどれほど貴重な表情だったかを知る者は田沼以外の誰もいない。
「見てみなよ田沼」
客席をぐるりと見回した。笑顔の子供たち、それを見つめる両親のあたたかい瞳、そして肩を寄せ合う恋人たち。
「あそこはAJが死んだ椅子だ。だけど座っている女の子はそんなことも知らずにニッコリ笑ってる」
綿あめをほおばる少女は幸せの中にいる。
「みんな忘れる。辛かったことも、誰かが死んだことも、一時一緒にいただけの人のことも」
自嘲的にフッと笑った。
「あの二人もきっと僕のことを忘れる。アレックスもシェリーさんもみんな僕を忘れていく。当然さ。ヒトの脳は忘れるようにできているんだ。ただ生きているだけでもヒトは毎日新しい体験をする。それは止められない。体験はどんどん積み重なって、やがて脳の容量を超え始めるのさ。ハードディスクの容量がいっぱいになったときどうする? 答えは簡単だ。何かいらないデータを消す、よね? ヒトの脳ってのは便利なモノで、どんな記憶から消していくか決まっているのさ。どうでもいいことから忘れていくんだ。おとといの晩ごはん、昨日履いた靴下の色、子どもの頃好きだったアニメの名前、全部忘れてしまう。あの二人も今は僕のことを覚えているよ? 田沼を連れてきてしまったからね。でも取り戻したらきっと忘れる。僕みたいなくだらない男のことなんて、仲間を苦しいときに助けられなかった男のことなんてきっと忘れる、いや忘れてくれるだろう。そうさ、僕はもう忘れられていたいんだ。肝心なときに力になれなくて何が仲間だよ! 僕なんてあの二人に助けられる価値なんてなかったんだ! 田沼が罪滅ぼしをする必要なんてないんだ! 図書館で出会ったあの日から今までずっと僕なんかに付き合ってくれたけどもう十分だ! だから田沼」
濡れた瞳がこちらをとらえた。
「一人で戻ってくれ。僕はもうあの二人のところには帰れない」
荒い息遣いが聞こえる。ミナトは肩を揺らしていた。
「で、一人になったあなたは何をするのですか?」
ミナトはゆっくりと息を整えた。そして吐き出すように呟いた。
「魔本を探すよ。とりあえずこの国の魔本、ラーサーを探す。せめてそれくらいしなければ、あの二人から受けた恩を返せない」
漆間さんは本当にいいときに私のもとに帰ってきてくれた。ミナトは救われつつある。以前のミナトなら、恩を返す、なんて発想なかったはずだ。それほどに私は彼を深く傷つけてしまったのだ。人は私の力を魔法
と呼ぶが、彼の場合は呪いと呼ぶのがふさわしい。
だけど本当はそのどちらでもないのだ、私の力は。
「では、ラーサーの手掛かりを見つけたら、私とともに戻りましょう。そして事情を話すのです。ミナトと……、お兄さんのことを。あなたは忘却についておっしゃられたが、消せない記憶もある。ミナトが苦しんでいるものはまさにそれです。全ては私の罪なのです。それに私はもう一人では歩けませんから」
雫がポタリと床に吸われた。
「田沼、君は優しすぎるよ……」
ミナトの漏らした嗚咽は開演のブザー音に呑まれていった。
踊るような閃光の円はいくつもの軌跡を描きながら、やがて舞台中央でひとつの円へと収束する。光円の中心では奇怪な赤と緑の水玉模様のピエロが柔らかくお辞儀をしていた。ゆっくりと身体を起こしていくと、笑い顔の半仮面に泣き顔のメイクをした奇妙な顔が浮かび上がった。アレックスだ。
「お集まりのみなさん、ようこそお越しくださいました。団員一同、誠に御礼申し上げます」
ピエロの格好をしたアレックスが再び頭を下げた。起き上がると、パンッと手を叩く。
「さて、本日ご覧いただくのは一人の少年の物語です。サーカスに憧れピエロを目指す、略して仕舞えばそんなお話。しかしそこにはドラマがございます。どうか厚手のハンカチをご用意くださいませ」
まばらな拍手を受け、またピエロは丁寧に頭を下げた。そしてゆっくりと照明が落とされていった。
「ごめんね、赤ちゃん……! 本当にごめんなさい……」
――それは夜風の吹く冷ややかな日のことでした。メロンがいくつも入りそうな大きなバスケットを持った若い女が、教会へとやってきました。人目を避けてコソコソと。彼女は大事そうにバスケットを抱え、教会の前へと立ちました。
「幸せになってね、アルフレッド……」
――女は逃げるように去っていきました。風のように素早く、両手を振り走って夜の街へと消えたのです。母親を探す赤ん坊の泣き声を残して。
――翌朝、若い牧師が日課の掃除をしようと表に出ると、大きなバスケットを見つけました。それは女が置いていったもの。
「またか……」
――バスケットの中を見て牧師は呟きました。中には玉のような白い肌の男の子が一人、手紙とともに入っていたのです。
「お前、アルフレッドというのかい」
――牧師は心に決めました。この子をきちんと育てよう、せめて成人になるまでは、と。
「牧師さま! いってきます!」
「ああ、いってらっしゃい」
――アルフレッドが拾われて数年、牧師の髪には白いものが混じりはじめていました。アルフレッドは明るく大きく育ち、毎日のようにある場所へと出かけていきます。
――そう、それがこのマーカスサーカスのサーカスアクトなのです。
「ようこそお越しくださいました! 今日は心ゆくまでお楽しみくださいませ!」
