不夜城の怪人 第一〇話 出会いと別れ
「あの……」
「黙れ」
手術室の前、二人だけの廊下、ミナトは口をつぐむしかなかった。
マゼンタとシアンという双子の能力者に襲われた綾崎とミナトは、辛くもその魔の手から逃れていた。ミナトは綾崎に宿泊しているスイートへと転移させられ、綾崎は気を失う寸前、通りかかったホテルグラージオのオーナーと、燃える車につられて現れた野次馬に救われた。
しかし、支払った代償は大きい。綾崎は完全に右腕を斬り落とされていた。気を失ったのも、腕からの出血が多量であったためである。今、綾崎は右腕を繋ぎ合わせる手術を受けているのだった。
「お前、なぜ能力を使わなかった?」
ソファに座る漆間の放つ声は無表情で、そこから感情を読み取ることはできなかった。手を握り合わせ、額の前で組み祈るポーズでミナトを一瞥もせずただ淡々と口にしていた。
「それは……」
「言わないんだろ?」
強い口調だった。
「お前は俺たちに能力のことを知られたくないようだな」
「違う! そうじゃな……」
「違わないだろうが!」
漆間は立ち上がった。ミナトをまっすぐ見つめるその目には怒り、哀しみ、そして焦り、ドス黒い感情が雫となって垂れている。
「お前は、ビルを一棟焼き尽くすだけの能力を持っていながら、それを俺たちのために使うのは嫌らしい」
「そんなこと……」
「かたや」
漆間は大声をだした。
「かたや綾崎はお前を、俺たちのためには何もしてくれないお前を、腕一本! よく聞け、腕一本だ! 腕一本犠牲にして安全なところへ逃がしたんだ!」
綾崎はマゼンタが銃弾の速さで飛んでくる瞬間に、とっさの判断でミナトを一人、能力で逃がしたのだ。その際に綾崎は右腕を斬り落とされている。
「なあ教えてくれ」
急に声を落とした。
「教えてくれ興梠。俺たちはお前を三度救った。一度は日本、二度は燃え盛るビル、そしてこれが三度目だ」
漆間の目から大粒の涙がポロポロと溢れる。
「それでお前は何をしてくれた? お前は一体何をしてくれたんだ?」
ミナトは自分の目頭が熱くなるのを感じていた。そう、ミナトはこの二人に何もしてあげられていない。この命の恩人たちに何一つ、恩を返せていないのだ。頰をすうっと冷たい雫が滑り落ちた。
漆間はまたソファに座ると、額の前で手を組み祈るポーズをした。そして……
「教えてくれ」
「え?」
「仲間である条件というのが世の中にはある」
彼は震えた声で話しはじめた。
「それは『本当に苦しいときに助けてくれる』ことだ」
「……」
「俺にとって仲間とは母であり、二人の妹たちであり、そして綾崎だった。もう母と妹たちは死んでしまったが、綾崎のことは絶対に助けると決めている」
綾崎と漆間、二人の絆。それはお互いがお互いへの信頼で成り立っている。絶対に互いを助け合うという言葉にする必要もないほどの信頼で成り立っているのだ。
「興梠、お前はどうだ? 今、『本当に苦しい』俺たちを助けてくれるのか?」
ミナトは自分自身の行動を思い返した。マゼンタとシアンに綾崎と二人で襲われたとき、自分は何をしたか? マゼンタに綾崎が襲われたとき、自分は彼を助けようとしたか?
