第68話 普通のJKナデシコの日常④
始業式を終え、改めて担任の那波から今年度の大まかな予定を聞かされたあと、その日は下校となった。
新学年初日ということもあり、教室の中にはどこか浮き足立った空気が残っている。
新しいクラス。
新しい担任。
そして、新しい一年の始まり。
クラスメイトたちは友達同士で楽しそうに言葉を交わしながら、次々と帰り支度を整えていく。
そんな中、ナデシコは自分の机に向かって、教科書やノートをひとつずつカバンへと詰め込んでいた。
「ナデシコちゃん、じゃあね!」
不意に声を掛けられる。
「あ、はい……また、明日……」
振り返ったナデシコは、辿々しい口調と引き攣った笑顔で答えた。
「うん、また明日ね!」
クラスメイトは笑顔で手を振りながら、教室を出ていく。
ナデシコも控えめに手を振り返した。
やがて、その後ろ姿が廊下の向こうへ消える。
それを確認すると、ナデシコは大きなため息をひとつ吐き出した。
「帰ろ……」
カバンを背負い、誰もいなくなりつつある教室を後にする。
廊下を歩き、昇降口で靴を履き替え、校舎の外へ。
春の柔らかな日差しが、校庭を包み込んでいた。
(何でワタシって、いつもこうなんだろ……)
グラウンド沿いを、とぼとぼとした足取りで歩きながら、ナデシコは今日一日の出来事を思い返していた。
もしかしたら。
もしかしたら今日という日は、自分を変えることができるチャンスだったのかもしれない。
存在感を消して。
誰かの陰に隠れて。
何をするにも「自分なんか」と諦めて。
ただ静かに、波風を立てずに生きていく。
そんな今までの自分から抜け出して、日の当たる場所で、普通の人間として生きていく。
そのための絶好の機会だったのではないだろうか。
けれど――。
それでもナデシコは動けなかった。
いや。
正確には、動かなかったのだ。
自分から一歩踏み出すことを、最後まで怖がってしまった。
グラウンドへ目を向ける。
新学期初日だというのに、そこには部活動に励む生徒たちの姿があった。
グラウンドを駆け回る運動部。
声を掛け合いながら練習に励む生徒たち。
遠くから聞こえてくる笑い声。
春の風に乗って響く掛け声。
そこにあるのは、まさに――青春だった。
ナデシコは、これまでの人生で「青春」というものを実感したことがない。
自分には出来ない。
自分には関係ない。
そう決め込んで、いつも遠くから眺めているだけだった。
そして今日もまた、同じだった。
沈んだ気持ちのまま、ナデシコは何となくグラウンドへ視線を向ける。
野球グラウンドでは、野球部員たちが守備練習をしていた。
ホームベース付近にいる部員が、次々とボールを打ち上げる。
外野にいる部員たちは、それを追いかけてキャッチしていく。
(難しそう……)
運動神経が鈍く、体育の成績もあまり芳しくないナデシコからすれば、ボールの行方を追いかけるだけでも大変そうに見えた。
そんなことを考えていた、その時だった。
次に打ち上げられたフライが、これまでとは明らかに違う勢いで空へ舞い上がった。
(あれ?)
ボールは高々と上空へ飛び上がる。
そして――。
外野の頭上を、軽々と越えていった。
(……え?)
ナデシコは足を止める。
白球は大きな弧を描きながら、こちらへ向かってくる。
(うそ……)
嫌な予感がした。
その予感は、時間が経つほど確信へと変わっていく。
ボールは確実にナデシコのいる方向へと落下してきている。
「あぶない、避けてッ!!」
グラウンドの方から、切羽詰まった声が飛んできた。
「避けるって……どっちに?」
ナデシコには、ボールの落下地点が分からない。
そもそも、どうやって避ければいいのかすら分からない。
おろおろとその場に立ち尽くしている間にも、飛球はみるみる迫ってくる。
(ぶつかる!)
そう直感した瞬間だった。
ひゅん!
影が、視界を横切った。
誰かが、ナデシコの目の前へ飛び込んでくる。
ひとりの少女が、颯爽と跳躍していた。
瞬間、ポニーテールに結んだ栗色の長い髪が、春風を受けてふわりと舞う。
少女は右手を伸ばした。
ばしっ!
