不夜城の怪人 第九話 vs M&C 1
腕を斬られた!
右の前腕に対して垂直に切れ込みが入っている。ルビーを溶かしたような深紅の血液が噴き出し、ジャケットがみるみる血に染まっていく。
かろうじて骨で繋ぎとめられた前腕の痛みは、骨折よりも、幼いとき受けたどんな傷よりも情熱的だった。
斬ったマゼンタに目を向けると、ナイフをまさにミナトの頭上に振り下ろそうとしている。斬られた右腕をミナトに向けた。
親指と中指を擦り合わせ、指を鳴らした。が、何も聞こえない。
振り下ろされたナイフが空を切った。ミナトはその先、数メートル離れたところで茫然と立っている。転移能力は発動していた。
呆けたミナトを水色の髪の男が拳銃で狙っていた。両手のひらに収まる小型の小銃がすっと上がり、ミナトの背中に狙いすまされる。
興梠避けろ!
!?
声が出ない。綾崎は自分の叫び声が聞こえなかった。しかし、気づいたミナトが横っ跳びに水色の放った銃弾を避けている。
何かがおかしい。
銃弾が飛び交う中、辺りは誰もいないコンサートホールのように静かだった。それはこの路地裏が静かだからではない。むしろ、戦場のような喧噪に包まれていてもおかしくないのだ。しかし、綾崎の鼓膜は波一つ立たない冷厳な泉のように静謐を保っていた。
マゼンタが目の前にすくっと立った。何か口をパクパクとさせている。喋っているのかもしれない。
いや、何と言っているのか読める。
俺は、マゼンタ。あいつ、はシアン。音が聴こえな、くて戸惑ってい、るだろう。
おかしな感覚だった。唇の動きを理解しているわけではないのに、ピンク髪の男、マゼンタの言っていることがわかる。
マゼンタは続けた。
今からあ、のチビを、殺す。そこ、で借りてきた猫の、ように大人し、くしている、んだな。
チビ? まさか興梠のことか!?
腕から流れる血はまだどくどくと脈打っていた。血の気が引くような目眩を感じるのは気のせいじゃない。それにマゼンタのいう通り、耳が聴こえないようだった。このマゼンタは間違いなく能力者、能力は聴覚を奪うことだろうか、しかしいつ能力を受けたのか? 発動条件がわからない。
ミナトはというと、水色のシアンの放つ銃弾を涙を滲ませ避けている。シアンは小銃からサブマシンガンに持ち替えようとしていた。
マゼンタはすでに綾崎に背を向けナイフを逆手に持ち、ミナトに向かって駆けていた。
考えてもムダだ。今はこのマゼンタとシアンを打ち負かさなくちゃならねえ。
そう心で呟き、綾崎はマゼンタに向かって指を構える。素早く中指と親指を擦り合わせると、マゼンタは宙に、地上五メートルほどに放り出された。
地面にキスしやがれ、熱いやつをよ!
また指を鳴らす音は聞こえなかったが、問題なく能力は発動した。AJの仲間の黒人たちを五階から突き落とした位置エネルギー攻撃だ。空中に転移させられたマゼンタは曇り空を背景に地面へと加速して落ちてきた。
赤いネクタイをはためかせ落ちてくる間、マゼンタは奇妙に無表情だった。恐怖にゆがむでもなく、怒りに震えるでもなく、何かを叫ぶことすらなく、彼の身体は不気味なほど静かに自由落下を続けていた。
地上一メートル、落下する寸前、信じがたいことが起こる。ずっとミナトを狙い撃っていたシアンがこちらを振り向いた。小銃グロッグを狙いすますと、こちらに向かって撃ち放った。音はない。銃弾はアスファルトの地面に穴を穿つ。それはマゼンタの落下地点だった。外したのか、と思う刹那、ことは起こる。マゼンタの自由落下がふわりと止まったのだ。それどころか、黒いスーツに赤ネクタイの男は地上には降りたたず、なんと空中に静止した!
マゼンタはフッと似合わない笑みを漏らすと、綾崎に向き直り口を再びパクパクとさせた。
お前、の転移能力、は効か、ない。『万事休す』、無駄な、抵抗はす、るな。
マゼンタがいい終わると、シアンがサブマシンガンで辺りに銃弾をばら撒いた。銃弾に撃たれた地面は土煙りを巻き上げ、マゼンタとシアン、そしてミナトを綾崎の視界から覆い隠した。
こんな煙のなかじゃ能力が使えねえじゃねえか!
基本的に、『堕天使の懺悔』の悪魔が与える能力には認識が深く関わっている。例えば能力の対象が視認できる、や、対象に一度触れたことがあるなど、能力者の認識によってその能力は行使される。それは同時に認識のできない状況では能力を使えないということも意味している。例えば綾崎の『物体転移』の場合、対象を視認していることが発動する条件であり、見えないものは転移させることができないし、見えない場所に転移させることもできない。つまり今、この土煙りによってマゼンタとシアンが覆い隠されてしまえば、二人を認識することができなくなり、能力の対象にできなくなるのだ。
興梠は無事か?
綾崎の脳裏にミナトがよぎった。少女のような外見のミナト。彼はタフな男ではない。
生きてるか、興梠!