ミナトは首を横に振った。自分は彼に何もしなかった。ただ助けられただけだ。ミナトは綾崎に迫るマゼンタの背に能力を使おうとしたが結局やめたのだ。内に眠る自分自身を怖れて。
綾崎の『本当に苦しいとき』にミナトは彼を救わなかったのだ。
俯いて黙るミナトを横目に漆間は言った。
「役に立たないのは別に構わない。だが、今度みたいに俺や綾崎が傷つくのはゴメンだ。それに何より俺たちを信頼していない奴と一緒に旅はできない。だから」
漆間の足下にポタポタと雫が落ちていく。
「消えてくれ。俺たちの前から」
常になく震えたか細い声は、はっきりと拒絶の意志を備えていた。誰もいない手術室の前の廊下、そのあまりにも単純な別離の言葉は、長いその端まで響き渡った。いや、あるいはミナトの頭の中でだけ、こだまのように繰り返されていただけなのかもしれなかった。
漆間のすすり泣く声が響いていた。この人にこんな弱いところがあったなんて、一体誰が想像しただろう? 声をかけてやりたかった。大丈夫、とか、きっと腕もくっつくよ、とか、何か彼を元気づける言葉をかけてやりたかった。
だけど、ミナトにはその資格がないのだ。ミナトがいくらなにを言ってももう彼には届かない。このすすり泣く巨人はミナトを仲間と思えなくなってしまったのだ。それも、ミナトの隠し事が原因で。
僕のせいだ。
視界が潤んでいた。
僕のせいだ。
ミナトはただ、涙を流しその場から、二人のそばから去るしかなかった。
ミナトがフラフラとおぼつかない足取りで去ったあと、一体どれほどの時間が流れただろうか? 足に根が生えるほど長い気もするし、瞬き一回にも満たないごくわずかな時間にも感ぜられる。ともかくただ、漆間はとめどなく流れる涙と、親友の無事を祈ることを止めることはできなかった。
手術中のランプが消灯した。
手術室のドアが重々しく開き、ぞろぞろと手術着を着た看護師や医師が出てくる。
「君が彼のお友達かい?」
そのうちの一人手術用の頭巾を被った男が話しかけてきた。男は右腕をちょん切るような不吉なジェスチャーをしてみせた。それをジロリと見返すとその男は自己紹介がまだだったね、と微笑んだ。
「初めまして。執刀医のエドガー・シュミットです」
漆間は目の色を変え、シュミット医師に頭を下げた。
「これはとんだご無礼を……」
医師はいえいえ、と手を振ると、そのゴム手袋を外したばかりの、手術を終えたばかりの血生臭いようなゴム臭いような手を医師は差し出した。漆間はそれを両手で力一杯握りしめる。
「綾崎は! いえ、彼は助かりますか!?」
漆間が強引に医師の手を引き寄せたものだから、シュミット医師は困ったように眉をくねらせた。
「君、英語が上手だね」
「え? ああまあそうかもしれません」
そういえばそうだ。なぜ英語をこうもすんなり話せているのだろう。
「名前は?」
「漆間夜一です」
シュミット医師は一瞬、口元に妖しい微笑を浮かべた。
「大丈夫! 手術は成功したよ。三ヶ月もすればリハビリ次第で動くようになるんじゃないかな」
医師は大笑いして漆間の肩をポンポンと叩いた。
「三ヶ月?」
「努力次第では短くなるかも」
綾崎の寿命は残り一◯九日。三ヶ月もリハビリにかかってしまえば、残り五冊の魔本を二◯日足らずで見つけなくてはいけなくなる。
「そういえば田沼……」
シュミット医師への挨拶もそこそこに、漆間は走り去ってしまった。残された医師は自由になった手を見て、「昨日も手術、明日も手術。連勤はつらい」と呟くと、ニヤリと笑い長い廊下をコツコツと歩いていった。
「いない……いない……!」
漆間が駆けだしたのは、興梠が今魔本を持っていたことを思い出したからだった。漆間は興梠のことを仲間ではない、と暗に告げ、興梠に消えるように言ってしまった。そのこと自体には後悔はない。しかし、田沼が、つまりは魔本の悪魔が興梠に同行するなら話は別だった。
