60-b:箱のなか
〇前回のあらすじです。
『精霊のもとでパンドラの箱を手に入れたユノが、平和のためにそれを開けるかどうか。考える』
箱の蓋にユノは手を掛けた。
錠もなにも無い。アイボリーの硬質な板が指先に冷たい。
(もしかしたら、抜け道があるかもしれない。永遠なんていうのは、比喩的な言いまわしで)
存外なかに囚われても、外部から誰かがなんとかしてくれるのではないか。
この世界には魔法もあって、精霊や妖精、神や魔族という超常の存在までいる。
(大丈夫だ。きっと。誰かが、なんとかしてくれる!)
世界を平和にするという願いが、永久牢に鎖されるほど罪深いものだとは思えない。
無論。ビビアンが言ったように、それは『罪』ではなく『代価』なのだとしても。
(禍福はあざなえる縄のごとし。って言う。無限の重苦を負うのなら、その見返りは、どこかでボクにもめぐってくるはずだ)
神殿の広間で、精霊も、魔族の少女も、近衛の兵らも見守るなか。
ユノは蓋をあけた。
パンドラの箱を――……。
〇
王国暦 四五六年。
ペンドラゴン王国の治世は、アルトリウスの御代からマルスに移り、王都をはじめとする都市は天下泰平の晴天。おだやかな雑踏にめぐまれていた。
たっぷりと、風格のためにたくわえた白金の顎鬚のために、ペンドラゴン城の玉座に座るマルスの顔は、かつての線が細く頼りのない若者のおもかげなど残っていない。
商売の許可を取りにきた、ふっくらとした風貌の、中年期の夫婦と謁見の間でいくらか話し、職人街の小さな一軒家に出店を許した。
夫婦が頭をさげて出ていく。
老年にさしかかった兵士たち――古参のアドニスとフレデリックを筆頭とする騎士らは、飾りのようにやる気が無いが、それは逆に、たずさえている槍を振るう気も機会もないというわけで。
国をまとめる身としては、マルス王は、もの足りなさを覚えると同時に楽だとも感じる。
その日の謁見は、お午に魔族の親子が城下の繁華街に越すために、無病息災を祈願する――一種の地鎮祭である――を、王錫を振るって見舞うことで終わった。
「……平和だなあ」
客人のいなくなった、王の間。
あちこちにそびえる、巨大なステンドグラスから注ぐ午の光に春のぬくもりを感じつつ。マルス王は、ふわりとあくびをした。
〇
「あれほど魔族を嫌っていたのに、どういう風の吹きまわしかしら?」
――異変は三十年ほどまえ。唐突に起こった。
大陸北東にある離れ小島に住む魔女・マーリンは、マジックアイテムの介在を疑わざるを得ない。
金色のストレートロングの髪に、金色の眼の美しく若い女である。
「なにがですか?」
結界奥地の屋敷。そのリビングで朝食を食べながら、弟子の男が訊いた。
青い総髪に青い目の美男子だ。悪魔種の血を引いているゆえか、見た目は年齢より二十は若い。
彼は正装をしていた。
都会の貴族が着るような、すその長い上着に、立派な仕立てのズボン。
島から大橋を渡ったところにある大都市に、これから出発するのだ。
「あんたが仕事みつけたって話しよ、モルガン。しかも。統領つきの補佐官ですって?」
「はあ……。オレだってびっくりしましたよ。買い出しに行ったら、いきなり声をかけられたんですもん」
「相手はあんたが魔族だって知ってんのかしら」
「そりゃあ。この耳を見れば一発でわかるでしょうし、オレも言いましたからね。隠すことじゃなし。お師匠様はなにを心配してるんですか」
縦長の耳を引っぱって、それから問うモルガンに、マーリンは皮肉っぽい笑顔だけを向けた。
モルガンは、オムレツをフォークで切ってくちに運ぶ。
「べつに。魔族だからって仕事しちゃいけないわけじゃないでしょ。オレらだって人間とそう変わりないし。向こうもそうあつかってくれてるんだから。前からずっと、そうだったじゃないですか」
「まえからね……」
まったく進まない食事の手を完全に止めて、マーリンはテーブルに両肘をついた。組んだ手の上に、細い顎をのせて、弟子のとなりを見る。
もう数十年間、座る者のいなくなった席。
「ねえモルガン。つかぬことを訊くけど――」
「はい?」
「あんた。エバって覚えてる?」
「誰ですか。それ?」
ぱくぱく。
モルガンは食べながら答えた。
「ここには、オレとお師匠様以外、だれも住んでなかったじゃないですか。客だって、みーんな実験材料にするか殺すかしちゃって……。まともに会話した相手なんて、ひとりもいない」
「ひとりも……」
くりかえすようにマーリンは言った。
可笑しそうに顔を伏せて、小さく笑う。
「そう。それもそうね」
――世界が改変されたのは、火を見るより明らかだった。もっとも。それは一部の存在にのみ残された感覚で、多くの者は、現状に疑問も、違和感も差しはさむ余地はない。
「じゃあ。オレは食ったんで、もう行きます。……都に住居が用意されているんで。ここにはもう、帰ってくることはないと思いますけど――」
「島の秘密さえ口外しなきゃ、べつにどこなと行けばいいわよ。料理番も、機を見てまたスカウトしに行くし」
「そうですか。じゃあ。長いあいだ、お世話になりました」
身のまわりのものを詰めた鞄を取って、モルガンは立ち上がった。四半世紀以上すごした魔法使いの家。その出口へ向かう。
「ああ。最後に。モルガン」
「なんですか?」
「かま掘られないようにね。あんた、顔だけはかわいいから」
「なに言ってすんか……」
師匠の別れの言葉にげんなりと返して、モルガンは住み慣れた家を出ていった。
〇
大陸の南東部に、海が広がっている。