乾いた音が響く。
白球が、少女のグローブの中へ収まった。
そのまま少女は体勢を崩すことなく着地する。
そして、何事もなかったかのようにグローブを構えた。
野球グラウンドへ視線を向ける。
次の瞬間――。
大きく振りかぶった。
ぶおんっ!
腕がしなやかに振り抜かれる。
白球は一直線に風を切り裂き、百メートルは離れているはずのホームベース付近へ飛んでいく。
そして――。
ズドンッ!
吸い込まれるように、ホームベース付近にいた部員のグローブへ収まった。
(れ、レーザービーム……!?)
ナデシコは思わず目を見開いた。
まるで大リーガーのような、とんでもない送球だった。
少女はそんな美技を見せたことなど気にも留めていない様子で、ナデシコへ振り返る。
そして、穏やかな笑みを浮かべた。
「あぶないところでしたね」
快活で明るい声。
ナデシコとは、何もかも正反対に聞こえる声だった。
「あ、その……」
ナデシコは慌てて頭を下げる。
「この度は助けていただき、深く感謝申し上げます。せめてものお礼に、これをどうぞ」
カバンを開き、校内の自販機で購入したペットボトルの紅茶を取り出す。
そして、それを両手で差し出した。
「え?」
少女が目を丸くする。
「そんな、気にしないでくださいよ」
そして苦笑した。
「ていうか、迷惑かけたのはアタシたちの方なんですから」
「そう、ですか……」
ナデシコは差し出した紅茶を見つめる。
「それでは……」
そそくさとカバンへ戻した。
「失礼します」
小さく会釈をして、その場を離れようとする。
しかし――。
「ちょっと待ってください!」
すぐに呼び止められた。
ナデシコの足が止まる。
ゆっくりと振り返った。
「あ、あの……何か?」
恐る恐る尋ねる。
正直なところ、自分とは正反対のアウトドア派。
見るからに陽気で活発そうな少女と話をするのは、どうにも苦手だった。
出来ることなら、一刻も早く帰りたい。
そう思っていた。
「えっと……」
少女は少しだけ言いにくそうに頬を掻いた。
「変な話かもですけど……前にも、こんなコトありませんでしたか?」
「え?」
ナデシコは首を傾げる。
「前にも……?」
「はい」
少女は少しだけはにかんだ。
「なんとなくなんですけど。アナタとは、前にもこうやって会ったことがあるような気がして……」
その言葉を聞いた瞬間。
ナデシコの胸が、どくん、と大きく鳴った。
(……前にも?)
記憶を探る。
けれど、何も思い出せない。
おそらく後輩だ。
もしかしたら中等部の生徒なのかもしれない。
野球部に所属していることから考えても、自分とは接点がなさそうに思える。
そもそもナデシコは野球に興味がない。
この少女と会った記憶もない。
なのに――。
(……何だろう)
胸の奥が、ざわついている。
どこかで会った。
どこかで、こんな場面があった。
そんな気がする。
まるで、記憶の奥底に何かが沈んでいるようだった。
手を伸ばせば届きそうなのに。
あと少しで思い出せそうなのに。
そこへ手を伸ばした途端、霧のように消えてしまう。
「……」
ナデシコが黙り込んでいると、少女は申し訳なさそうな顔をした。
「あ、変なコト言ってすみませんでした」
そして、小さく笑う。
「今のは全部忘れてください」
「え……」
「それじゃあ、失礼します」
ぺこりと頭を下げる。
そして、少女はくるりと踵を返した。
そのまま、野球グラウンドへ向かって駆けていく。
「あ……」
ナデシコは、その背中を見送った。
ポニーテールが春風に揺れている。
やがて少女はグラウンドの中へ戻り、仲間たちと合流していった。
その姿を見ながら、ナデシコの胸に奇妙な寂しさが込み上げてくる。
(何で……)
さっきまで。
陽キャと話すのは苦手だと思っていた。
早く帰りたいと思っていた。
なのに。
今は――。
もう少し話していたかった。
そんな気がする。
理由は分からない。
ただ、胸の奥で得体の知れない感情が、ざわざわと騒ぎ続けている。
ナデシコはその正体を掴めないまま、校門へ向かって歩き出した。
春の風が吹き抜ける。
その風に背中を押されるように、少女の栗色の髪が遠ざかっていく。
ナデシコは一度だけ振り返った。
けれど、そこにはもう、練習に戻った野球部員たちの姿しかなかった。
ナデシコは小さく息を吐く。
そして――。
何も分からないまま、帰路についた。




