第67話 普通のJKナデシコの日常③
式典を終えて教室へ戻ると、灰島ナデシコは自分の机に突っ伏した。
「もうムリ……。あんなのムリ……」
生気のない声が、机の上に吸い込まれるように漏れる。
そのまま彼女は、
「ムリ……ムリです……。ワタシにはムリ……」
まるで呪文のように同じ言葉を繰り返した。
そんな様子を見かねて、近くの席から八塚見が声を掛ける。
「おい、大丈夫かよ?」
しかし、ナデシコは顔を上げようとしない。
「ワタシみたいな根暗で、何の取り柄もない陰キャが、生徒会長なんて大きな間違いです。ましてや、あんな大人数の前に立って話すなんて……処刑台の前に引き出されて、晒し者にされているのと一緒です……」
抑揚のない声で、どんよりとした空気を漂わせながら早口に言葉を並べていく。
先ほど行われた新年度式典――。
灰島ナデシコの生徒会長としての挨拶は、結果だけを見れば成功だった。
放送で呼び出され、生徒会室へ向かったナデシコは、副会長の喜間締から一枚の紙を手渡された。
そこに書かれていたのは、式典で読み上げるためのスピーチ原稿だった。
しかも、それは当日に渡すよう、事前にナデシコ本人から頼まれていたものらしい。
もちろん、今のナデシコにはそんな記憶はない。
つまり、それを手配したのは、この一年間を生きていた”もう一人の灰島ナデシコ”なのだ。
ともあれ、その原稿のおかげで、口調こそ緊張のあまり何度も詰まりそうになったものの、大きな失敗をすることなく挨拶を終えることができた。
だが、今まで経験したことのないほどの極度の緊張に晒されたせいで、彼女の精神はすっかり疲れ果てていた。
「やっぱ、おもしろいな、アンタは」
八塚見は苦笑しながら肩をすくめる。
「おもしろくなんて、ないですよ……」
完全に魂が抜け切ったように、ナデシコは大きなため息を吐く。
「ねえねえ、灰島さん!」
その時だった。
横から弾んだ声が飛び込んでくる。
ナデシコが鈍い動きで顔を上げると、自分の机の周りを数人の女子生徒が囲んでいた。
「な、何でしょうか……?」
引き攣った笑顔を浮かべながら尋ねると、少女たちは待ってましたと言わんばかりに身を乗り出す。
「灰島さんって、バンドやってるんだよね?」
「『処刑エンド令嬢s』のジェーン・グレイなんでしょ?」
「文化祭のライブ観たよ! 今度はいつライブやるの?」
目をきらきらと輝かせながら、質問が一斉に飛んでくる。
「……え? えっと……」
ナデシコは目を白黒させた。
何を言われているのか分からない。
もちろん、バンドなどやったことはない。
ギターに触れた記憶すらない。
自室にエレキギターが置かれていることだけは知っているが、自分にとっては突然現れた謎のオブジェでしかない。
だから、返事のしようがなかった。
「ギターって、いつから弾いてるの?」
「髪って、いつもどこでセットしてもらってるの?」
「ジェーンのギター、めちゃくちゃカッコ良かった!」
質問は止まらない。
次から次へと浴びせられる言葉。
まるで人気アイドルを囲むファンのような熱量だった。
「は、はわわ……」
ナデシコの頭は完全にパンクした。
額からは冷や汗が噴き出し、視界がぐるぐると回る。
誰かに注目されることなど、生まれてこの方経験がない。
そんな自分が、今や教室の中心にいる。
耐えられるはずがなかった。
「ご、ごめんなさい! ちょっとトイレッ!」
叫ぶように言うと、ナデシコは女子生徒たちの間をすり抜け、一目散に教室を飛び出した。
その勢いは、まさに脱兎のごとく。
「あっ!」
「灰島さん!?」
後ろから慌てた声が聞こえてきたが、振り返る余裕などなかった。
教室の出入口を見つめながら、一人の女子生徒がぽつりと呟く。
「……ナデシコちゃん、もしかして、ずっとガマンしてたのかな?」
◇
「はぁ〜〜〜〜〜ッ!!」
トイレの洗面台の前で、ナデシコは肺の中の空気をすべて吐き出すような勢いで、大きなため息を漏らした。
教室を飛び出してきたものの、別に用を足したかったわけではない。
とにかく、あの場から逃げ出したかった。
ただ、それだけだった。
人の輪の中に入るのは苦手だ。
みんなと話していると、自分がどれだけつまらない人間なのか、何も持っていない、空虚で瑣末な存在なのかを思い知らされる。
だから、昔から人との距離を置いてきた。
近付かなければ傷付かない。
期待されなければ、がっかりもされない。
それが、灰島ナデシコなりの処世術だった。
だけど――。
(あれ……?)
