第69話 普通のJKナデシコの日常⑤
学校を出てからの帰り道。
灰島ナデシコの胸の中には、まだモヤモヤとした感情が渦巻いていた。
原因は、はっきりしている。
今日一日だけで、二人の少女から立て続けに、まるで以前からナデシコを知っているかのような言葉を掛けられたからだ。
ひとりは、学校のトイレで出会った、ショートカットの快活そうな少女。
そして、もうひとり。
学校のグラウンドで、飛んできた野球ボールからナデシコを助けてくれた、栗色の髪をポニーテールに結んだ少女。
どちらも、ナデシコの記憶にはない人物だ。
それなのに、二人と顔を合わせた瞬間、ナデシコ自身も言葉では説明できないような感覚を覚えた。
初めて会ったはずなのに。
どこかで会ったことがあるような。
もっと言えば、ずっと以前から知っていたような。
そんな不思議な感覚。
だが、どれだけ記憶を辿ってみても、何も思い出せない。
(空白の一年間で、二人と会っていたのかな……)
ナデシコは、そんな可能性を考えた。
今の自分には、一年間の記憶が丸ごと抜け落ちている。
ならば、その間に出会っていたとしても、おかしくはない。
むしろ、二人が自分を知っているような反応を見せたことを考えれば、その可能性が最も高いのだろう。
だけど。
それだけでは、どうしても説明のつかない感情が、胸の奥に残っている。
ただ昔の知り合いだった。
そう考えるだけでは片付けられないような、温かくて、どこか懐かしい感覚。
そして、話しかけられた時には戸惑って逃げ出してしまったのに、別れた後になってから、もっと話してみたかったと思ってしまう。
(何なんだろう、この気持ち……)
答えの出ない疑問を抱えながら、ナデシコはとぼとぼと街中を歩いていた。
と、その時だった。
「ひいぃぃぃッ!」
突然、付近から男の情けない悲鳴が響き渡った。
「……え?」
ナデシコは、ゆっくりと顔を上げる。
すると、この先にある交差点の角から、ひとりの若い男が血相を変えて飛び出してきた。
男は何度も後ろを振り返りながら、こちらへ向かって全力で駆けてくる。
「せ、『聖ヴァレリアの狂犬』だァァァァァッ!!」
「狂犬?」
男は恐怖に怯えたような形相でそんなことを叫ぶと、ナデシコの横を通り過ぎ、そのまま通りの向こうへ一目散に駆け抜けていった。
ナデシコは、ぽかんとした顔でその背中を見送る。
(大きな犬でもいたのかな?)
大の大人があそこまで恐怖しているのだ。
尋常ではないほど大きな犬が、この近くにいるのだろうか。
ナデシコがそんなことを考えていると、
「待ちやがれ、このナンパ野郎!」
交差点の角から、今度は威勢の良い声が響いた。
ナデシコは反射的に顔を向ける。
そして、次の瞬間。
「……え?」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
交差点の角から現れたのは、一人の女子高生だった。
鮮やかな金髪。
透き通るような碧い瞳。
日本人離れした、まるで外国の映画から飛び出してきたような華やかな容姿。
さらに、彼女が着ている制服は、お嬢様学校として名高い【聖ヴァレリア女学院】のものだった。
しかし。
そんな上品な制服姿とは、どう考えても似つかわしくないものが、彼女の右手には握られている。
所々が凹み、年季の入った金属バット。
「……」
ナデシコは、しばらく言葉を失った。
金髪の女子高生は、金属バットを片手に、先ほどの男を追いかける。
しかし、すでに男の背中は通りの向こうへ消えていた。
「ちっ、逃げ足だけは速ぇな」
少女は悔しそうに呟くと、ナデシコの近くで立ち止まった。
そして、男が消えていった方向を睨みつけながら、
「これに懲りたら、二度とウチのコーハイたちにちょっかい出すんじゃねぇぞッ!!」
勇ましい雄叫びを上げる。
そのあまりにも男らしい啖呵を目の当たりにして、ナデシコは少しだけ体を強張らせた。
だが、状況を考えれば、おそらく先ほどの男が、彼女の後輩に何かちょっかいを出していたのだろう。
それを止めるために、金属バットを持って追いかけていた。
そう考えると、見た目はかなり怖いが、意外と優しくて良い人なのかもしれない。
「ったく、これだからオトコってのはよォ……」
金髪の少女は頭を掻きながら、大きなため息を吐く。
と、その時。
ふと、二人の目が合った。
「ん?」
金髪の少女が、じっと目を細める。
鋭い眼光。
真正面から向けられる碧い瞳に、ナデシコは蛇に睨まれた蛙のように身をすくめた。
(やっぱり、怖い……!)
ついさっきまで、意外と優しくて良い人かもしれない、などと思っていたことを、ナデシコは早くも後悔していた。
「あ、あの……ワタシに何か?」
引き攣った笑みを浮かべながら、恐る恐る相手の顔色を窺う。
「ああ、悪りぃ」
すると、金髪の少女はすぐに表情を和らげた。
軽く首を横に振ってから、
「ただ、何となく気になってよォ」
と、そう言う。
そして。
「お前、どっかで会ったことないか?」
先ほどまでとは違う、真剣な眼差しをナデシコへ向けた。
「え?」
ナデシコは、驚きと戸惑いで首を傾げた。
それも、そのはずだった。
今日だけで、これでもう三度目。
ショートカットの少女。
野球部のポニーテールの少女。
そして、今度は目の前の金髪碧眼の少女。
誰もが、初対面のはずのナデシコに対して、以前から知っているような反応を見せている。
しかも。
日本人離れした容姿をした、ヤンキー風のお嬢様学校の女子高生。
これほど目立つ存在と出会っていれば、そう簡単に忘れることなどないだろう。
「初めて……だと思います」
ナデシコは弱々しい声で答えた。
だけど。
何の接点もないはずなのに、ナデシコ自身もまた、言葉では言い表せない不思議な感覚に見舞われていた。
既視感とも違う。
懐かしさとも、少し違う。
今まで感じたことのないような、モヤモヤとした感情が、胸の奥をざわざわと掻き乱している。
(何なんだろう、この感じ……)
金髪の少女を見ていると、何かを思い出せそうな気がする。
けれど、その肝心の何かが、どうしても出てこない。
まるで、厚い霧の向こう側にあるものへ手を伸ばしているような、そんなもどかしさ。
ナデシコを凝視していた金髪の少女だったが、
「……だよなぁ」
しばらくして、頭を掻きながら苦笑を浮かべた。
「悪かったな。気にしないでくれ」
そう言うと、少女は踵を返す。
「あ……」
不意に、ナデシコは手を伸ばしていた。
しかし。
何を言えばいいのか分からない。
名前を聞けばいいのか。
もう少し話をしてみればいいのか。
自分と彼女が以前に会ったことがあるのなら、それを確かめればいいのか。
だけど、結局。
ナデシコは何ひとつ言葉にできなかった。
伸ばした手は、その背中が見えなくなると同時に、ゆっくりと下ろされる。
「何で……」
ナデシコは胸に手を当て、自分自身に訊ねた。
「何で、こんなにモヤモヤするんだろう?」
その答えは、やはり分からない。
ただ、またひとり。
もっと話をしてみたかったような少女と、別れてしまった。
そのことだけが、ナデシコの胸に小さな寂しさとして残っていた。
モヤモヤとした得体の知れない感情を抱えながら、ナデシコは再び、とぼとぼとした足取りで家路を辿るのだった。