緑豊かな大山脈を背に、峠坂を境にして、砂浜が展望できる。
山の道から浜へ下りず、海めがけて進むと海面にせり出した岩場に出る。
岬だ。
ざあーん。
と。波のたわむれる音。
浜辺では、大型馬車で乗りつけてきた旅行者たちが、薄布すがたで海水浴を楽しんでいる。
人間もいれば、胴から下が馬のもの、尻にライオンの尾の生えたもの。獣の耳を生やしたもの。小人や光妖精のすがたもある。
きゃっ。きゃっ。とはしゃぐ観光客らの声は、岬に届くよりも先に波の音にさらわれて、ここは静かだった。
突端に一人の女がいる。亜麻色の長い髪の、魔族である。背には白鳥のごとき、純白の翼が生えている。
【春の月】も半ばとあって、着ているのはワンピースにマント一枚と、涼し気で質素だが、手には古物商にでも出せば高値がつきそうな調度品があった。
彼女はそれを見下ろしている。パンドラだ。
「斯くて世はなべて事もなし。ってね」
背後から声がして、女性――パンドラは森のほうを見た。ゆるいウェーブのクセがついた亜麻色の髪が、短いマントをなでる。若い、二十代ほどの、老いのない顔だった。
それはパンドラだけではなく、やってきた女性にも言える。その女性は、金色の竜を抱いていた。パンドラが最後に見たときよりも、少しだけ大きくなっている。
「どうしたの。フローラ?」
「セレンに訊いたらここだってんで」
銀色のおかっぱ頭の、それは少女だった。十四、五歳で、彼女の時間は止まっている。
ペンドラゴン王国の第二王女だが、着ているのは王族がまとうドレスではなく、冒険者――現在では、もっぱらトレジャーハントや町の雑用を生業とする旅人たち――が、好んでつける、魔法縫製のシャツにチョッキ、ハーフパンツにロングブーツの出で立ち。
クスリとパンドラは笑った。
「……変わらないね」
「あんたも似たようなもんでしょ。まあ。精霊の影響が強い分、私のほうが、確かに時の流れが遅いけど」
「止まってるんでしょ?」
「いいわよ、そのへんは。それよりあんた。お城で文官やってるって聞いてたんだけど」
「うん。でも今日はちょっと用事があってね」
パンドラはフローラの言葉を遮った。
――ユノが【箱】を開けてから、世界は平和になった。
その恩恵は、時間をほんの少しだけ巻き戻したところからはじまり、化物になってしまった人のいくらかは人間にもどされた。
妖精の世界と人間の世界の境目もなくなり、人々は、魔族や魔物、魔法への認識を改め、彼らに対して友好的になった。
突然の変化に混乱したものはいない。ただ不遇な待遇にあっていた魔族であったり、【異端】のそしりを受けて教会に囚えられていたものたちに対して、「誰がこんな惨いことを!!」と、人々は――我が身を振りかえる余地も許されぬまま憤慨した。
そして。
あれよあれよという間に法が変わり、魔族には町に家が与えられ、魔物たちにも無暗な殺戮が行われないよう、手心がくわえられた。
数年もすれば、隠者暮らしだった妖精たちも人の里に下りてくるようになり、それまで人里で暮らしていたドワーフたちの手助けもあって、ほどなく人間社会に溶け込んでいく。
各地で起こっていた争いや、諍いの火種も恐ろしいほどの速度で消え失せた。
かつてあったような魔族のドレイ化は、もちろん違法として廃止され(なぜそんな制度が今まで残っていたのか、人々は不思議がった)、現在では人並みの自由と生活が彼らには保証されている。
パンドラは、人間も魔族も妖精も、みんないっしょになって浜辺を駆けまわり、遊泳するのを横目に見る。
彼女は手元に赤い眼をもどした。
白い箱がある。
「私には、これで良かったし。以前のような世界にもどられたら嫌だけど……。それでもやっぱり、ユノさんの気持ちが判らない」
箱のなかには、この平和を築き維持するために、人々の不幸を背負いつづける少年がいる。
彼に流れる時間は永遠で、その身にかかる苦しみは限りが無い。
人が被るべき苦痛は、得る安楽と等価値に、際限のないものだから。
「なんとかなるって思ったんじゃないの。あいつの場合」
「なんともならないよ」
パンドラは手を握りしめた。
硬質な側面が、きしりと鳴る。
「箱は、もう開かない。鍵ができたの。ユノさんが中に入った後に。……でも。それだけじゃなくって」
「んじゃあ。ピッキングして開けてみる? ずーっとまえに、あんたの首輪をはずしたみたいに」
腰のポーチからフローラは先の曲がった金属の針を出した。パンドラは首を横に振って、彼女を止める。
「そこまでして、私は箱を開けようとは思っていない。ううん。開けられちゃ困るの。悲しいことも、辛いことも、この世界には残っているけど。それでも幸せって思えるていどにはなってしまったから」
――だから。
とパンドラはつぶやいた。
片手を振りかぶり。海に向かって。大きく。
「……ごめんなさい」
ひゅんっ。
軽い音をたてて、箱はパンドラの手から青い海原へと離れていった。
波を打つ、濃紺の水面に、ぽちょりとあっけなく落ちる。
きゃはは。
さざ波の音色をくぐりぬけて届いてくる、遊泳客の声。
寄せては返す、潮の流れ。
くりかえされる、静かな波間に呑み込まれて。
象牙の箱は、深い水底へと、沈んでいった。
【side-b:完】
〇つぎのエピソードは、パターン【a】(ユノが、世界の可能性を信じて、パンドラの箱をあける)を投稿します。
〇【a】のほうの展開は、もうすこしつづいてから完結します。
読んでいただき、ありがとうございました。




