36:トラウマ
〇前回のあらすじです。
『ユノたちがパンドラの箱について話す』
〇
暗闇は水底のように深かった。
山の尾根に建つ、一軒の建物。
木々(きぎ)に埋もれながらも、そこだけが現世とは断絶されたように、壮麗な造りの建築物に彼女はいた。
宵は、まだ浅い。
それでも、夕暮れを終えてなお彼女が玉座にいるのは、そうあることではなかった。
では。なぜ今は居るのか――。
と問うに。やはり防衛の気色が強い。
せっかく魔王が討たれたというのに、人もそれ以外の生き物も、平穏とはほど遠い生活を送っている。
むしろ魔王がいたころのほうが平和だったのではないか。とは精霊の弁。
少なくとも人間には、そうした分かりやすい「敵」が必要だったのかもしれない。
全ての人が、自分の内にある「罪」とでも呼ぶべき暗いものと、対峙できるわけではないのだから。
目に見える形の悪を屠り、だれかの感謝や好意を得ることで、自分の潔白を証明する。
心からの、身ぎれいであることを――。あるいは、自分のなかに生まれた不幸を克服した、強者の証として。
「いつの世も。人間ってのはつまらない生き物よね」
肘かけにもたれて女は言った。
「はっ」と傍にひかえていた男が答える。それは同意とも、単なる疑問の声ともとれた。
ゆるく手を振って、女は男に答える。
「ひとりごとよ。それより、また誰か近づいてきてる」
「こりませんな」
「こりませんね」
かたちだけ男の敬語をまねて、女は返した。不意を突かれて、男は不覚にもぷっと噴き出す。
「失礼しました」
「いいのよ。笑顔は大事」
けだるげに頬杖をついて、刻々(こくこく)と濃度を増す闇のなか、女は微笑んでみせた。
石灯籠の火が広間をかろうじて明るくする。
とはいえ。たがいの表情はほぼ見えず――。
空気のゆるやかさだけが、この場にいるものの感情を、互いに伝える因子だった。
「ひとりは人間ね。もうひとりは……。魔族だわ」
「保護しますか?」
「どっちを」
「そりゃあ。魔族のほうですが」
うーん。
と女は男の意見にくちをつぐんだ。指で自分の顎をなでて、かぶりを振る。
「やめときましょう。亡命は霊樹のほうに任せているもの。うちじゃあキャパシティ不足だわ」
「御意に」
大きな頭を男はさげた。
もっとも、彼女の答えは分かりきっていたのだが。いちおうの形式である。
そしてこれも、分かりきっている質問をした。
「では。人間のほうは?」
「殺しときなさいよ。見つかって棲家を追われるなんて、もうたくさんだわ。それにねえ――。やつらってばほんっと、ろくでもないんだから。特に魔法使いは」
「それは……あの。むかしに――」
「言わないで」
鋭い。しかしなまくらめいた愚鈍さを内包した半眼を、女は男に向けて黙らせた。
あれはトラウマなのだ。
無理に蘇らせることもあるまい。
「どちらも妖精の加護を受けているようですが。それに、人間のほうからは巫女のちからも……。微弱ですが」
「知らないわよ。とにかく。わたしは気にいらないものは気にいらないの。こうやって、再びこっちに帰ってこれた以上――。安穏と暮らさせてもらうわよ。協力してよ」
「御意に」
玉座の間には、彼と彼女のほかにも、護衛の兵士たちがいた。兵と言っても、魔法の衣服にやはり魔法の片手剣や弓、短槍で武装した、見た目には野暮ったい――猟師のような集団だが。
精霊のもとに仕える、見た目だけは一様に美しい老若男女。
ぼそぼそ。彼ら彼女らは、近くの同僚たちとささやきあった。
「またビビアンさまのご病気がはじまったよ」
「んー。でも、まちがってはないのよねー。彼女の言い分も」
「そこが性質が悪いんだよ。そりゃあオレだって人間にはいい印象ないけどさあ」
「おい。おまえたちやめなさい。ごらんなさい。ビビアンさまがどんどん落ちこんでいっているぞ」
「あっ。やべっ」
「ごめんなさあ~い」
ヒソヒソとささやく配下のものたちに、女――ビビアンは、最初こそピクピクこめかみに青筋を浮かべて怒っていたが、やがてどんよりと、惨めっぽく、肘かけにしなだれていった。というか萎れていった。
「はあ……。ま、いっか。ハインツ。インボリュート」
はッ。
とふたりの男が、返事と共に踵を鳴らす。
ひとりはビビアンの傍で、先ほどからやりとりをしていた大男。もうひとりは、広間に控えていた長身の若者だ。
命令は、至ってシンプル。
肩をそびやかせて敬礼しているふたりに、ビビアンは手を振った。
「行きなさい」
もういちど短く返事をして、男たち――ハインツとインボリュートは出立した。
ひゅんっ。
とふたりのすがたが消える。山をのぼってくる人間たちのもとに飛んだのだ。
傍に話すものがいなくなり、できた空白の息吹を埋めるように、玉座の女はうめいた。
遠い――。
過去への独白を。
「……。絶対に、許さないわよ」




