第60話 処刑エンド令嬢、音神様は突然舞い降りる
週末――
ジェーンは電車とバスを乗り継ぎ、ひとりで榛名湖を訪れていた。
街を離れ、バスが山道を登り始めると、窓の外の景色は徐々に白く染まっていった。道路脇の木々は雪をまとい、遠くの山並みも淡い冬色に霞んでいる。
バスを降りた瞬間、冷たい空気が頬を刺した。
「寒い……ですわ」
吐いた息が白く広がり、風に流れて消えていく。ジェーンはマフラーを口元まで引き上げながら、一面銀世界に染まった高原を歩き始めた。
湖面は厚い氷に覆われ、その上では多くの釣り人たちが思い思いに釣り糸を垂らしている。氷には小さな穴が等間隔に開けられ、椅子や小さなテントが並んでいた。
冬の湖上とは思えないほどの賑わいだ。
ジェーンはその光景を遠巻きに眺めながら、ふとセツナの言葉を思い出していた。
作曲に煮詰まっていた四人に、彼女が与えたヒント。
――いつもとは違うものに向き合ってみる。
単調な日々の繰り返しでは、新しい発見は生まれない。
知らない世界。
知らない物語。
知らない文化。
知らない音。
そうしたものに触れることで、ふとした瞬間にそれは降りてくるのだ、と。
だからジェーンは小旅行に出た。
知らない世界、知らない景色に触れるために。
実際、雪化粧した榛名富士と、その裾野に広がる凍てついた湖の光景は、どこか神秘的ですらあった。
だが――。
その神秘的な氷の湖の上で、多くの人が氷に穴を開けて釣りをしている光景だけは、どうにも予想外だった。
ジェーンがその様子をぼんやりと眺めていると、不意に横から声がかかる。
「お嬢さんも、やってみるかい?」
振り向くと、釣り場の管理人らしき壮年の男性が柔和な笑みを浮かべていた。
「ですがワタクシ、道具を持ち合わせておりませんわ」
ジェーンが手をひらひら振りながら答える。
すると男性は気さくに続けた。
「道具ならレンタル出来るよ。まあ、レンタル料とか入漁料とかお金が掛かるから、もちろん無理強いはしないよ」
ジェーンは少し考える。
釣りそのものに興味はない。
けれど――。
(もしかしたら、何か開眼するかも知れませんわ)
そんな淡い期待が胸に浮かぶ。
「やってみますわ」
ジェーンは新しい挑戦を決めた。
まずは氷に穴を開ける。
手渡された穴あけドリルを氷に押し当て、ぐりぐりと回す。最初は勝手が分からなかったが、思ったよりも氷は素直に削れていった。
日頃の筋トレの成果もあってか、予想より早く氷に穴が開く。
続いて釣り竿の準備。
ワカサギ釣り用の竿は短く、仕掛けも非常にシンプルだった。
「そしたら、後はエサを取り付けるだけだよ」
管理人が半透明のケースを取り出す。
「エサは、コレを使ってみるかい?」
「なんですの?」
ジェーンが覗き込む。
そこには――。
体長一センチほどの白いイモ虫のようなものが、うじゃうじゃと蠢いていた。
「€%☆$×#っ!」
ジェーンの口から声にならない悲鳴が飛び出す。
「白サシって言うんだけど、コレを針に刺して……って、やっぱりムリか」
顔面蒼白のジェーンを見て、管理人は苦笑する。
「やっぱり、やめますわ。釣りはワタクシにはハードルが高すぎましたのね」
完全に戦意を失い、ジェーンは肩を落とした。
その背中に、管理人が声をかける。
「そういうこともあろうかと、人工エサと人工撒き餌もあるんだな」
タックルボックスから取り出されたのは、見た目にも優しい疑似餌だった。
「それを先に出してくださいまし! おぞましいものを見て、危うく魂が抜けかけましたわッ!」
ジェーンの恨み節が飛ぶ。
「それじゃ、何かあったらいつでも呼んでね」
管理人は愉快そうに笑いながら去っていく。
「二度と呼びませんわッ!」
ジェーンの恨みは根深かった。
気を取り直して釣りを始める。
だが、反応はない。
穴の中に釣り糸を垂らしてしばらく経っても、竿はまったく動かなかった。
「もっと蒔いた方がいいのかしら?」
ジェーンは撒き餌の入ったタッパーを傾ける。
ザザーッ。
「あ」
勢い余って、全部穴の中へぶちまけてしまう。
「……まあ、多い方が寄って来ますわよね」
そして、何事もなかったかのように釣り糸を垂らす。
しかし――。
「キタキターーーッ!」
隣の釣り人が叫ぶ。
「四匹同時ゲットだぜ!」
別の場所でも声が上がる。
「爆釣爆釣!!」
周囲で次々と歓声が上がるのに、ジェーンの竿だけは微動だにしない。
(なぜですの? なぜ、ワタクシの所だけ当たりが来ないんですの?)
苛立ちが募る。
ジェーンは深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、周囲の釣り人たちの動きを観察した。
(なるほど。釣り糸を一定の速さで上下に動かすことによって、ターゲットの気を引くんですのね)
同じように竿を動かす。
すると――。
ぐんっ。
竿が大きく引き込まれた。
「来た! 来ましたわ!!」
ジェーンは慌ててリールを巻く。
「え? お、重いですわ!」
想像以上の手応え。
竿がぐいぐいと引き込まれる。
「こ、これはきっと大物ですわね!」
必死にリールを巻く。
そして竿を引き上げる。
「や、やりましたわッ!!」
針に掛かった三匹のワカサギが、陽光を浴びて宝石のように輝いていた。
その瞬間、ジェーンの胸に高揚感が広がる。
釣りに興味など無かったはずなのに。
この小さな成功が、妙に嬉しい。
その後、ジェーンは合計十匹のワカサギを釣り上げた。
釣果を引っ提げて訪れた、湖畔の食堂。
釣ったワカサギを天ぷらにしてくれるサービスがあることを知り、ジェーンも試しに一匹天ぷらにしてもらう。
揚げたてのワカサギの天ぷらを、ジェーンはそっと口へ運んだ。
「アツッ!」
想像以上の熱さが舌を直撃し、思わず身をよじる。
「ハフッ! ハフッ!」
慌てて息を吹きかけながら口の中の熱を逃がすが、その瞬間、ふわりとほどけた身の甘みが広がった。サクサクの衣と柔らかな身の食感が重なり、想像以上の美味しさが口いっぱいに広がる。
「美味ですわッ!」
初めての味に感動し、ジェーンは思わず声を弾ませる。
と、その瞬間だった――
――♩ ♪ ♪ ♩ ♩~
「ッ!」
頭の中で、印象的なメロディーが鳴った。
(来た! 降りてきましたわ!!)
忘れないうちに録音しようと、ジェーンは慌ててスマホを探す。
しかし――コートのポケットは空だった。
(そうでしたわ!)
ジェーンは思い出した。
大自然に飛び込むのに、スマホのような現代機器は無粋だと、自室に置いて来たことを。
「なんたる失態! 大自然の中でも、文明の利器は決して手離してはいけなかったんですわ!」
数時間前の自身の言動を後悔し、頭を抱え込む。
「どうにか、このメロディーを忘れないようにしなくては……」
この偶然の産物をどうにかして家まで持ち帰ろうと、必死に考える。
そして――
(そうですわ!)
ジェーンはバッグから手帳を取り出すと、そこに何か記すのだった。
処刑エンド令嬢s――
神秘と駆け引きの雪の湖畔で、初めての旋律が静かに舞い降りた瞬間だった。




