第四話 川の怪異
夜の山を、細い川が流れていた。
人里から離れた森の奥。頭上を覆う木々の隙間から月明かりが落ち、澄んだ水面を淡く照らしている。
川幅は広くない。岩の間を抜ける流れも穏やかで、水が小さな段差を越えるたび、さらさらと心地よい音を立てていた。
川辺では一匹の狐が水を飲んでいる。木の枝では鳥が羽を休め、その少し離れた草むらには、獣によく似た小さな怪異たちの姿もあった。
動物も、怪異も、互いを気にする様子はない。ここでは、それが当たり前なのだろう。
いつもと変わらない、静かな夜だった。
その川底を――淡い青色の光が横切った。
ゆらり、と。水の中を泳ぐように場所を変え、岩陰へ隠れたかと思えば、少し離れた場所へまた現れる。
一定の場所には留まらない。川の流れとともに絶えず移動しながら、時折、鼓動のように淡く明滅する。
この川に宿るものの心臓。
――核。
その青い光を、何者かが見つめていた。
木々の影に紛れ、姿は見えない。顔も分からない。男なのか、女なのか。それすら判然としなかった。
やがて、闇の中から手が伸びた。指先が水面へ触れ、静かに沈んでいく。
その手が青い核へ届いた瞬間――。
青の中に、黒紫色の染みが浮かんだ。
ほんの一点。墨を一滴落としたほどの、小さな染みだった。
だが、消えない。
黒紫は細い筋を伸ばし、青い光へ根を張るように食い込んでいく。
川辺で水を飲んでいた狐が顔を上げた。枝の鳥が羽を震わせる。草むらにいた小さな怪異たちも、一斉に川を見た。
水音が変わった。先ほどまで岩肌を撫でていた流れが、ざわざわと不自然に逆巻き始める。
「……?」
小さな怪異が一匹、草むらから出てきた。恐る恐る水際へ近づいていく。
「……川の主様?」
――ドクン。
青い核が大きく脈打った。それに合わせるように、黒紫も蠢く。青を押し退けるように、一気に侵食が広がった。
「主様……?」
怪異が、もう一歩近づく。
次の瞬間だった。
川が爆ぜた。
轟音とともに水柱が立ち上がり、周囲の木々へ大量の水が叩きつけられる。
「……っ!」
狐が森の奥へ逃げ込んだ。鳥たちが一斉に枝を離れ、小さな怪異たちも悲鳴を上げながら水際から離れていく。
穏やかだった流れが岩を呑み込み、川岸を削る。まるで、川そのものが苦しんでいるようだった。
「川の主様!」
呼びかけに答えるものはない。
荒れ狂う水の奥。青い核が激しく明滅している。その青へ絡みついた黒紫だけが、脈打つたびに深く、深く食い込んでいった。
何者かは、その光景を見届けようともしなかった。水から手を引き上げ、何事もなかったかのように闇へ紛れ――やがて、その気配すら消えた。
*
翌朝。
乃木家の戸が開いた。
「よし」
乃木夕陽は外へ出ると、朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、大きく伸びをした。
白いパーカーに黒いズボン。服装だけを見れば、普段と大して変わらない。
ただし、今日は背中に細長い黒い袋を背負っていた。剣道部員が竹刀を持ち運ぶ時に使うような、丈夫な長物用の袋。
中には二本。父・乃木賢太が残した木刀。そして、鬼切。
廃刀令が施行されて三年。もっとも、刀を持っているだけで取り締まられるような、強制力の強いものではない。
長く続いた争いが終わり、世の中は平和になった。ならば、いつまでも武器を腰へ差して歩く必要もないだろう。そういう時代になった、という方が近い。
とはいえ、そんな世の中で木刀と日本刀を二本も腰へ差して歩けば、嫌でも目立つ。これから源塾までどれほど歩くのかも分からない。
だから二本とも袋へ収め、背負うことにした。
「六郎、準備できたか?」
夕陽が家の中へ声をかける。
「できています」
ほどなくして、卜部六郎が姿を現した。
黒を基調とした服の上に白衣を羽織っている。細身の体格と落ち着いた顔立ちも相まって、事情を知らない者が見れば、旅の医者か研究者とでも思うだろう。
その傍らには、一つのカバン。見た目だけなら、どこにでもありそうなものだ。
だが、それもまた怪異だった。
収納型怪異――通称、カバンの怪異。
外見からは想像できない量の物を、その内側へ収納できる。六郎が普段使用する対怪異用の弓や矢、調査道具をはじめ、卜部家が怪異と向き合うために作り上げてきた様々な道具も、そこへ収められていた。
「忘れ物ないか?」
「ありません」
「弓は?」
「あります」
「矢は?」
「あります」
「財布」
「ありますよ」
「なら行くか」
「夕陽さん」
「ん?」
「私、子供じゃないんですけど」
「昨日泊まった奴が忘れ物したら、また取りに戻ることになるだろ」
「夕陽さんこそ忘れ物しないでくださいね」
「俺は大丈夫だ」
六郎の視線が、夕陽の荷物へ落ちた。夕陽もつられて自分の荷物を見る。
「……なんだよ」
「いえ」
「言えよ」
「本当に全部入ってます?」
「入ってるって」
言いながら、夕陽は念のため荷物を下ろした。中を確認する。
