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第71話 普通のJKナデシコの日常⑦

 ナデシコの足は、自然と学習机の方へと向かっていた。


 なぜそこへ向かおうと思ったのか、自分でも分からない。


 ただ、胸の奥で何かが「そこを探せ」と告げているような、そんな感覚があった。


 机の前まで来ると、ナデシコはゆっくりと椅子を引いた。


 そして腰を下ろし、しばらくの間、何もせずに引き出しを見つめる。


「……何だろう」


 自分でも不思議だった。


 この引き出しに何かが入っている。


 そんな確信めいたものが、なぜかあった。


 恐る恐る取っ手に手を掛ける。


 そして、ゆっくりと引き出しを開けた。


 中には筆記用具や古いプリントなど、見慣れたものがいくつか入っている。


 その奥に――一冊のノートがあった。


「あ……」


 ナデシコは思わず声を漏らした。


 見覚えがある。


 それは以前から使っていた、ごく普通のノートだった。


「……まだ残ってたんだ」


 この一年の間に、移動されることも、処分されることもなく。


 まるで、そこにあることが当然だったかのように、以前と同じ場所に仕舞われていた。


 ナデシコはノートを取り出す。


 表紙には何も書かれていない。


 それを両手で持ったまま、しばらく眺める。


 そして――


 ぱらり。


 最初のページをめくった。


『〇月✕日 今日も何もできなかった 無気力』


 そこには、短い文章が記されていた。


『〇月△日 ワタシなんて、いてもいなくても同じ 空気』


『✕月△日 どうせ、何をやってもうまくいかない 虚無』


「……」


 次のページ。


 また次のページ。


 どこを開いても、似たような言葉が並んでいる。


 暗い。


 驚くほど暗い。


 まるで、光というものを最初から信じていない人間が書いた文章だった。


 それは、日記などではない。


 その日に何を食べたとか、学校で何があったとか、そんな出来事を記録したものではなかった。


 空っぽの心の奥底から、ナデシコがどうにか搾り出した叫び。


 誰にも言えなかった言葉を、紙の上にだけ吐き出していたのだ。


「……ふふ」


 ナデシコの口から、自嘲するような笑いが漏れた。


「相変わらず、暗いなぁ……ワタシ」


 自分で書いたものなのだから当然だ。


 そう思いながら、ページをめくる。


 そして――


「あれ?」


 指が止まった。


 日記は、もう終わっているはずだった。


 ページの端に残る記録からして、これ以上先に書かれているはずがない。


 なのに。


 続きがある。


 ナデシコは眉をひそめながら、そのページをめくった。


「……え?」


 そこに記されていた文字を見て、目を疑う。


 筆跡は、自分のものだった。


 間違いない。


 何度も見てきた自分の文字。


 けれど――文章の雰囲気が、まるで違う。


 そこには、こう書かれていた。


『△月〇日 見知らぬ場所 見知らぬ家』


『ワタクシは、今日からここで暮らさなければならない』


『覚悟を決めたとはいえ、不安ですわ』


「……」


 ナデシコは、しばらくその文章を見つめたまま動かなかった。


 ワタクシ。


 ですわ。


 自分なら、絶対に使わない言葉。


 なのに筆跡は確かに自分のものだった。


「これ……」


 ページを持つ指が、かすかに震える。


 頭の中に、あの日から感じ続けていた疑問が浮かび上がってくる。


 空白の一年。


 自分ではない自分。


 家の中に残された、自分には覚えのない痕跡。


 そして――


 この日記。


「……もう一人の、ワタシ」


 その言葉が、自然と口からこぼれた。


 ナデシコは息を呑みながら、続きを読み進める。


 そこに記されていたのは、最初こそ不安に満ちた文章だった。


 見知らぬ時代。


 見知らぬ国。


 見知らぬ家。


 何も分からない場所で生きていかなければならない恐怖。


 その感情は、今のナデシコにも理解できた。


「……ワタシと、同じなんだ」


 ほんの少しだけ、安心する。


 自分とは違う人間だと思っていた。


 誰とでも仲良くなれて。


 自ら進んで生徒会長に立候補して。


 バンドまで結成して。


 自分のやりたいことを見つけて、迷うことなく突き進んでいた少女。


 そんな人間なのだから、最初から何もかも上手くできたのだと思っていた。


 けれど。


 違った。


 最初は、この少女も不安だったのだ。


 怖かったのだ。


 分からなかったのだ。


「……そっか」


 ナデシコは、少しだけ頬を緩めた。


「最初から、強かったわけじゃなかったんだ……」


 それだけで、ほんの少しだけ距離が縮まったような気がした。


 ところが。


 次の日の記録を読んだ瞬間――


『△月×日 肉じゃがというものを、初めて食しましたわ』


『何と美味なのでしょう!』


『これさえあればワタクシ、生きていけますわ!』


「…………え?」


 ナデシコは固まった。


「いや……」


 昨日まであれほど不安に満ちていた文章が、一晩で完全に別人のようになっている。


「……立ち直るの早すぎない?」


 思わず呆れた声が出た。


 それから、ふっと笑う。


「確かに、ワタシも肉じゃが好きだけど……そこまで?」


 自分でもおかしくなって、小さく笑った。


 けれど、その笑いはすぐに止まった。


 ページをめくったからだ。


