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『異聞 ―怪異伝―』  作者: ニカオ


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第一部 第三話 卜部の末裔

葬式の怪異との一件から、数日。


乃木家には、久しぶりに何も起こらない日が戻っていた。


「よいしょっと」


乃木夕陽は鍬を土へ入れた。顔を上げれば、いつもの田んぼが広がっている。風が吹き、稲が揺れる。遠くで鳥が鳴いている。


「……平和だなぁ」


朝起きて、飯を食って、田へ出る。日が暮れたら家へ帰る。少し前まで当たり前だった日常が、今は妙にありがたかった。


夕陽は畦道へ目を向ける。そこには、父が残した木刀と、道場に昔からあった日本刀が置かれていた。


さすがに田仕事をしながら持ち歩く気にはならない。だが、あれ以来、家に置いたままにもしていなかった。何かあれば、すぐ手に取れる場所。それだけは徹底している。


「……慣れって怖ぇな」


夕陽はふと、田の水面を見た。


「おーい。いるんだろ? 田の怪異」


返事はない。


「……あの時は普通に喋ってたじゃねえか」


沈黙。


「ここ数日、ずっと無視かよ。契約したんじゃなかったのかよ」


稲がさらさらと揺れる。


「ちくしょー……なんなんだよ」


葬式の怪異の一件が終わってから、何度かこうして話しかけている。だが田の怪異は、一向に姿を見せようとしなかった。


「……感じ悪い奴」


夕陽はぼやいて、仕事へ戻った。


そんな平穏な日が、しばらく続いた。


*


その日も、何事もなく終わるはずだった。


「ふぅ……今日はこんなもんか」


西の空は赤く染まり、山の輪郭が黒く浮かんでいた。夕陽は鍬を担ぎ、畦道へ上がる。


「帰るか」


二振りを置いた場所へ向かい、手を伸ばした、その時。


――チリン。


「…………」


聞き間違えるはずがない。木刀から響く、あの音。


「……おい」


――チリン。


次の瞬間。


――チリンチリンチリンチリン!


「なっ!?」


夕陽は木刀を掴んだ。今までとは違う。警告というより、警報だった。


「なんだ!?」


バサッ――!!


山林が大きく揺れ、木々の間から巨大な影が飛び出した。


翼。長い嘴。一瞬、鳥に見えた。


大きさがおかしい。木々を揺らしながら、巨大な何かが夕暮れの空を横切っていく。


「でっか……」


山林の中に、もう一つ動く影があった。誰かが木々の間を縫うように駆け、巨大な鳥を追っている。


「……人?」


「なんだ、あれ……」


夕陽が目を凝らした、その瞬間。鳥型の怪異が大きく羽ばたき、進路を変えた。


その先には乃木家。そして――道場。


「おい、待て」


何度も父と竹刀を交えた場所。幼い頃から数え切れないほど剣を振った場所。十二歳のあの日、父と最後の時間を過ごした場所。


巨大な影が落ちていく。


「待てって!!」


――ドォン!!