――ピエロがお辞儀をすると、空中ブランコが雄大な弧を描きました。代わる代わるに人が飛び移り、ひらひらと宙を舞う様は、まるで美しい蝶のようです。アレックスは目を輝かせてそれを見つめました。いつか自分もあんな風に空を舞いたい。
――それからさらに数年後。
「どうしてもサーカスに入りたいのです。牧師さま、お許しください」
――牧師はアルフレッドの申し出を悩みながらも許しました。それが彼の望みなら、と。立派な青年になったアルフレッドの巣立ちは牧師の瞳を涙で濡らしていました。
――またさらに数年、アルフレッドは空中ブランコの名手となっていました。アルフレッドの出演する日は連日連夜、超満員。サーカスアクトの席はすべて埋まり、立ち見で観劇する人もいたほどです。アルフレッドの明るく快活な性格と、目を見張るような美しい演技は観客をことごとく魅了してしまったのでした。
「アルフレッドのおかげだよ。みんな喜んでくれている」
「すごいわ、アルフレッド」
――サーカスの団員たちは彗星のように現れた空中ブランコの天才を褒め称えました。思えばアルフレッドはこのとき調子に乗っていたのかもしれません。悲劇が起きるのはその翌日でした。
「うわあああああ!」
「大丈夫か!? アルフレッド!」
――練習中、アルフレッドは空中ブランコから落ちてしましました。それも背中から地面に叩きつけられてしまったのです。
「二度と空中ブランコはできません」
――医者の言葉は冷酷でした。アルフレッドは歩くこともできなくなってしまったのです。明るかったアルフレッドは火が消えたように暗い性格へと変わってしまいました。二度とサーカスへは戻れない、その事実と向き合うと、自分がなんのために生きているのか、それも分からなくなってしまっていたのです。
「君の怪我を治してあげよう」
――そんなときに現れたのが彼でした。車椅子のアルフレッドの前に現れた白い髪の彼は本を取りだすと、それに呪文を唱えます。すると天使が現れました。
「僕の怪我を治して!」
――アルフレッドは叫びました。藁にもすがるとはこのことです。天使は小さく頷くと、アルフレッドに向かって指を一振り。するとどうでしょう。動かなかったアルフレッドの脚はなんと再び動き出したのです。
「ありがとう! ありがとう……!」
――アルフレッドは何度も何度も頭を下げました。そしてフッと頭を上げると白い髪の彼はもういませんでした。
――そうしてアルフレッドは再び、空中ブランコの名手として返り咲いたのです。
観客席から一杯の拍手が湧いた。中には立ち上がって感動を伝えようとする者までいる。しかしミナトはひとつのことが気がかりになっていた。
「アルフレッドを助けた白い髪の彼って……」
白い髪の彼が取り出した本は『堕天使の懺悔』ではないのか? ミナトにはそう思えて仕方がなかった。この芝居の脚本はアレックスが書いたと聞いている。もしやアレックスは……
「あの空中ブランコをしていたピエロは能力者ですよ」
内心を見透かしたのか、隣に座っている田沼がそう切り出した。
「ピエロって、アレックスが!?」
「ええ。そのアレックスさんとやらは能力者です。知らずに一緒にいたのですか?」
アレックスが能力者。
ミナトは苦虫を噛み潰したような表情で、この後どんな顔をして彼に会えばいいかを考えていた。
「じゃんけんぽん! あっち向いてホイ」
綾崎のさした指の方向を漆間は向いている。ホテルの部屋に戻った二人は、ミナトが帰ってこないか待ちながら連日の疲れを癒していた。
「はは、チョキも出せるようになってんだぜ。お前の負けだ」
「よくもまあそこまで治ったものだ」
綾崎が自慢げに見せる腕はもう抜糸が済んでいた。まだ手術が終わって一日のことである。
「先生に感謝さ。なんていう人だ?」
「エドガー・シュミット医師だ。なんでも他の医者が匙を投げた難しい手術を難なく成功させる名医らしい」
忙しい人だがたまたま手が空いていたらしい、と漆間はつけ加えた。
「そいつはまあ。俺は運が良かったらしいな」
無論、漆間の左手が回復を促進したこともある。しかし根本的に、手術が完全に成功していなければ回復のしようがない。路上で斬られた不衛生な右腕を接合する手術は、まさに奇跡のような技術を持っていなければなし遂げられないのだった。
「さて、興梠を探す訳だが。心当たりは?」
「ない」
「俺にも見当がつかん。となると……どうすんだ?」
漆間は眉間にシワを寄せ、思考を巡らせた。深く腰かけたダイニングのいすがミシッと音を立てた。
「取り敢えず、あのレストランにでも行ってみるか」
綾崎は、げげぇ、とでも言いたげな表情を見せると、仕方ねえな、と呟いた。鉄仮面のようなウェイターには会いたくなかったが、他に思い当たる場所もないのである。
二人はスクッと立ち上がった。さあ、これから例のレストランに出掛けようというときである。
コンコン、とドアがノックされた。
ミナトが帰ってきたのだろうか、と黒に金で装飾されたドアを開けた。するとそこには一組の男女が待ち構えている。
「やあ、こんにちは。病院で会ったテオ・ランベルティです。覚えてます?」
花束を両手に気味の悪い笑顔で立っていたのは、綾崎を救った男だった。