数秒後。
「あ」
六郎がため息をついた。
「何を忘れました?」
「水」
「ほら」
「……取ってくる」
夕陽は何事もなかったような顔で家へ戻っていった。
「まったく……」
六郎は呆れながらも、わずかに口元を緩めた。昨日出会ったばかりだというのに、どうにも調子を狂わされる。
しばらくして、水筒を手にした夕陽が戻ってきた。
「今度こそ大丈夫だ」
「本当でしょうね?」
「大丈夫だって。ほら、行くぞ」
「はいはい」
「なんだよ、その返事」
「なんでもありません」
二人は並んで歩き出した。
*
目的地は、源塾。
夕陽の父――乃木賢太を知る者たちがいる場所だった。
朝の田園を抜け、二人は徒歩で進んでいく。
昨日、六郎は夕陽に、自分が賢太から直接修行を受けていたことを話した。源塾には、賢太と親しかった者も、教えを受けた者も残っているという。
夕陽の知らない父を知る人間たち。それを聞いてから、頭の中には聞きたいことが次々と浮かんでいた。
父は何をしていたのか。なぜ怪異と戦っていたのか。どうして、自分には何も教えなかったのか。
背中にある二本の得物についてもそうだ。鬼切という名は、昨日初めて知った。もう一本の木刀に至っては、六郎でさえ何も知らなかった。
「なあ」
「はい」
「源塾って遠いのか?」
「そこそこです」
「そこそこってどれくらいだよ」
「歩いていれば着きます」
「そりゃ歩いてりゃ、いつかは着くだろ」
「なら問題ありませんね」
「何がだよ」
夕陽が横目で睨んでも、六郎は涼しい顔で歩いている。
「お前、意外と性格悪いよな」
「昨日会ったばかりの人間に随分な評価ですね」
「昨日会ったばっかだから言ってんだよ」
「そういうものですか?」
「知らん」
「知らないんですか」
「細けえなあ」
昨日出会ったばかり。それでも、不思議と沈黙を恐れるような相手ではなかった。
しばらく歩いたところで、夕陽はふと思い出した。
「……なあ、六郎」
「はい?」
「ちょっと前に、変な怪異に会ったんだけどさ」
六郎が夕陽を見る。
「どんな怪異です?」
「最初は夢だった」
「夢?」
「ああ。自分の葬式を見た」
六郎の歩調が、わずかに緩んだ。
「自分の?」
「遺影に俺がいて、親父とお袋もいた」
夕陽は前を向いたまま歩く。
「夢から覚めた後も変なことが続いてさ。最後には、親父とお袋の姿をした怪異が出てきた」
「姿を真似ていた?」
「いや……」
夕陽は少し考え、首を振った。
「そんな感じじゃなかった」
「というと?」
「声も、喋り方も昔のままだった。俺のことも知ってたし、昔のことも覚えてた」
六郎の表情が変わる。
「記憶まで?」
「ああ」
夕陽の声が少し低くなった。
「あいつらは俺を殺そうとしてた。怪異だった。それは分かってる」
けれど、それだけではなかった。父の姿をした怪異と、母の姿をした怪異。あれをただの偽物だったと言い切ることが、夕陽にはできなかった。
「……俺のことを心配してたことも、覚えてた」
「…………」
「最後に親父が言ったんだ。『達者でな』って」
六郎の足が止まった。夕陽も数歩進んだところで振り返る。
「どうした?」
「その怪異。最後に中心となっていたのは、どちらでした?」
「中心?」
「二人が同じ立場だったのか。それとも、どちらか一方を中心に現象が起きていたのかです」
夕陽は記憶を辿った。最後に自分と戦ったのは父だった。母は父を庇った。そして、父を斬ったことで全てが終わった。
「……親父だな」
「そうですか……」
六郎はしばらく考え込んだ。
「知ってるのか?」
「おそらく」
「なんて怪異だ?」
「卜部家の文献に残っています」
六郎が静かに答える。
「『葬式の怪異』です」
「……葬式の怪異?」
夕陽が初めて、その名を口にした。
「死者の姿を借りて現れ、生者を襲う怪異です。ただし、再現するのは外見だけではありません」
「記憶もか?」
「はい。記憶、性格、口調、感情――記録が正しければ、生前に抱いていた愛情まで」
夕陽の足が止まった。
「……愛情まで?」
「そう記録されています」
夕陽は答えなかった。
あの時、父と母の姿をしたものから感じたもの。自分は確かに愛されていた。そう思えたことまで、全部が怪異の作った偽物だったのではないか。どこかで、そんな疑いが残っていたのかもしれない。
「……そうか」
胸の奥に、父の最後の言葉が蘇る。
――達者でな。
夕陽は小さく息を吐いた。
「親父、知ってたのかな」
「何をです?」
「自分があれになってるって」
六郎はすぐには答えなかった。
「分かりません」
「そっか」
「ただ」
夕陽が六郎を見る。
「賢太様ほど怪異に詳しい方なら、葬式の怪異そのものを知らなかったとは考えにくいです」
「……そうか」
それ以上、夕陽は聞かなかった。六郎も話を続けようとはしなかった。
二人は再び歩き出す。しばらく足音だけが続いた。
やがて夕陽が、自分から沈黙を破った。
「そいつ、そんなに危ない怪異だったのか?」
「はい」