轟音。土煙が舞い上がり、瓦と木材が弾けた。


煙の向こうで、道場の壁が大きく崩れている。


ブチッ。


何かが切れた。


夕陽は木刀を置き、もう一振りを掴んだ。鞘を払う。迷いはなかった。


「うちの道場に……何してくれてんだああああ!!」


夕陽は走った。


「待て!!」


横から腕を掴まれる。先ほど山林を駆けていた男だった。


「君、見えているのか!?」


「誰だお前!? 放せ!」


「見えているなら尚更だ! 危ない!」


「あいつだけは許さん!」


「待つんだ! あれは怪異だ! 常人がどうこう出来るものじゃない!」


「うるせぇ!!」


夕陽は腕を振り払い、地面を蹴った。


鳥型怪異がこちらを見る。巨大な翼が振るわれる。夕陽は身を沈めた。風圧が頭上を抜ける。


一歩。二歩。懐へ。


崩れた道場が、視界の端に入った。


「何してくれてんだ!!」


一閃。


夕暮れの中、巨体に一本の線が走った。一瞬遅れて鳥型怪異が崩れ落ち、地面が揺れた。


「……な」


背後から声が漏れた。男が立ち尽くしている。倒れた怪異。夕陽。その手元。順に視線が動く。


「……倒した?」


「当たり前だ! うちの道場ぶっ壊しやがったんだぞ!」


「いや……そういう問題では……」


男の言葉が止まった。


ぽちゃん。


田んぼの水面が黒く染まっていく。黒い水が盛り上がり、夕陽と同じ姿をした黒い人影を作った。


「やっと出てきやがったな! 俺が何回呼んだと思って――」


田の怪異は夕陽を見なかった。その顔は、夕陽の後ろへ向いている。


『久しいな、卜部の末裔よ』


「――!」


男の目が見開かれた。


「……田の怪異様」


夕陽は二人を交互に見る。


「知り合い?」


男の視線が夕陽の手元へ落ちた。次に、倒れた鳥型怪異。壊れた道場。乃木家。そして夕陽。


「……ここは、乃木家ですね?」


「そうだけど」


男の表情が変わる。


「では、あなたは……」


『ああ。今の契約者だ』


「…………!」


男は夕陽を見つめ、もう一度その手元へ視線を落とした。


「……まさか」


「なんだよ」


「いえ……」


男はそれ以上言わなかった。


「ていうか、お前。俺にはここ数日ずっと返事しなかったくせに、なんでこいつとは普通に喋るんだよ!」


『…………』


「おい!」


黒い身体が崩れ、水へ戻っていく。


「待て! なんか言え!」


ぽちゃん。


消えた。


「…………絶対わざとだろ、あいつ」


背後で男が僅かに口元を緩めた。


「今、笑っただろ」


「いえ」


「笑った!」


「気のせいです」


「お前も腹立つな!」


夕陽は男を睨んだが、すぐに壊れた道場へ目を向けた。


「……はぁ。明日から修理かよ……」


「その件は、申し訳ありません」


「なんでお前が謝るんだ?」


「私が追っていた怪異ですから」


「あれが勝手に落ちてきたんだろ。それより――親父を知ってんのか?」


男の表情が変わった。


「さっき、乃木家って聞いて驚いてただろ」


「……ええ」


「話、聞かせてくれ。家は無事だ」


夕陽は母屋を指した。男は少し考えてから頷いた。


「分かりました」


二人が歩き出す。


「そういや、お前、名前は?」


男は一瞬きょとんとした。


「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね」


*


二人が母屋へ入る頃には、外はすっかり暗くなり始めていた。


「適当に座っててくれ」


「お構いなく」


「もう構ってるよ」


夕陽は台所へ向かい、ほどなくして二つの湯呑みを持って戻ってきた。


「ほら」


「ありがとうございます」


男は湯呑みを受け取ると、改めて姿勢を正した。


「申し遅れました。卜部六郎と申します」


「六郎」


「…………」


「ん?」


「いきなり下の名前で呼ぶんですか?」


「卜部より呼びやすい」


「そうですか……」


「なんだよ。自分の名前嫌いなのか?」


「……私は長男です」


「うん」


「六郎です」


「…………長男なのに?」


「はい」


「六郎?」


「はい」


「なんで?」


「私が聞きたいですよ」


「ははっ!」


「笑わないでください」


「悪い悪い、六郎」


「絶対悪いと思ってないでしょう」


夕陽は笑いながら湯呑みに口をつけた。


「で、六郎」


「……もういいです」


夕陽の表情が少しだけ真面目になる。


「親父のことだ。どういう知り合いなんだ?」