さっき、教室でクラスメイトたちに囲まれた時のことを思い返す。
戸惑った。
何を答えればいいのか分からなくて、頭の中は真っ白になった。
だけど、不思議だった。
(イヤじゃ……なかった)
あれだけたくさんの人に話し掛けられたのに。
逃げ出したくなるくらい困ったのに。
胸の奥には、不快感とは違う何かが残っていた。
(もしかして、ワタシ……)
ナデシコはゆっくりと顔を上げる。
洗面台の鏡に映る自分と目が合った。
そこに映る表情は、ほんの少しだけ口角が上がっているように見えた。
思わず、どきりとする。
だが、すぐに首を横へ振った。
(違う違う!)
みんなが話し掛けていた相手は、自分ではない。
バンドをやっていた、もう一人の灰島ナデシコだ。
生徒会長として活躍していた、もう一人の自分だ。
決して、今ここにいるワタシじゃない。
(みんなが求めてるナデシコは、ワタシじゃない)
自分に言い聞かせるように心の中で呟き、もう一度鏡を見る。
そこには、見慣れた陰気な表情の少女が映っていた。
(これでいい……)
小さく息を吐き、ナデシコは洗面所を後にしようと歩き出す。
その時だった。
ポフッ。
振り向きざまに誰かと肩が触れた。
「あっ、ごめ――」
しかし、相手が言い終えるよりも早く、
「ワタシの不注意によりご迷惑をお掛けして、大変申し訳ございませんでした!」
ナデシコは勢いよく頭を下げた。
背筋をぴんと伸ばし、九十度近くまで腰を折る。
何かあればすぐ謝る。
これもまた、ナデシコが身につけた処世術だった。
「え?」
あまりにも素早い謝罪だったため、ぶつかった相手は目を丸くして固まってしまう。
「失礼します!」
ナデシコはもう一度深々と頭を下げ、その場を立ち去ろうとした。
「待って!」
明るい声が背中を呼び止める。
ナデシコはびくりと肩を震わせ、その場で足を止めた。
「な、何か気に障ることでも……? もしかして、謝罪が足りませんでしたか?」
恐る恐る振り返る。
そこに立っていたのは、ショートカットがよく似合う快活そうな少女だった。
少女は大きなえくぼを浮かべ、柔らかな笑みを見せる。
「あはは、違うよ」
団扇で仰ぐように手をひらひらと振りながら笑う。
その笑顔には、人を緊張させるような圧迫感がまるでなかった。
「アナタ……もしかして、どこかで会ったことある?」
少女はナデシコをじっと見つめながら尋ねる。
その瞳は人懐っこく、それでいてどこか懐かしむような色を帯びていた。
「え? えっと……」
意外な問い掛けに、今度はナデシコが戸惑う番だった。
記憶を辿ってみる。
だが、思い当たる人物はいない。
それなのに――。
(何だろう……)
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
初めて会ったはずなのに、初めてではないような。
どこかで笑い合ったことがあるような。
そんな、不思議な感覚だけが残る。
「あ、あの……」
どう返事をしていいのか分からない。
言葉が喉につかえ、口が動かない。
やがてナデシコは耐え切れなくなり、
「ご、ごめんなさい!」
それだけ言い残して、その場から駆け出した。
「えっ、ちょっ――」
少女の声が聞こえたが、振り返る勇気はなかった。
トイレを出て、階段前まで走る。
「ハァ……ハァ……」
乱れた呼吸を整えながら、壁にもたれ掛かる。
(また、逃げちゃった……)
ぽつりと心の中で呟く。
悪い人じゃなかった。
むしろ、とても優しそうだった。
せっかく話し掛けてくれたのに。
なのに、自分は逃げてしまった。
昔からそうだった。
誰かが近付いてくると、怖くなって逃げてしまう。
その癖だけは、どうしても治らない。
(教室に戻ろう……)
今度こそ戻ろうと歩き出した、その時だった。
「あっ、サトコじゃん! 久しぶり〜!」
トイレの方から、女子生徒の明るい声が響いてきた。
ナデシコは反射的に振り返る。
すると、先ほどぶつかったショートカットの少女へ向かって、一人の女子生徒が大きく手を振っていた。
「あっ、久しぶり!」
ショートカットの少女も嬉しそうに笑い返し、軽く手を振る。
「二年ぶりくらいだっけ?」
「アハハ、何それー。サトコ、おもしろーい!」
二人はそのまま楽しそうに話し始めた。
(あの人が……サトコさん?)
ナデシコの胸が、どくん、と大きく鳴る。
サトコ。
今朝、八塚見が口にした名前。
『アンタら、仲良かったもんな』
その言葉が脳裏によみがえる。
(もしかしたら……)
あの一年のことを知っているかもしれない。
ワタシが知らないワタシのことを。
そして、それだけではない。
さっき話し掛けてくれた時の笑顔。
あんな風に自然に接してくれる人なら、本当に友達になれるかもしれない。
もう一度話したい。
一歩踏み出せば、それだけでいい。
だけど――。
足は動かなかった。
勇気が出ない。
胸の中では「行きたい」と「怖い」が何度もせめぎ合う。
その末に勝ったのは、いつもの自分だった。
ナデシコは小さく俯き、とぼとぼと力なく歩き始める。
行き先は、自分の教室。
背後から聞こえる楽しそうな笑い声を胸にしまったまま、彼女はゆっくりと教室への廊下を歩いていくのだった。