叫び声をあげたが、届いたかどうかわからない。右腕に土埃が入りそうになり左手で抑えた。まだドクドクと血が脈打っている。
土煙りの中から飛び出す影が一つ。それはナイフを避けて転んだミナトだった。
ミナトはふいにこちらを向くと、口をパクパクさせた。
上だ! 避け、て!
綾崎は空を見上げた。鉛色の空、汚い夜空に一点の青空が一つ。
銃を構えたシアンだった。
シアンは地上五メートル、壁に垂直に立っていた。落ちることなく、ただ平然と、それが当たり前かのように壁に立っていた。シアンは真下、つまり綾崎に向かって銃を撃つ。空を切り裂く銃弾は拳銃の発射機構と重力加速度の二つの力を得て目にも止まらぬ速さで降ってくる。
一発目が辛うじて逸れたのは幸運としか言いようがない。綾崎はそう考えた。しかしそれが誤りだと気づくのはそのすぐ後だった。地面に埋まった銃弾に向かい周囲の物が飛んでき始めたのだ。無数のレンガ、歩道の柵、果ては自動車までもが銃弾に向かい横っ飛びでやってきた。
銃弾は辛うじて逸れたに過ぎない。つまりはレンガ、柵、そして自動車は綾崎に向かって飛んできたも同義だ。綾崎は壁を背にしている。殺到する物々に囲まれれば、押し潰されてしまう。しかし避けようにも逃げ道がない。
飛んでくるものの中に一つの人影がある。宙を飛ぶ自動車の背に乗ったそのピンクの人影はマゼンタだ。マゼンタはナイフをまっすぐにこちらに向け、またしても口をパクパクさせた。
お前は人質、だ。悪魔、をおびき、だすため、のな。
綾崎はミナトをちらりと見た。マゼンタの背に指を鳴らす構えをとっていたが、歯をくいしばると視線を切って構えを解いた。
なんで能力を使わねえ?
綾崎は被りをふった。
そして壁を背に両手の指を構え、シアンと飛来する物を同時に視界に入れた。
両手の指を連続で鳴らす。レンガ、レンガ、レンガ、柵、レンガ、レンガ、自動車そしてマゼンタ。全て頭上、シアンの真上に転移させる。全て転移させると、綾崎は全力で駆けた。土煙りはもうほとんど収まっていて、視界は開けている。
落下する物々の下を出て、走りながらシアンの方を見上げると、水色の姿はもうそこにはいない。転移させたはずのマゼンタもいない。一体どこへ?
綾崎はまたミナトを見た。すると、そこにはミナトの向かって一直線に降下するシアンとマゼンタの姿があった。
能力を使え、興梠!
綾崎には自分の叫びが聞こえない。しかしミナトには確かに聞こえたようで、彼は震えながら指を構えた。が、しかしまた視線を逸らし指を鳴らさない。
どうして能力を使わねえんだ!
しかしそんなこととは関わりなく、水色とピンクが溶けあった紫の閃光は放たれた矢のように迷いなく進む。
チッ!
綾崎は舌打を一つして、指を鳴らした。
ミナトが目の前に転移し、マゼンタとシアンは地面に激突する寸前にまたも宙に浮いた。自動車は落下した衝撃で、地響きのような爆発音とともに明るいオレンジの炎を巻き上げる。
マゼンタがこちらに向かい口を開く。
これ以上邪魔、をする、なら、もう一つ、奪、うぞ。
シアンが銃を構え、一発、閃光のように飛ぶ銃弾を放つ。銃弾は綾崎の背後の壁に楔のように打たれ、それを目印とマゼンタが切っ先を向けて飛んできた。
避けられねえ!
銃弾の速さで飛ぶマゼンタは赤い原色の閃光だ。そのナイフが綾崎の身体をかばった右腕を切り落とす刹那、彼が見ていたのはただ怯えるミナトだった。
ミナトが消えた。
買っといて良かったぜ。
斬り落とされた右腕が掴んでいるのはスマホだ。画面には四人の宿泊しているスイートのダイニングが映っていて、画面の中には尻もちをついたミナトがいた。
綾崎は頭から血の気が引いていくのを感じていた。彼としても、地面に落ちている自分の右腕を見るのは初めての経験だった。
同時に奇妙な感覚に気づく。腕が斬り落とされたのに、痛みがない。噴水のように赤い血が吹き出ているのに、痛みがない。戦いの傷は深く、経験したことのない激痛が襲ってもおかしくないはずなのに、腕の痛みはさっきよりも随分マシ、どころか全く痛みを感じないのだ。
マゼンタが口を開いた。
美しい覚悟、だ。自分を犠牲に、仲間、を助けるとは。『ロウソクは身を減らして人を照らす』。さて、お前の仲間は、お前の、美しさに気づい、ているかな?
気が遠のいていく。綾崎自身は知る由もないが、彼の顔は幽霊のように蒼白く血の気が失せている。
きっと血を失い過ぎたせいだ……。いや、右腕が取れたせいか? どちらにしても、俺はもう駄目……だ。
綾崎の意識が失われる寸前、彼はマゼンタとシアンの苦りきった顔と、視界の端に赤い光を見た気がした。




