第65話 普通のJKナデシコの日常①
四月上旬――
今日は、伊勢崎清心女学園の新学年初日。
灰島ナデシコはこの日、父の運転する車に乗って登校していた。
「いやぁ、一年前もこうしてナデシコを学校に送って行ったのを思い出すよ」
ハンドルを握りながら、父が上機嫌に話し始める。
「あの時、ナデシコがパーマを当てたばかりで。すごく派手な髪型になってたから驚いたもんだよ」
「……うん」
父の言葉に、助手席のナデシコは窓の外へ視線を向けたまま曖昧な返事をする。
春の陽射しを受けた街並みが流れていく。
見慣れているはずの景色なのに、どこか現実感が薄い。
それも仕方のないことだった。
何せ、灰島ナデシコにとっては今日が初めての高校登校なのだ。
自分自身、家の姿見で現在の姿を見た時には心底驚いた。
ふわりと大きく巻かれたど派手な縦ロール。
まるで少女漫画に出てくるお嬢様のような髪型。
少なくとも、自分が知る自分ではなかった。
「はぁ……」
思わず小さなため息が漏れる。
あの日からずっと、頭の中は混乱したままだった。
神社の御神木の前で目を覚まして以来、ナデシコはまるで狐につままれたような感覚に囚われ続けている。
家に帰れば、自室の様子が変わっていた。
家具の配置も違う。
本棚の中身も増えている。
そして部屋の隅には、これまで一度も触ったことのないエレキギターが立て掛けられていた。
まるで別人の部屋だった。
だが、確かにそこは自分の部屋でもある。
机の上には自分の私物がある。
アルバムには自分の写真がある。
スマートフォンの中にも、自分が写った写真が大量に残されている。
ただし――そのどれもが覚えのないものばかりだった。
そして何よりも異常だったのは、自分の記憶だ。
ナデシコの最後の記憶は、去年の春休み中に工事現場の前を通り掛かったところで途切れている。
建築資材が落下してくる光景。
次の瞬間には神社で目を覚ましていた。
その間、およそ一年。
丸ごと消えている。
(ワタシじゃない誰かが、ワタシに成り代わっていた?)
何度考えても荒唐無稽だった。
そんなことが現実にあるはずがない。
だけど、目の前に並ぶ証拠の数々が、それ以外の可能性を否定していた。
記憶はない。
だが、自分は確かに一年間生きていた。
その矛盾が、ナデシコを不安にさせる。
だからこそ、今日の登校は特別だった。
学校の場所は知っている。
けれど、そこにいる人たちを知らない。
自分だけが取り残されたような感覚。
一人で行く勇気が出ず、父に頼み込んで送ってもらったのだ。
そんなことを考えているうちに、車は学校前へと到着した。
「帰りは大丈夫かい?」
父が心配そうに尋ねる。
「うん。帰りは歩いて帰れるよ」
そう答えたナデシコは小さく笑い、
「送ってくれてありがとう」
と告げて車を降りた。
父は安心したように笑顔を浮かべる。
「気を付けてね」
「うん」
車が見えなくなるまで見送る。
すると急に心細さが押し寄せてきた。
ひとりになった。
本当に、ここから先は自分だけだ。
ナデシコは胸の前で両手を握りしめ、小さく息を吐いてから校門をくぐった。
校舎前には大勢の生徒が集まっている。
笑い声。
久しぶりの再会を喜ぶ声。
賑やかな空気。
その中を、ナデシコはできるだけ存在感を消しながら進んでいく。
ようやく掲示板の前へ辿り着き、二年生の一覧へ目を走らせた。
(あった。一組だ)
自分の名前を見つけた瞬間、少しだけ安堵する。
だが、それも束の間だった。
二年一組の教室前に立つと、今度は別の緊張が襲ってくる。
教室の向こう側から聞こえてくる楽しげな話し声。
すでに出来上がっている人間関係。
その中に飛び込まなければならない。
ナデシコは深呼吸した。
(ワタシは空気。ワタシは透明人間。絶対に騒がず、目立たず、波風を立てず、平穏無事に一日をこなすんだ)
これは昔からのルーティーンだ。
人前に出る前に必ず唱えるおまじない。
いや、おまじないというより生存戦略である。
「……よし!」
意を決して教室へ足を踏み出そうとした。
その瞬間だった。
「よう!」
ポンッ。
突然、背後から肩を叩かれる。
「うひゃッ⁉︎」
心臓が飛び出しそうな悲鳴が漏れた。
慌てて振り返る。
そこには褐色の肌に派手なメイク。
アクセサリーをじゃらじゃらと身に付けたギャル風の女子生徒が立っていた。
そして、
「また同じクラスじゃん。ヨロシク!」
太陽みたいな笑顔でそう言った。
ナデシコは、バクバクと心臓が異様な早鐘を打つのを感じながら、瞬時に思考を巡らせる。
まず、目の前の女子に見覚えがない。
中学時代の知り合いだろうか。
いや、違う。
もし同じ学校だったとしても、ネガティブ少女だったナデシコが、こんな太陽みたいに明るいギャル風女子と接点を持つとは到底思えない。
ならば答えはひとつだ。
この少女は、記憶の失われた一年間で出会った人物。
そしておそらく、かなり親しい間柄だったのだろう。
そう結論付けたナデシコは、とりあえず無難な返答を選んだ。
「は、はい……よろしくお願いします」
すると目の前の女子は、一瞬きょとんとした後、
「ハハッ! 何だよ、その可愛いらしい返事は」
腹を抱えんばかりに笑い出した。
そして、
「アンタ、ホントにおもしろいヤツだな」
そう言って、もう一度肩をぽんと叩く。
(おもしろい?)
ナデシコは目をぱちくりさせた。
人生でそんな評価をされた記憶はほとんどない。
大人しい。
暗い。
地味。
存在感がない。
言われるのは大抵そんな言葉だった。
だからこそ、その評価は意外だった。
(そんなこと言われたの、初めてだ……)
不思議な気持ちになる。
そして気付けば、最初に感じた恐怖心も少しだけ薄れていた。
するとギャル風女子は思い出したように言った。
「でも、サトコと別のクラスになったのは残念だったよな。アンタら仲良かったもんな」
その言葉を残し、彼女は先に教室へ入っていく。
ナデシコだけが、その場に取り残された。
(サトコ……)
知らない名前。
少なくとも、自分の記憶の中には存在しない。
友達などいなかったはずだ。
だから当然、その名前にも覚えはない。
だけど――
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
温かいような。
懐かしいような。
それでいて切ないような。
説明のつかない感情。
(何でだろう……)
名前を聞いただけなのに。
(すごく大切な名前だった気がする)
けれど、その先がどうしても思い出せない。
霧の向こうに何かがある。
そんな不思議な感覚だけが残るのだった。




