28:回れ右
〇前回のあらすじです。
『泉の場所を、ユノがテノンに教えてもらう』
〇
森は暗かった。
木々(きぎ)にミースの村民がつけている織物と同系統の柄の布が巻かれている。が。それもたいまつの火を近づけて、ようやく確認できるほど見えづらい。
沼のように濃い闇が、森閑とした夜の下に横たわっている。
慎重にユノは進んだ。ひとつひとつ。目印の布と地図のマークを照らし合わせる。
もしも一個でも道しるべを見落とせば、迷ってしまうだろう。テノンがそうなってしまったように。
山中の森は、どこを見回しても似たような景色なのだ。夜の帳に隠れた今となっては、なおさら。
暗がりのあちこちから、ぎゃあぎゃあ。ほおーほおー。わめく野禽の声が飛んできて、さらに感覚をくるわせる。
炎が揺らめいた。ユノは目的地と思しき場所に出る。
ほかより拓けた場所だ。
が、松明をかざしてながめた辺りは、今まで通ってきたのと同じような――山毛欅やコナラが生えほうだいの、緑の景観。
地図をユノは確かめた。
『カベ』を表す横線が一本ある。そこを貫くようにして矢印が引かれ、その先に『泉』はある。
(もう少し先ってこと?)
踏み出す。
刹那、ぬッと四方八方から、押されるような圧迫感がした。
過去にパペルの塔で【ジェム】によってあらわれた転移の渦をくぐったのと同じ感覚だ。
魔界から王都ペンドラゴンに帰る時に使ったワープのひずみとも同系統の、浮遊感。
感覚は一瞬だった。
目に見えない隔たりを抜けて、ユノは向こう側へ出る。
相変わらず森が広がっていた。時刻も夜のまま。
ただ匂いに水気が混じっている。
静かで澄んだ、何者の侵犯も受けないような。弾くような。
清らかな気配。
赤い火の先に、黒々とした淵がのぞいた。穴かと見まがうそれは、なかに水を湛えていた。
泉だ。
ぴたりと止まった黒い水面を、畔に立ち尽くしたまんまユノは見つめた。泉は、結構な広さがある。
灯かりの届かぬ向こうにまで、水面はつづいていた。全容はつかめない。
ただ湖よりは小さいということだけが漠然とわかった。
「誰もいませんよね?」
泉に向かってユノは声をかける。誰かが禊をしていたらと思ったのだ。
かつてユノのいた世界に大衆浴場があったが、ユノはこれがキライだった。
全然知らない人と――知っている人とでも――いっしょにお風呂にはいるなんて、恥ずかしいじゃないか。
返事はなかった。
ぴちょん。
と水音が返った気がしたが、すぐに鳥の羽音がした。
野鳥が水でも飲んでいたのだろうか。とユノは訝る。
前へ進み、肩にかけていた鞄から小瓶を取り出す。
牢でアドニスからあずかったものだ。
この泉の水を浴びて、アドニスの相棒――フレデリックはグール化を早めてしまった。
はっきりとした確証はないが、変わり果てた青年のすがたとアドニスの話を聞くかぎり、強くうたがうことはできなかった。
少なくとも、本人たちの前では。
だが。
(わからない。……効果が無いだけならまだしも、悪化させる。なんてことがあるのかな?)
村長たちの話から、アドニスたちは、泉には薬効があると信じていたらしい。
その『効果』が、悪いように作用してしまった。ということも、あり得ないことではないだろう。
それでもユノが、改めて水を汲みに来たのは、使いかたがまずかったのではないか。という期待あってのこと――。
あるいは。精霊の巫女や妖精の加護を受けたことのある自分なら、薬効を高められると自惚れているのか……。
声がした。
「だれかいるの?」
と。闇の奥から。
少女めいた声だ。
(今のは……?)
水を入れた瓶にユノは栓をした。戸惑いながらも立ちあがる。
水汲みの後に予定していた水浴びはやめることにした。
声に返事する。
「いるよ。――います。そっちの都合が悪いなら、ボク、いったんここから出ます。だから――ゆっくりしててください」
くるり。
まわれ右をして、女の子(とユノは声の高さからそう判断した)のいるらしい泉に背を向けた。
それにしても変だなあと思う。
夜は男の人たちが入る時間帯だって、テノンは言っていたのに。
ひょっとすると。日中に入りそびれた女の人が、誰もいない頃合いを見計らってこっそり沐浴していたのか。
そうユノが合点して、すこし距離を取ろうと歩きだそうとした。その時。
「その声は……。ユノさん? ちょっと待って。あっち向いてて」
「うん」
――もう向いてるけど。
胸中で思いながら、ユノはその場にとどまった。
泉から誰かが上がる、ぱしゃぱしゃという音。
近くの木に掛けていたのか、衣類を引っぱる音。せっせとそれを身につける衣擦れの音。そこに混じって飛んでくる、少女の言葉。
「ほんとはエルドランの町で会いたかったんだけど。セレンが駄目って言うんだもん。ミースは魔除けの香が焚いてあるから、臭くて近づけないし」
ぶつくさ言う少女の態度は、ユノに一抹の感慨を投げかけた。
セレン。
と彼女がくちにしたのも気になったが――。
もうその時には、ユノは相手が誰か。想像がついていた。
あるいは、そうであったらいいなと期待した。と言うべきか。
「きみは。ひょっとして」
振りか返ろうとして、自制する。
……。着替えを待っている時間がもどかしい。
「もうこっち見ていいですよ」
と言われて、ユノはすぐさま確かめた。火をかざして泉に近づく。
いつのまにやら。
草の縁をめぐって、少女がユノのいる岸辺にやってくるところだった。
全身が見える位置まで来ると、少女は立ち止まる。
白い長衣のすそをつまんで、彼女は格式ばったお辞儀をする。
「お久ぶりです。ユノさん」
赤い灯のなかに、少女の風貌が浮かんだ。
くせのある亜麻色の髪。白い肌。華奢な身体。
魔族の少女――魔鳥の血を引く彼女が、そこにいた。