六郎は頷いた。
「葬式の怪異は『主』に分類されます」
「ぬし?」
「怪異には、いくつかの階級があります」
「階級?」
「ええ。ただし、単純な強さの順番だとは思わないでください」
「違うのか?」
「違います。どのような性質を持つ怪異なのか。どこまで周囲へ影響を及ぼす存在なのか。それを整理するための分類に近いですね」
六郎は道端へ目を向けた。草むらの向こうを、小さな獣が走っていく。
「ああいった普通の動物が怪異的な影響を受けて変化したもの。それが『変異』です」
「動物が怪異になるのか」
「怪異的に変異する、と言った方が正確ですね。そこから、さらに怪異としての性質が強くなったものが『物の怪』」
「物の怪なら聞いたことあるな」
「怪物や妖怪。今ならUMAと呼ばれるようなものも、場合によってはそこへ含まれます」
「へえ」
「その上は?」
「『主』です」
六郎の声音が、少しだけ変わった。
「この辺りから、単純な生き物として考えると危険です。特殊な能力を持つものや、空間そのものへ干渉するものもいる」
「葬式の怪異がそこか」
「ええ」
「その上が『荒主』」
「まだあるのかよ」
「ですから、単純な上下ではありません」
六郎は苦笑する。
「荒主は、自然そのものに近い怪異です。山、川、火、風、大地。人間が完全には支配できないものに根ざす怪異」
「……強そうだな」
「夕陽さん」
「分かってるって。強さだけじゃないんだろ」
「ええ」
「でも強いんだろ?」
「……まあ、基本的には」
「やっぱり強いんじゃねえか」
「そこだけ拾わないでください」
夕陽が笑った。
「荒主は人間を殺すこともあります。しかし、人間を生かしてもいる」
「どういう意味だ?」
「夕陽さんは農業をしているでしょう?」
「ああ」
「雨が降らなければ?」
「困る。稲が育たねえ」
「では、降りすぎれば?」
「それも困る。下手すりゃ田んぼが全部駄目になる」
「そういうことです」
夕陽が「ああ」と声を漏らした。
「自然は人間にとって必要なものです。でも時には、人の命を奪う。それを善悪だけで分けることはできないでしょう?」
「益にも害にもなる、か」
「ええ。荒主も、それに近い存在です」
「その上もあるのか?」
「あります」
「まだ?」
「『荒人神』」
「……あらひとがみ?」
「人でありながら、荒主の領域へ至った存在です」
「例えば?」
「桃太郎。金太郎。浦島太郎――」
「待て」
夕陽が足を止めた。
「今、桃太郎って言ったか?」
「言いました」
「昔話だろ?」
「そうですね」
「金太郎も?」
「はい」
「浦島太郎も?」
「そうです」
「……お前、俺をからかってる?」
「からかってません」
「絶対からかってるだろ」
「なら次は聞かなくていいですか?」
「いや、聞く」
「で、その上は?」
「『天神』」
六郎の声から軽さが消れた。
「下位の怪異が持つような力に加え、創造や時間への干渉――神、と呼ぶしかない領域です」
夕陽はしばらく黙り、ふと思い出したように口を開いた。
「……じゃあ、田の怪異は?」
「主程度ですよ」
「程度って……本当か?」
「ええ」
「……怪しいな」
「何がです?」
「いや、別に」
夕陽は前へ向き直った。
「怪異ってのも面倒くせえな」
「だから調べるんです」
二人はそのまま源塾へ向かって歩き続けた。
*
それからしばらくして、道の先に人だかりが見えてきた。
「……なんだ?」
その向こうから、激しい水音が聞こえていた。
「行ってみましょう」
「ああ」
二人が近づくにつれ、何が起きたのかが見えてきた。
山から流れてきた川。その上に架けられていた小さな橋の中央部分が、大きく崩れ落ちている。
「……ひでえな」
川岸では、一人の男が手当てを受けていた。
「大丈夫か?」
「ああ……なんとかな」
「何があった?」
「分からん。橋を渡ってたんだ。最初は川だって普通だった。なのに急に、水が膨れ上がった」
「増水したのか?」
「いや。上から流れてきたんじゃない。水が……橋へ向かってきたんだ。まるで、橋を狙ったみたいに」
六郎の目つきが変わった。
「少し見ても?」
六郎は橋の手前まで進み、折れた欄干、裂けた橋板、木材に残った傷、川岸の泥を一つずつ確認した。
「何か分かるか?」
「妙ですね。普通の増水なら、水は上流から下流へ流れます。ですが、これは違う」
「……横から?」
「ええ」
「水が橋を殴ったってのか?」
「少なくとも、そう見えます」
その時、怪我をした男が呟いた。
「……またか」
「また?」
「ああ。最近、多いんだよ。こういう変なことが」
「詳しく聞かせてもらえますか?」
男は山の方角を見た。
「ここ何日かで何件かある。山道が急に水浸しになったり、川から水が飛んできたり……」
周囲の人々からも声が上がった。川沿いで突然水をぶつけられた者。山で犬や狐のような、普通ではない獣に追いかけられた者。
「その獣に、直接傷つけられた方は?」
六郎が尋ねると、人々は黙った。
