35:すべての神々からの贈り物
〇前回のあらすじです。
『アドニスがフレデリックを殺害する』
※主人公のユノに視点がもどります。
〇
鳥の声がする。
夜行性の動物たちの鳴き声をBGMに、少年と少女は森を歩いた。
秋らしいしめった納涼の風に、虫のさざめきが響く。
夜気に、歩くことで高まっていく熱が冷まされ、体温は心地いいほどに快適さをたもっていた。
ミースの村が遠い。
振り向いても、もはやその輪郭をおがむこともできなかった。あるのは黒々とした木々のシルエット。そしてその上空に、鎮まりつつある火事の名残。
足が止まった。
二人分の靴のうち――大きいほう。ユノのブーツだ。
「あのさ。パンドラ」
先を行く少女にユノは声をかけた。
濃い闇に、すこしでも離れてしまえば彼女のすがたは埋もれてしまう。
彼女は振り返った。
夜の景色に、灰色になった亜麻色の髪が、少女の白い長衣の肩にすべる。
「箱って知ってるかな。パンドラの箱っていうんだけど」
「うん。教会の人たちがさがしてるんでしょう?」
手の先を動かして、パンドラはユノに進むよう示した。従って、ユノは再び歩みをつづける。
彼女との道のりはスムーズだった。
浅い崖や岩場をよじのぼることはあったものの――そしてそれは、夜のなかでは少々(しょうしょう)困難のあったものの――森には魔物もいないばかりか、野生の猛獣が襲いかかってくることもなく、安全だった。
蔓をロープ代わりにして、もういくつめかの低い岩場をのぼる。
パンドラを引き上げて、らせん状になった道を見あげる。
ショートカットの必要はもうないようで、パンドラは服のほこりをたたくと、山のてっぺんを指さした。
「あそこに精霊の家があるの。箱は、そこに着いたら渡すから」
黒い目をユノは剥いた。『パンドラの箱』と言うのだから、同じ名前を持つこの少女と、なんらかの関わりがあるのではないかとは思っていたが――。
「持ってるの? やっぱり、パンドラが持ってるから、パンドラの箱?」
「なんなの。それは……」
安直なユノの考えに、パンドラは彼に背を向けたまま苦笑いした。
「私の名前は、古いおとぎ話から取ってるんだって、生前に両親が言ってた。昔――まだ竜の治世がはじまるより以前。神がたくさんいた時代。すべての神々から、あらゆる贈りものをいただいたパンドラという女がいて、その贈りもののなかに、『決して開けてはいけない箱』があった。でもパンドラは、人間の世界に降りて生活をしていたけれど、その閉鎖的な時間に飽いて、好奇心から、禁断とされていた『箱』を開けてしまう……。と」
少女――パンドラの語った内容は、ユノも知るものだった。
ギリシア神話の一節。パンドラの箱――もしくは、『パンドラの壺』と呼ばれる話だ。
開けるな。と言われていた箱を開けてしまうと、なかからありとあらゆる悪徳が飛び出した。
憎)しみや悲しみ。妬み。口惜しさ……。
それらは、それまで喜びしかなかった人間の世界に不和をもたらし、暴力や奸計、そのほかありとあらゆる不幸の種をばらまき、絶望を人々の心に植えつけたと。
「神さまの言うことをきいて、開けなければよかった。なんて、教訓みたいに言う人もいるけれど。私はそれは、ちがうと思うの」
歩きながら、パンドラは神話のつづきを話した。
箱はありとあらゆる災厄を世界にもたらし、そして――最後に、希望だけが残ったと。
「開けてはならない箱は、確かに人間に、それまで無縁だった困難をもたらしたって言われてる。でも、それってほんとは、見てみぬふりをしてただけで、困難はまえからあった。箱が本当に人間たちに与えたのは、そうした、感知したくなかった感情に、気づくちからだったんじゃないのかな」
「知らぬが仏。って言うじゃないか。……悲しくなるくらいなら、気づかないほうが幸せだったんじゃないの?」
目をそらしてユノは意見した。
そう――。
どうせなら、辛いことなんて知らずに人生をまっとうできたほうがいい。
それを幸せと言うんじゃないのか。
小さくパンドラは笑った。
「そうかもね。でも、知らなければ、人間は自分のちからでなんだってできる――自分をあざむかざるを得ない人生だって変えられる、『希望』があるってことを、永遠に知らないままでいたんだよ?」
そんな一生、私はごめんだな。と付け足して、肩越しに彼女はユノを見つめた。