田沼と田沼の能力はこの旅には不可欠だ。それは魔本を探すことができるのは田沼だけだからである。
魔本それ自体は、人海戦術を除くいかなる方法をもってしても、探知することはできない。しかし魔本の悪魔、田沼は能力者を感知できる。
例えば日本にて興梠が田沼の魔本を所持していたように、世界各地で能力者が魔本を持っている可能性は大いにある。つまり能力者を探知できれば魔本の場所を間接的に知ることができるかもしれないのだ。
それはここラスベガスでも同じである。ラスベガスにおいて現時点では魔本を誰が持っているのかはわからない。しかし田沼さえいれば、嵐の中の灯台のように歩むべき道すじが示されるのだ。
「ここを背の低い、女みたいなやつが通らなかったか?」
病院入り口の受付係に漆間は尋ねた、が、その女は妙に澄まし顔で右手をいやらしく擦り合わせた。チップを要求する仕草である。
漆間はしぶしぶポケットに手を突っ込むと、一◯◯ドル札を掴み取った。
女は目を輝かせ、それを受け取ろうとしたが、漆間は手を引っ込める。
「情報が先だ」
ちぇっと舌打すると、少し前に出て行ったよ、と女はぶっきらぼうに答えた。
一◯◯ドル札を女の手に強引に握らせ、漆間は風のように院外へと出た。
「興梠! どこにいるんだー!」
叫び声は周りの患者やその家族をぎょっとさせるにとどまり、肝心の相手にはつゆと届かない。
「魔本は置いていけ!」
叫び声は遠吠えのようにこだましたが、受け手がおらず虚しく響くだけだった。
「ああ、君を連れてきてしまったのか田沼」
涙のスジが砂漠の乾いた風に吹かれて蒸発したあとも、ミナトは行く宛もなく彷徨うしかなかった。肌寒い風が頬を撫ぜ、ジーンズのポケットに手を突っ込んだときに、魔本『堕天使の懺悔』を持ってきてしまったことに気づいたのだった。
この魔本は漆間くんたちに返さなくちゃいけない。
僕にはこれを持つ資格がないんだ。
綾崎くんの命を救うためでもある。
漆間くんの『最も信頼する者の寿命を奪い続ける』能力を消すためにも彼らに必要なんだ。
これらはミナトの脳細胞をかけずる正論の群れ。一方彼は脳内に自己中心的な自分を抱えていることにも気づいている。
僕はあの二人の仲間である資格がない。けれど僕には他に仲間なんていない。
二人には田沼が居なくてもお互いがいる。ひるがえって僕は? 田沼を奪われたら本当に一人、暗く深い孤独の闇に逆戻りだ。
孤独はつらい。
普通の友人が叶わないのなら、悪魔であっても……
乾いたはずの涙がまた頬に二筋の流れを生み出そうとしていた。
そう、ミナトは孤独だ。『本当に苦しいときに助けてくれる』仲間などいない。
それもミナト自身だけのせいではなかった。彼の奥底に眠る、理性ではどうしようもない存在。それがいつでも彼をためらわせる最大の原因だった。
まだ隠し持っていた自分のスマホを数日ぶりに起動してみる。そしてこうなる前は頻繁に更新していたSNSを開いてみた。
それはどういうわけか一時間前に更新されていた。近所のノラ猫の写真とともに、『今日のムーちゃん』などと呟かれている。
これが『引継人』か。
引継人とは日本の公安が使う行方不明隠しの一種で、対象のSNSを引継人と呼ばれる担当者が乗っ取り、あたかも行方不明になどなっていないかのように見せかけることを言う。この場合、ミナトのSNSアカウントが引き継がれてしまい、公安の担当者がさもミナト自身が呟いているかのように装っているのだ。
引継人の業務はそれだけではない。職があれば退職、そして新天地へ行ったことにしたり、親や友人とも疎遠にしたりする。それは行方不明がバレないための処置だが、結果として対象となった者は人間関係を喪失する。対象者は帰る場所がなくなるのだ。
僕にはもう帰る場所もない。
ミナトは手の平大まで小さくなった魔本をポケットの中で握りしめた。
田沼、どうすればいい? 僕はどうすればいいんだ?