「噛まれた。引っかかれた。そういった傷を負った方はいませんか?」
返事はない。
「……追いかけられただけ?」
夕陽の言葉に、女性が頷いた。
六郎は山へ視線を向けた。
「どう思う?」
「まだ分かりません」
「またそれかよ」
「分からないものを、分かったとは言えませんから。ただ――調べる価値はあります」
「怪異か?」
「可能性は高いと思います」
夕陽は壊れた橋と怪我人、不安そうに山を見る人々を見た。
「……六郎」
「はい」
「源塾、少し遅れてもいいか?」
「夕陽さんがいいのであれば」
「ああ。親父のことは早く知りたい。でも、これ見てそのまま行くのは違うだろ」
「分かりました。ただし、何がいるか分かりません。勝手に突っ込まないでください」
「俺をなんだと思ってんだよ」
六郎は何も言わなかった。
「なんか言えよ」
「行きましょうか」
「おい」
二人は山へ向かった。
*
山へ入ってしばらくは、何事も起こらなかった。
木々が頭上を覆い、陽の光が葉の隙間から細く差し込んでいる。鳥の声も虫の羽音も少ない。
「……静かだな」
「そうですね」
その時。
――チリン。
夕陽の足が止まる。
――チリン。
「……鳴った」
「昨日話していた木刀ですか?」
「ああ」
「近くにいますね」
「そこまで分かれば苦労しねえよ」
――来るな。
「……?」
耳ではなく、頭の奥へ言葉だけを直接落とされたような感覚。
「六郎」
「はい」
「今の、聞こえたか?」
「聞こえました」
――来るな。
――出ていけ。
――帰れ。
茂みが揺れた。
犬、狐、鳥――動物によく似た小さな怪異たちが次々と姿を現した。
「……こいつらか」
夕陽は一瞬、日本刀へ手を伸ばしかけた。だが相手の姿を見て手を止める。
「……こいつら相手に日本刀はまずいだろ」
代わりに父の形見の木刀を引き抜いた。
――出ていけ!
一匹が飛びかかる。
夕陽は木刀を身体へ打ち込まず、その鼻先を掠める位置で止めた。
「俺たちは、お前らと喧嘩しに来たんじゃねえ!」
――来るな。
「だから何でだよ!」
――帰れ。
「理由を言え、理由を!」
「夕陽さん。たぶん、そういう会話はできません」
「喋ってんじゃねえか!」
「単純な意思を伝えているだけでしょう」
「十分だろ!」
怪異たちは夕陽たちが前へ出ると威嚇するが、下がると追ってこない。
「……追い返されてる?」
「おそらく。私たちを殺したいなら、もっとやりようがあるはずです」
遠くから低い轟音が響いた。
――ゴォォォォ……。
――来るな。
――行くな。
――危ない。
――チリン、チリン。
木刀の警告も強くなる。
「……この先だな」
「ええ」
夕陽は前へ立つ小怪異に木刀を下げた。
「悪い。でも、ここまで来て帰れねえよ。橋も壊れてる。怪我した奴もいる。この先に何がいるのか分からねえけど、放っといたらまた誰か怪我するかもしれねえ。だから見てくる」
――行くな。
「分かってる。危ないんだろ?」
夕陽はその横を通り過ぎた。六郎も続く。
小怪異たちは、なおも声を送り続けていたが、今度は飛びかかってこなかった。
*
奥へ進むにつれて、湿った空気が濃くなっていった。水音も大きくなる。
――チリン、チリン。
「なあ六郎。これ、さっきより鳴ってないか?」
「鳴ってますね」
「やっぱり?」
「夕陽さんの木刀でしょう」
「俺だって鳴り方の基準なんか知らねえよ」
やがて木々の間から、白い水飛沫が見えた。
「川だ」
二人は足を速めた。そして、木々が途切れた。
「…………」
夕陽の足が止まった。
山中を流れる小さな川。その水が荒れ狂い、流れに逆らうように盛り上がり、岩へ叩きつけられている。
川の中央で大量の水が持ち上がった。
「……なんだよ」
水が集まり、巨大な胴を作る。四肢が伸び、長い首が持ち上がる。
龍。
巨大な水龍が、川から姿を現した。
身体を作る水は絶えず流動し、輪郭が崩れてはすぐに新たな水が集まり形を取り戻す。
夕陽は動けなかった。
――これは、まずい。
隣を見る。六郎も水龍を見上げたまま固まっていた。
「……荒主」
「これが……?」
「ええ」
六郎は一歩下がった。
「夕陽さん」
「なんだ」
「戻りましょう」
夕陽が目を見開いた。六郎は冗談を言っていない。
「……本気か?」
「本気です。無理です。荒主は、私たちが正面から倒せるような相手じゃありません」
夕陽も怖かった。
「……じゃあ、どうする」
「一度退きます。源塾へ戻って――」
水龍の首が動いた。
「夕陽さん!」
二人が左右へ飛ぶ。
直後、大量の水が地面へ叩きつけられた。
「いきなりかよ!」
「だから戻ると言ったでしょう!」
「もう遅えだろ!」
水龍が再び身をくねらせ、尾が川面を叩く。水が壁のように持ち上がる。
二人は走った。
夕陽は木刀へ手を伸ばす。だが止まった。
「……これは無理だろ」
木刀を袋へ戻し、代わりに鬼切へ手を伸ばした。
六郎がその動きを見た。だが、止めなかった。
夕陽は鬼切を抜いた。
その瞬間だった。
――チリンッ!