 そこには、知らない自分の一年間が記されていた。


 初めての登校。


 初めての友達。


 ――サトコとの出会い。


「……サトコ」


 その名前を指でなぞる。


 今朝、八塚見(やつかみ)から聞いた名前。


 そして今日、偶然耳にした名前。


 ナデシコ自身には何の記憶もない。


 なのに、その名前を目にするだけで胸が温かくなる。


 それと同時に、どこか切ない。


 まるで、失ってはいけないものを失ってしまったような感覚。


 さらにページをめくる。


 同じ境遇の仲間――駒(こま)との出会い。


「駒(こま)……」


 今日、野球グラウンドで出会った少女。


 颯爽とボールを捕り、まるでレーザービームのような送球を見せた少女。


 そして、彼女も言っていた。


『前にもこんなコト、ありませんでしたか?』


「……」


 ナデシコは黙り込んだ。


 ページをめくる。


 生徒会長に立候補。


「ホントに……立候補したんだ」


 自分には到底できないと思っていたことを、もう一人の自分は自ら望んでやっていた。


 さらにページをめくる。


 ――『聖ヴァレリアの狂犬』、ジャンヌとの出会い。


「……ジャンヌ?」


 その名前に、ナデシコの胸がざわめく。


 今日、帰り道で出会った金髪碧眼の少女。


 あの少女もまた、自分を見て言った。


『お前、どっかで会ったことないか?』


「……」


 ナデシコの指が止まる。


 サトコ。


 駒(こま)。


 ジャンヌ。


 今日一日で出会った三人。


 全員が、自分に対して同じようなことを言った。


 まるで以前から知っているように。


 まるで、失われた一年のどこかで会っていたかのように。


 そして――


 実際に、日記にはその名前が残されている。


「……本当に、ワタシだったんだ」


 ナデシコは、呟いた。


 その後もページをめくり続ける。


 初めての音楽ライブ鑑賞。


 仲間とのバンド結成。


 初めてのアルバイト。


 アルバイト代でギターを購入。


 温泉宿でのバンド合宿。


 挫折。


 復活。


 文化祭でのライブ演奏。


 そして――


 サトコの異変と、バンドへの加入。


「……あ……」


 ナデシコの呼吸が浅くなる。


「あ……あぁ……」


 ページをめくるたびに、心臓の鼓動が高鳴っていく。


 そこに記されているのは、青春だった。


 自分がこれまで一度も経験したことのないもの。


 友達と笑い。


 仲間と悩み。


 何かに夢中になり。


 失敗して。


 それでも諦めずに立ち上がる。


 そんな、当たり前のようでいて、自分には決して手に入らないと思っていた日々。


 文章そのものは簡略的だった。


 飾り気もない。


 その日の出来事を、ただ淡々と記録しているだけ。


 けれど、その一つ一つの文字の奥に――


 確かな熱があった。


「……こんなに」


 ナデシコの胸の奥で、モヤモヤとした感情が渦巻く。


 羨ましい。


 そう思った。


 自分の知らない自分が、こんなにも充実した日々を送っていたことが羨ましかった。


 同時に、悔しかった。


 自分には、そんなことができない。


 自分には、友達なんてできない。


 人前に立つなんて無理。


 何かに夢中になることもできない。


 そう思い込んで生きてきた。


 なのに。


 もう一人の自分は、それを全部やってのけている。


「……何で」


 ナデシコは唇を噛んだ。


「何で、ワタシにはできなかったんだろう……」


 そして、さらにページをめくる。


 そこから先には、悩みが増えていた。


 元の時代に戻らなければならない。


 そんな記述。


 それによって、バンドメンバーとの関係にも亀裂が生じていく。


 それでも、彼女は諦めなかった。


 悩み。


 挫折。


 衝突。


 そしてーー


 最後には、タイムリミットまでにオリジナル曲を作り上げたことまで記されていた。


 そこまで読み進めたところで、ナデシコはノートを持つ手を止めた。


「……すごい」


 それしか言葉が出なかった。


 絶望的な状況だった。


 いつか終わりが来ると分かっていた。


 それでも最後まで諦めず、自分のやりたいことを成し遂げた。


 自分とは正反対の人間。


 そう思った。


 けれど――


 その直後、ある疑問が浮かぶ。


 なぜ、もう一人の自分は消えたのか。


 なぜ、今になって自分が戻ってきたのか。


 そして。


 なぜ、このタイミングだったのか。


 ナデシコの顔から、少しずつ血の気が引いていく。


 もしかして。


 もしも――


「ワタシが……」


 声が震えた。


「ワタシが意識を取り戻したから……?」


 その可能性に気付いた瞬間。


 ナデシコは愕然とした。


 あれほど強い意思を持っていた少女が。


 自分のやりたいことに真っ直ぐ生きて。


 青春を謳歌して。


 たくさんの人と出会って。


 たくさんの思い出を作って。


 それなのに。


 消えた。


 そして代わりに戻ってきたのは――


「ワタシ……」


 何をやっても駄目だと思い。


 誰とも関わらず。


 何かに挑戦することもなく。


 自分自身を好きになることすらできない少女。


「ワタシなんかが……」


 生きていても、仕方がない。


 不意に、そんな考えが頭をよぎった。


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