ポケットの中に握られた小さな本からの返事はない。ただ握った手の平が汗ばんで不愉快さが増すだけだった。
歩き歩いて数時間。どこをどう辿ったかすら覚えてはいない。ただミナトは運命が決めた足取りに従って歩き続けた。そして目の前に現れたのは、ホテルマーカスサーカスの正面入口だった。ミナトは吸い込まれるように中へ入って行くと、煤けた笑みを浮かべ、自嘲的に口にした。
「いっそあのAJのように死んでやろうか」
誰にともなく放ったその日本語はその場にいる者全ての鼓膜を揺らすにとどまった。英語話者たちは誰も言葉の真意には気づけない。
やけくそな歩みでサーカスアクトに入場すると、客はほとんどいなかった。無理もない話だ。AJが自殺したのはわずか二日前のことである。人死にが出たところで愉快な気分になる者などそう多くはない。わずかにいる客たちもその事実を知っていればこのサーカスアクトには来なかっただろう。
ほとんどの席が空いているなか、ミナトはふらりふらりと、呼ばれるようにある席に座った。奇妙な偶然か? はたまた運命か? そこはなんと右から三番目、前から一五番目。そう、AJが自殺した席だった。
ミナトはAJの死んだ場所を知らない。だからミナトが座ったのは単なる偶然にすぎないが、それはなんとも運命的な偶然だった。
もう一人、運命に導かれた者がいた。それはAJが死んだあの日、舞台上でピエロをしていた男だ。
この日も舞台袖で次の公演の出番を大玉に乗りながら待ち構えている。客が少ないから張り合いがないな、と思ったあと、いや、一人でも見てくれる人がいるのなら、と彼は意気込みなおす。
「開演の時間よ、頑張ってね」
アシスタントで妻のシェリーが彼の頬に軽くキスした。ニコッと微笑むこの笑顔を守るためなら、彼はなんだってする。たとえ殺人でさえも。
これが今日は最後の公演だった。この四五分を演じきれば、今日の仕事は全て終わり。
舞台に明かりが灯されると、ピエロの半仮面をつけた彼は大玉を転がし舞台上へと躍り出た。
やっぱり少ないな。
舞台にはまばらな拍手で迎えられた。ジャグリング用の玉を袖口からマジックのようにポポンと三個取り出しながら、ピエロの彼は客席を見回した。手前の方には親子連れが三組、白人のカップルが二組、そしていつもの黒人の少年たち。そして、奥に目をやると、誰もいない。
……いや一人いる。しかしあの席は……
アジア人の少女が座っているのは二日前にAJが自殺した席だった。
なぜあんな席へ? いやそれよりもしかして日本人か?
ピエロは五個にまで増えていたジャグリングの玉をパッと鳩に変えると、客席に向かってお辞儀をした。
ピエロが顔をあげるとき、ちらりと少女の方に目をやったが、ショーには全く興味がないようで、ただ虚ろに上方を見上げていた。
「さあお嬢さん、僕のお手伝いをしてくれませんか?」
ピエロは一瞬にして少女の隣に移動してみせた。親子連れがわっと声をあげ大きく手を叩いた。
少女はこちらをぼうっと見上げ、そして言った。
「僕は男なんですけど……」
「これは失礼。名前を聞かせてくれるかな?」
「興梠ミナトです」
「そう、ミナト。ではミナト君、舞台に来てくれませんか?」
「え、僕は結構です」
ピエロはしぶるミナトを強引に引っ張り立たせ、目の前でパンっと手を叩いた。すると、そこからミナトは消え、舞台上にポンっと現れる。親子連れがまたわあっと驚いた。
「さあお客さん方、今からこのミナト君に体験してもらうのは空中浮遊です! よく見ておかないと見逃しちゃうよ?」
舞台上に戻ったピエロがミナトの肩を叩くと、ミナトが宙にふわりと浮いた。一歩一歩と宙を舞い歩くミナトは不可思議なできごとに舞い上がるでもなく、驚くでもなく、ただ憮然として歩いてみせた。
おおっと歓声が上がった。数人ばかりとはいえ客席がわくのは気持ちいい。そのために悪魔に魂を売ってまでサーカスに帰って来たのだから。
僕も僕も! と男の子がせがんだが、
「残念、また今度」
と言うとまたお辞儀をし、まばらながら力一杯の拍手を浴びながら舞台袖へとミナトとともに下がっていった。
「下にいたの、誰です?」
ミナトが舞台袖で小声で問いかけてきた。
「妻のシェリーさ。アシスタントをしているんだ」
「ふーん、で、あなたは?」
目の前のミナトとかいう男は不遜な態度だ。名前からして日本人に違いない。日本人なら、もしかしたら先生を、いや「彼」を……
「僕の名前はアレックス。しがないピエロさ」