袋の中の木刀が、鋭い音を立てた。
森の際で二人を見ていた小怪異たちが、一斉に身を竦ませる。
――こわい。
――それ。
――こわい。
――だめ。
同時に、水龍の動きも止まった。
ほんの一瞬。
水で形作られた頭部が、夕陽ではなく、その手にある鬼切を見た。
次の瞬間、水龍が咆哮した。
「うおっ!?」
「夕陽さん!」
それまでとは比べものにならない勢いで、水流が夕陽へ襲いかかった。
夕陽は咄嗟に鬼切を振るった。
迫っていた水が真っ二つに裂ける。
「……斬れた」
水龍は明らかに夕陽だけを狙っている。
「なんで俺ばっかり!」
「その刀です!」
「は!?」
「抜いた途端に反応が変わりました!」
「なんでだよ!」
「私が知るわけないでしょう!」
「お前、鬼切知ってたじゃねえか!」
「名前しか知りません!」
「使えねえな!」
「今それ言います!?」
水龍の前脚が横薙ぎに振るわれる。
夕陽は身を屈め、そのまま踏み込んだ。
「くそっ!」
鬼切を振り上げる。
刃が水龍の前脚を斬り裂き、巨大な水の塊が地面へ落ちた。
「やった!」
だが、落ちた水が川へ戻り、再び水龍の身体へ吸い上げられていく。
「……は?」
「水ですから!」
「見りゃ分かる!」
「なら戻るのも分かってください!」
「化け物なんだから斬ったらなんか起きると思うだろ!」
「物理法則まで怪異扱いしないでください!」
六郎は水龍そのものへ攻撃しようとはしなかった。
水は斬るものではない。射るものでもない。
ならば、何がこの巨大な水の塊を怪異として成立させているのか。
「夕陽さん!」
「今度はなんだ!」
「できるだけ避けてください! 斬っても意味がありません!」
「やってみなきゃ分かんねえだろ!」
「今やって分かったでしょう!」
「うるせえ!」
水龍の尾が迫る。
夕陽が鬼切で斬り払った。尾が大きく裂け、水飛沫が舞う。
その瞬間、薄くなった水の向こうで何かが光った。
「……!」
青。
六郎は目で追った。
「……動いている?」
水龍の身体の中を、水流に乗るように絶えず移動している。
「夕陽さん、もう一度!」
「何を!」
「今みたいに水を散らしてください!」
「斬るなって言ったのお前だろ!」
「確認したいものがあります!」
「注文多いな!」
夕陽は鬼切を振り抜いた。
水龍の肩口が大きく裂ける。
六郎は目を凝らした。
青。
「核……」
だが、青だけではない。
黒紫。
水龍が動く。
見失う。
六郎は追う。
青。
黒紫。
また見えた。
まとわりついているだけではない。
食い込んでいる。
青が脈打つたびに、黒紫も蠢く。
「……なんだ、あれ」
青い核は、水龍の胸元から腹へ、腹から尾へと水流に乗るように絶えず位置を変えている。
そして、どこへ移っても黒紫は離れない。
「六郎!」
夕陽の声で、六郎が我に返る。
その時だった。
「やめてー!」
森の方から、小さな影が飛び出した。
先ほどまで二人を追い返そうとしていた小怪異の一匹だった。
――やめて!
――主様!
――やめて!
