第64話 処刑エンド令嬢、最後に※※※※※※※※と叫ぶ
ジェーンは自室の机に向かい、一冊のノートへ静かにペンを走らせていた。
カリカリ、と。
部屋に響くのは、時計の針の音と筆記音だけ。
やがて最後の一文字を書き終えると、ジェーンはそっとペンを置いた。
そして、
「ふぅ……」
小さく息を吐き、ノートを閉じる。
その表紙を指先でなぞりながら、ジェーンはぽつりと呟いた。
「いよいよ明日……ですわね」
声は至って静かだった。
覚悟を決めた者の響き。
だがその奥には、隠し切れない不安と寂しさが滲んでいた。
ジェーンはゆっくりと顔を横へ向ける。
視線の先には、スタンドに立て掛けられた愛用のギター。
部屋での基礎練。
スタジオ練習。
文化祭ライブ。
数え切れない時間を共にした相棒だった。
ジェーンは立ち上がり、そっと弦へ指を触れる。
ポロン――。
静かな音色が部屋に広がった。
「さすがに、ナデシコさんは弾いてくださらないですわよね」
苦笑する。
自分で言って、自分で胸が痛くなった。
もうすぐ、自分はいなくなる。
“ジェーン”として積み上げた記憶も、想いも、時間も。
すべて、夢のように儚く消えてしまう。
ジェーンはギターを抱き上げた。
そして、静かに掻き鳴らす。
コードを弾く。
旋律をなぞる。
指先に刻み込むように。
少しでも、この感覚を残そうとするように。
夜が更けるまで、ジェーンは弦を鳴らし続けるのだった。
◇
翌朝――。
朝食を終えた食卓には、穏やかな空気が流れていた。
焼き魚の香り。
味噌汁の湯気。
父が新聞をめくる音。
母が食器を重ねる音。
そんな、当たり前の日常。
けれどジェーンにとっては、そのすべてが愛おしかった。
「ねえ。お父様、お母様」
ジェーンが呼びかける。
二人は同時に顔を上げた。
「どうしたんだい、ナデシコ?」
「なぁに? また、おねだり?」
冗談めかした母の声。
その優しさに、胸が熱くなる。
ジェーンは少しだけ視線を伏せ、
「あの……もしも、なんですが」
躊躇うように言葉を選ぶ。
「もしもワタクシが、以前のナデシコに戻ったとしたら……お二人は嬉しい?」
一瞬、両親はきょとんとした顔になる。
そして互いに顔を見合わせた。
だが次の瞬間には、どちらも柔らかな笑みを浮かべていた。
「確かに、突然お姫様みたいになって驚いたこともあったよ」
父が優しく笑う。
その隣で、母も穏やかに頷いた。
「だけどね、どんなに変わったとしてもナデシコはナデシコだ。パパとママの大好きな、大切な一人娘だよ」
父のその言葉を聞いた瞬間――
ジェーンの胸の奥から、熱い感情が込み上げた。
(ああ……ワタクシは、ちゃんと愛されていたんですのね)
いつも優しく見守ってくれる母。
過保護なくらい娘を心配してくれる父。
たった一年。
されど一年。
その時間の中で、自分は確かに愛されていた。
その事実が嬉しくて。
そして――たまらなく切なかった。
ジェーンは溢れそうになる涙を必死に堪える。
唇を噛み、笑顔を作った。
「ワタクシも、大好きですわ」
満面の笑みだった。
二人もまた、嬉しそうに微笑む。
その光景を胸に焼き付けるように、ジェーンは静かに見つめた。
「あ、そうでしたわ」
涙を悟られないよう、わざと明るく声を上げる。
「ワタクシ、これから用事があるので、ちょっと出掛けて参りますわ」
「いってらっしゃい」
父が笑う。
母もエプロン姿のまま手を振った。
「今日も、ナデシコの大好きな肉じゃがを用意しておくから。あまり遅くならないでね」
いつも通りの優しさ。
だからこそ、胸が締め付けられる。
「ええ。行って参りますわ……」
ジェーンは背を向けたまま答える。
涙が零れ落ちる前に。
リビングを後にするのだった。
◇
ジェーンが訪れたのは、伊勢崎八幡神社の御神木――梛の大樹の前だった。
巨大な幹は、まるで長い年月を見守り続けてきた神そのもののように、静かにそこに佇んでいる。
その前には、すでに三人の姿があった。
駒。
ジャンヌ。
シャルロット。
「遅れてしまったみたいですわね」
ジェーンが歩み寄りながら言うと、駒が静かに首を横へ振る。
「いいえ、私たちもついさっき到着したばかりです」
ジェーンは小さくうなずいた。
そして、三人を見回す。
「みなさん、お別れはもう済みましたか?」
三人は静かに頷いた。
それを確認し、ジェーンはさらに問いかける。
「では、これで思い残す事はありませんわね?」
今度は、ほとんど同時に頷きが返ってくる。
ジェーンもまた、ゆっくりとうなずいた。
春休みに入る前。
ジェーンはこれまで関わってきた多くの人へ、それとなく別れの言葉を伝えていた。
クラスメイト。
担任の那波。
八塚見。
八塚見は最後まで訝しげな顔をしていたし、那波は終始キョトンと首を傾げていた。
だが、それで良かった。
これから先、“ジェーン”として会うことはなくなる。
けれど、“ナデシコ”としては、この先も彼らと同じ日常を歩いていく。
だから少しでも。
少しでも自然に、ナデシコが周囲へ溶け込めるように。
ジェーンなりの最後の気遣いだった。
ジェーンは御神木へ向き直る。
そして、大きく息を吸い込んだ。
「約束通り、ワタクシたちはやって参りましたわよ! 出て来てくださいまし、意地悪な神様!」
毅然とした声が響く。
その瞬間――
ぶわっ、と風が巻き起こった。
砂煙が舞い上がり、四人は咄嗟に腕で顔を庇う。
木々がざわめく。
衣服が激しくはためく。
そして――
風は、すぐに止んだ。
四人がゆっくり目を開ける。
すると、大樹の前にはひとりの人物が立っていた。
白装束。
長い獅子毛。
獣の面。
異形でありながら、どこか神々しい存在感。
「……相変わらず神出鬼没ですわね」
ジェーンが呆れ混じりに言う。
すると獣面の人物は、肩をすくめるように答えた。
『一応、アナタ方に“神”と呼ばれているくらいですから』
どこまでも飄々とした口調。
その軽薄さにジェーンは思わず眉をひそめる。
文句のひとつでも言ってやろうと口を開きかけるが――
やめた。
今さら言い争う気にはなれなかった。
『もう、決心はついているようですね』
「ええ。ワタクシたちはもう、覚悟は出来ておりますわ」
ジェーンが答える。
三人も力強く頷いた。
『分かりました。それでは四人同時に元の時代へとお連れしますので、みなさん、手を繋いでください』
四人は横一列に並び、互いの手を握り合う。
その温もりを、確かめるように。
獣面の人物は、静かに何かを唱え始めた。
低く響く声。
意味は分からない。
けれど、その声に呼応するように――
四人の身体が、淡い光に包まれていく。
暖かい。
優しい光だった。
「思えば、いろいろな事がありましたわね」
ジェーンが声を張る。
光の中で、その声はどこか遠くへ響いていくようだった。
「登校初日に、シャルロットに声を掛けて頂きましたわ」
シャルロットが笑う。
「たぶん、運命的な何かを感じていたのかもね」
「公園を歩いていたら野球ボールが飛んで来て、駒が助けてくれましたわ」
「まさに、運命的な出会いでしたね」
駒が控えめな笑みを浮かべる。
「生徒会長になって、お悩み相談をしていたら、突然ジャンヌに襲われましたわね」
「その節は、大変失礼しました」
苦笑が漏れる。
涙混じりの笑いだった。
「一緒に野球をしました」
「海に行きましたね」
「ジェーンと二人で、『Medium』のライブを観に行ったよね」
次々と思い出が溢れる。
楽しかったこと。
苦しかったこと。
笑ったこと。
泣いたこと。
そのすべてが、かけがえのない時間だった。
光はさらに強くなる。
四人の輪郭が溶け始める。
「音楽に出会って……ワタクシたちはバンドを始めましたわね。そしてセツナさんと出会って、音楽とバイトに明け暮れましたわ」
「文化祭のステージに向けて、猛練習しました」
「途中、『HY=Society』の圧倒的なパフォーマンスに心が折れかけたこともありました」
「でも、私たちは『処刑エンド令嬢s』としてやり遂げた。たくさんの困難を乗り越えて、オリジナル曲を作った」
涙が止めどなく溢れる。
声が震える。
それでも四人は、確かに笑っていた。
「ワタクシたちは、たくさんのかけがえのない思い出を作ることが出来ました。青春リベンジ、大成功ですわ!」
ジェーンが叫ぶ。
その瞬間――
光が弾けた。
「ありがとう、みなさん!! ※※※※※※※※!!」
ジェーンの最後の言葉が空へ駆け上がり、溶けてゆく。
四つの光が虹のように空を横切り――
そして、消えた。
◇
どさっ。
四人の身体が地面へ崩れ落ちる。
「……あれ? ここは……?」
黒髪の縦ロールを揺らしながら、ひとりの少女が上半身を起こす。
「……ここ、どこ?」
「はぁ? 何でウチがこんなトコに居んだ?」
「あれぇ? アタシ、何してたんだっけ?」
他の三人も身体を起こし、不思議そうに辺りを見回していた。
自分たちがなぜここにいるのか。
何をしていたのか。
何ひとつ分からない。
頭に靄が掛かったようだった。
四人は重い身体を引きずるように立ち上がる。
(とりあえず……家に帰ろう)
黒髪の少女はぼんやりと思う。
歩き出す。
けれど、身体が妙に重い。
まるで、自分の身体ではないような違和感。
不意に少女は振り返る。
他の三人も、それぞれ別の方向へ歩き始めていた。
(あの人たち、どこかで会ったような……)
胸の奥に残る、小さな既視感。
だが、それが何なのかは思い出せない。
少女は首を傾げながら、再び家路へと歩き出すのだった。