「おい、待て!」
「川の主様! やめて!」
水龍が前脚を振り上げた。
その間へ、小怪異が飛び込む。
「馬鹿! どけ!」
夕陽が走った。だが、間に合わない。
振り下ろされた水の塊が、小さな身体を弾き飛ばした。
「――っ!」
小怪異が川岸へ叩きつけられる。
「おい!」
夕陽はすぐに駆け寄り、小さな身体を抱き起こす。
息はある。意識もある。だが片脚を痛め、立てない。
「動くな!」
それでも小怪異は水龍を見ていた。
「……川の……主様……」
「…………」
「やめて……」
夕陽の表情が変わった。
恐怖より先に、別の感情が込み上げる。
夕陽は小怪異を静かに地面へ下ろした。
「ここにいろ」
立ち上がる。
「夕陽さん?」
「……何やってんだよ。こいつら、お前のこと心配してんだろうが!」
夕陽は走った。
「夕陽さん、待ってください!」
真正面から踏み込み、鬼切を振り抜く。
水の腕が裂ける。
返す刀で胴を斬る。
首。胴。腕。
鬼切が何度も水龍を斬り裂く。
「いい加減に――目ぇ覚ませ!」
さらに一閃。
その瞬間、夕陽の腕から急に力が抜けた。
「……あ?」
鬼切が重い。
いや、刀が重くなったのではない。自分の身体に力が入らない。
「なんだ……?」
息が上がる。心臓が激しく脈打つ。視界の端が霞む。
一歩踏み出そうとして、膝が崩れる。
「っ……!」
咄嗟に鬼切を地面へ突き、倒れるのだけは堪えた。
「夕陽さん!」
六郎が駆け寄ろうとする。
「来んな! 俺から狙い外れたら、お前に行くだろ! いいから考えろ! お前……そういうの得意なんだろ……!」
六郎の足が止まった。
「見て、考えて……なんとかすんだろ!」
昨日、六郎自身が話したことだった。
力で勝てないなら、まず見る。知って、考える。それから、自分にできる方法で戦う。
「……早くしろ」
六郎は息を呑んだ。
「……分かりました」
恐怖が消えたわけではない。目の前にいるのは荒主だ。
だからこそ、倒すことを考えるな。
川。橋。事故。小怪異。水龍。青い核。黒紫。
小怪異たちは人間を傷つけようとしていなかった。追い返そうとしていた。そして今、荒主を恐れながらも「川の主様」と呼び、身を挺して止めようとした。
ならば、本来のこの荒主は、人を襲い、仲間まで傷つけるような存在ではない。
六郎の視線が青い核を捉える。
青。
黒紫。
青は脈打っている。
黒紫は、それを侵している。
「……そうか」
正常なものに、異常なものが入り込んでいる。
「病巣……」
「何……?」
「あの黒紫です。あれは、この荒主自身のものではありません」
「分かるのか?」
「少なくとも、核とは別物です。青い核へ、後から何かが食い込んでいる」
「それが、こいつを暴れさせてるってことか?」
「おそらく」
「じゃあ、あれ斬ればいいんだな」
「駄目です!」
六郎の声が飛んだ。
「黒紫は核へ食い込んでいます。鬼切でまとめて斬れば、あの核まで斬ることになる」
「……それが?」
「あれがこの荒主の心臓なら、核を斬れば荒主そのものが死にます」
夕陽が黙った。
負傷した小怪異が、水際を見ている。
「……川の主様……」
夕陽の手から、わずかに力が抜けた。
「じゃあ……斬れねえじゃん」
「ええ」
「どうすんだよ」
「考えています!」
「早めに頼む……!」
六郎は青い核を追った。
核そのものを射てば、荒主を殺す。
狙うべきは、そこではない。
青い核へ食い込んだ黒紫。
荒主を狂わせている病巣だけを取り除く。
通常の弓でそんな芸当ができるとは思えなかった。
だが――。
六郎の視線が、傍らのカバンへ落ちた。
一つだけ。
ある。
六郎はカバンの怪異へ腕を入れ、古びた一張の長弓を引き出す。
「……なんだ、それ」
「説明は後です」
六郎は短く答え、水龍へ向き直った。
青い核は今も体内を移動している。
だが、それは問題ではない。
狙うものは、もう決まっていた。
青ではない。
その青へ食い込んだ黒紫。
ただ、それだけ。
六郎は矢を番え、弦へ指をかける。
「夕陽さん!」
「……なんだ!」
「時間を稼いで下さい!」
夕陽が顔を上げた。
「……何秒だ!」
「十秒!」
夕陽は一瞬だけ目を閉じた。
腕は重い。脚は震えている。肺は空気を求めて悲鳴を上げている。
それでも、夕陽は口元を上げた。
「……任せろ!」
鬼切を握り直し、水龍の前へ出る。
「おい! こっちだ!」
水龍が夕陽を見る。
その背後で、六郎は弓を引き始めた。
「……っ」
弦が重い。
腕だけでは引けない。
肩。背中。全身を使い、少しずつ、少しずつ引いていく。
夕陽の前では、水龍の前脚が振り下ろされた。
「くっ!」
鬼切を振るう。
水が裂け、激しい飛沫が夕陽の身体を打つ。
次は尾。
夕陽は身体を沈めてかわす。
足がもつれ、片膝が地面につく。
「まだ……!」
無理やり立ち上がる。
六郎が十秒と言った。
なら、十秒だけでいい。
その十秒だけは、自分が前に立つ。
「こっちだ! お前の相手は俺だ!」
その背後で、六郎はさらに弦を引く。
腕が震える。額に汗が滲む。
まだ。
引き切れていない。
あと少し。
水龍の攻撃が夕陽を捉えた。
「がっ……!」
水圧だけで身体が吹き飛ばされた。
夕陽は地面を転がり、止まった時にはもう立ち上がる力さえ残っていなかった。
「……くそ……」
腕を地面につく。
力が入らない。
脚も動かない。
それでも顔を上げた。
水龍がいた。
だが――こちらを見ていない。
水龍の頭が、ゆっくりと別の方向へ向いていく。
その先。
六郎。
弓を引く六郎を見ていた。
夕陽の顔色が変わった。
水龍が、六郎の持つ弓を危険なものだと認識した。
「六郎!」
水龍が向きを変える。
大量の水が六郎へ向かって持ち上がった。
「おい!」
夕陽は立とうとした。
身体が動かない。
「おい、まだ!」
水龍が六郎へ迫る。
「六郎! まだだろ!」
その時。
六郎の弦を引く手が止まった。
完全に引き切っている。
腕は震えていた。呼吸も荒い。
それでも、六郎は迫ってくる水龍を見据えたまま、静かに言った。
「――十秒、経っていますよ」
指を離す。
パンッ――!
弓弦が鳴った。
同時に。
水龍の動きが止まった。
「…………え?」
夕陽には、何が起きたのか分からなかった。
矢が飛んだところなど見ていない。
けれど。
水龍の体内。
青い核へ食い込んでいた黒紫の中心に――。
一本の矢が、すでに突き立っていた。
黒紫が大きく脈打つ。
一度。
二度。
そして。
亀裂が走った。
黒紫の表面に生まれた細い亀裂が、瞬く間に全体へ広がっていく。
水龍が大きく身を震わせた。
声にならない咆哮が山中へ響く。
「六郎!」
「動かないで!」
反射的に立ち上がろうとした夕陽を、六郎が制した。
「でも――」
「見てください!」
夕陽は水龍へ目を戻した。
黒紫が崩れていく。
砕けた破片は水へ溶けることもなく、黒い靄のように形を失い、そのまま消えていった。
その中心。
青い核には――傷一つない。
「……青い」
先ほどまで黒紫に覆われていた光が、本来の色を取り戻している。
青い核が、ゆっくりと脈打った。
――ドクン。
水龍の身体が揺れる。
夕陽は思わず鬼切を握り直した。
だが、攻撃は来なかった。
もう一度。
――ドクン。
青い光が水龍の身体を巡る。
荒れ狂っていた水の流れが、少しずつ変わっていった。
逆巻いていた水が川へ落ちる。
持ち上がっていた巨大な前脚が崩れ、胴がほどけるように形を失っていく。
「……六郎」
「ええ」
二人は黙って見ていた。
巨大な水龍が、川へ戻っていく。
それは倒れたというより、張り詰めていた力が抜け、ようやく本来の姿へ戻っていくように見えた。
最後に長い首が崩れた。
大量の水が川面へ落ちる。
激しい飛沫が上がり――やがて、静かになった。
「…………」
さっきまで地面を抉るほど荒れていた川が、今は岩の間を静かに流れている。
水面の下では、青い光がゆっくりと移動していた。
黒紫は、もうどこにもない。
「……終わったのか?」
「……ええ」
六郎は古弓を下ろした。
答えた直後、六郎の腕から力が抜けた。
「おい!」
六郎は片膝をつき、どうにか弓を地面へぶつけないよう支えた。
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
「俺より酷い顔して言うなよ」
「夕陽さんにだけは言われたくありません」
「俺は……」
言い返そうとして、夕陽は諦めた。
「……何なんだよ、その弓」
六郎が手元の古弓を見る。
「弓張月です」
「ゆみはりづき?」
「ええ」
「いや、名前じゃなくて」
六郎が僅かに笑った。
「今は説明する体力がありません」
「お前な……」
背後から小さな足音が聞こえた。
森の際。木々の陰から、小怪異たちがこちらを覗いていた。
一匹。また一匹。
狐。犬に似たもの。鹿に似たもの。鳥の姿をしたもの。
そして、その後ろから本物の動物たちまで出てきた。
「……こいつら」
夕陽は鬼切へ目を落とした。
小怪異たちはまだ、その刀を警戒している。
「あ」
夕陽はすぐに鬼切を鞘へ戻し、背中の袋へ収めた。
それを見て、怪異たちの緊張が少しだけ解けた。
――主様。
一匹が川へ向かう。
――川の主様。
次々と、小さな怪異たちが水際へ集まっていった。
先ほど水龍の攻撃を受けた小怪異も、起き上がろうとしていた。
「おい、無理すんな」
夕陽は這うようにして近づき、小怪異の身体を支え、水際まで連れていく。
「……川の主様……」
小怪異が呼びかける。
川面が、僅かに揺れた。
水の中を移動していた青い光が止まる。
ゆっくりと、小怪異たちが集まっている岸へ近づいてきた。
夕陽が身構える。
だが、何も起きない。
青い光は水際の近くで、淡く明滅した。
――ドクン。
穏やかな鼓動。
小怪異の顔が緩んだ。
――よかった。
――主様。
――戻った。
――よかった。
森の中から次々と声が届く。
「……そういうことか」
夕陽が小さく呟く。
「何がです?」
「あいつらさ。俺たちを襲ってたんじゃなかったんだな」
「ええ」
「最初からずっと、俺たちをここに来させないようにしてた」
「おそらく。人間を守ろうとしていたのかもしれません」
夕陽は橋で聞いた話を思い出した。
獣のようなものに追いかけられた。だが、誰も直接は傷つけられていない。
「それだけじゃないだろ」
「はい?」
「あいつら。こいつのことも守ろうとしてた」
六郎は小怪異たちを見る。
「……そうですね」
夕陽は川を見る。
少し前まで、目の前の水龍をただの化け物だと思っていた。
怖かった。
だから鬼切を抜いた。
斬ればどうにかなると思った。
「……俺」
「はい?」
「こいつ、殺してたかもしれねえな」
六郎は夕陽を見る。
「核っての見つけてたら、多分……斬ってた。何も知らねえまま」
六郎はすぐには答えなかった。
「でも」
「?」
「斬らなかった」
「お前が止めたからだろ」
「それでもです。次は、自分で気づけばいい」
夕陽が六郎を見る。
「私だって、最初は逃げようとしたんですから」
「それは正解じゃねえの?」
「今となっては、どうでしょう」
「いや荒主だぞ。逃げるだろ普通」
「夕陽さんは逃げませんでしたけどね」
「俺は……」
夕陽は頭を掻いた。
「……なんか腹立つな」
「何がです?」
「分かんねえ」
六郎が小さく笑った。
「笑うな」
「笑ってません」
「笑ってるだろ」
二人の間に、ようやく少しだけいつもの空気が戻った。
「なあ」
「はい?」
「あの黒紫」
「……ええ」
「あれ、結局なんだったんだ?」
「おそらく、呪いです」
「呪い?」
「自然に発生したものには見えませんでした。核とは明らかに別物だった。そして、外から侵食していた」
「じゃあ、誰かがやったってことか?」
「その可能性はあります」
「誰が?」
「分かりません」
「なんのために?」
「それも」
「……何も分かんねえな」
「分からないものを、分かったとは言えませんから」
「それ今日何回目だよ」
「大事なことなので」
「はいはい」
夕陽は息を吐いた。
黒紫の色だけは、頭に残った。
誰かが、この川の主を狂わせた。
何のために。
答えは、まだない。
*
しばらくして、夕陽の呼吸もようやく落ち着いてきた。
身体はまだ重い。
「……なんだったんだ、あれ」
夕陽が腕を揉む。
「急に身体動かなくなったぞ」
「鬼切と関係があるかもしれませんね」
「分かるのか?」
「いいえ」
「またかよ」
「昨日も言ったでしょう。私は鬼切の名前と僅かな伝承しか知りません」
「使えねえな、六郎」
「その使えない六郎に助けられたのは誰です?」
「……俺です」
「素直ですね」
「うるせえ」
六郎が笑った。
夕陽も、つられて少し笑う。
そして。
六郎が川を見ながら言った。
「やりましたね、夕陽さん」
夕陽は少し黙った。
「夕陽で良い」
六郎が振り向く。
「え?」
「名前。夕陽で良い」
六郎は目を瞬いた。
それから少し照れたように、頬をぽりぽりと掻く。
「……そうですか」
「ああ」
六郎は小さく笑った。
「では、夕陽」
「おう」
「これからも、よろしくお願いします」
夕陽の顔が明るくなる。
「よろしくな! 六郎!」
六郎の笑顔が止まった。
「下の名前、やめません?」
「今更だろ」
「私は嫌なんですけど」
「知ってる」
「なおさら悪いでしょう」
「でも六郎は六郎だろ?」
「卜部があります」
「呼びにくい」
「三文字の方が良いでしょう」
「六郎は四文字だろ」
「だから言ってるんです!」
「でも六郎の方が呼びやすい」
「そういう問題ではありません」
「じゃあ六郎」
「だから!」
夕陽が笑う。
六郎は呆れたようにため息をついた。
その傍らを、川が静かに流れていく。
水際では、小怪異たちが川の主の周りへ集まっていた。
もう、誰も怯えてはいなかった。
*
しばらく休んだ後。
二人は再び山道を戻っていた。
夕陽は背中の袋を担ぎ直す。
足取りはまだ少し重い。
「なあ六郎」
「なんです?」
「源塾」
「はい」
「今日着く?」
六郎は空を見上げた。
山へ寄り道した分、日はかなり傾いている。
「……頑張れば」
夕陽の足が止まった。
「頑張れば?」
「頑張れば」
「…………」
夕陽は自分の身体を見る。
腕は重い。脚もだるい。全身びしょ濡れ。泥までついている。
そして、深く息を吐いた。
「もう今日は頑張れねえよ……」
六郎が小さく笑った。
「では、途中で休める場所を探しましょう」
「最初からそう言えよ」
「夕陽が今日中に行きたいのかと思いまして」
「……お前さ」
「なんです?」
「夕陽って呼ぶようになった途端、ちょっと遠慮なくなってない?」
「気のせいです」
「絶対気のせいじゃねえ」
二人の声が、山道へ響く。
夕陽は一度だけ振り返った。
木々の向こう。もう川は見えない。
ただ、穏やかな水音だけが、かすかに聞こえていた。
夕陽は前へ向き直る。
父のことを知るために始めた旅。
まだ、源塾にすら着いていない。
それなのに、昨日まで知らなかったものを、もういくつも見た。
怪異にも、人間と同じように、知らなければ分からないことがある。
夕陽は背中の袋を担ぎ直した。
「六郎」
「はい?」
「行こうぜ」
「ええ」
二人は並んで歩き出した。
源塾へ続く道を。
今度こそ、寄り道せずに――。
少なくとも、夕陽はそのつもりだった。
読んでくれてありがとうございます。
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