六郎は湯呑みを置いた。


「乃木賢太様には、修行をつけていただきました。私の師の一人です」


「……親父が? 人に教えてたのか?」


「かなり頻繁に。賢太様は源塾へよく顔を出されていました。私だけではありません。多くの塾生が教えを受けています」


「ちょっと待て。その源塾ってなんだ?」


「……ご存じない?」


「初めて聞いた」


「賢太様から何も?」


「何も。親父、秘密多すぎんだよ」


六郎は少し黙った。


「賢太様が話さなかったのであれば、何か理由があったのでしょう」


「で、その源塾ってのは?」


「古くから続く、対怪異のための組織です」


「対怪異?」


「怪異について学び、記録し、戦う術を後世へ残す。そのための場所です」


「塾っていうから、普通の学校みたいなの想像した」


「学校でもありますよ」


「どっちだよ」


「怪異について学び、戦う術を学ぶ。その意味では学校です」


「……物騒な学校だな」


「否定はしません」


「親父はそこで先生やってたのか」


「講師の一人です」


夕陽は湯呑みの中を見る。


自分の知らない父。そんなものが、突然目の前に現れた気がした。


「田の怪異も?」


「はい?」


「あいつも源塾にいたのか?」


「所属していた、という表現が正しいかは分かりませんが……私は賢太様を通して出会いました」


「さっき『様』って呼んでたよな。なんで?」


「私の師だからです」


「…………は?」


「賢太様に修行をつけていただいていた頃、最後に戦わされました」


「田の怪異と?」


「はい」


「何やってんだよ親父」


「私も当時そう思いました」


「で、勝ったの?」


「まさか」


「じゃあ認められてねえじゃん」


「倒せとは言われていません」


「……あ」


「あの戦いで、私は自分のやり方を決めました」


「やり方?」


「力で勝てないなら、まず見る。相手が何者なのか。何ができるのか。何を嫌うのか。何が通じて、何が通じないのか」


六郎は続けた。


「知って、考える。それから、自分にできる方法で戦う」


「だから弓なのか?」


「それもあります」


夕陽は窓の外、暗くなった田んぼへ目をやった。


「……あいつ、ちゃんと師匠やってんだな」


「立派な方ですよ」


「俺には返事もしねえけど」


「それは……」


「嫌われてるとか言ったら追い出すぞ」


「何も言っていません」


六郎の口元が少し緩んだ。


「笑ってんじゃねえか」


「気のせいです」


夕陽はじろりと睨み、ふと思い出したように立ち上がった。


「そうだ。さっき、これ見てなんか言いかけてたよな」


先ほど使った日本刀を持って戻り、六郎の前へ置く。


「知ってんのか?」


六郎はすぐには答えず、目の前の一振りをじっと見た。


「……鬼切」


「鬼切?」


「そう呼ばれるものではないかと」


「なんで分かった?」


「実物を見たことはありません。卜部家の先代から、存在だけは聞いていました」


六郎は手を触れずに続ける。


「怪異を斬る一振りがあること。そして、それを賢太様が持っていたこと」


「親父が?」


「ええ。ここは乃木家。あなたは賢太様のご子息。そして先ほど、あの怪異を一撃で倒した。それなら答えは一つです」


夕陽は目の前の一振りを見る。


「……鬼切、か」


「どんなもんなんだ?」


「分かりません」


「名前まで知ってんのに?」


「こういったものの情報は、必要以上に広めません」


「なんで?」


「狙われるからです。人にも、怪異にも」


「…………」


「自分たちを殺せるものがどこにあるか。怪異側からすれば、知りたいでしょう」


「……そりゃそうか」


「ですから、私が聞いていたのも本当に僅かです」


夕陽はしばらく考え、立ち上がった。


「じゃあ、こっちは?」


今度は父の形見を持ってくる。


六郎が見る。


「…………木刀ですね」


「それは俺も知ってる」


「では?」


「怪異が近くにいると鳴る」


「鳴る?」


「チリンって。あと、怪異を斬った」


六郎が黙った。


木刀を見る。夕陽を見る。もう一度、木刀を見る。


「……これが?」


「これが」


「何か不思議な力があるんですか?」


「それを俺がお前に聞いてんだよ」


「知りませんよ」


「鬼切は知ってんのに?」


「知らないものは知りません」


「使えねえな、六郎」


「その六郎に聞いているのはあなたでしょう」


「それもそうだな」


「納得するんですか……」


夕陽は木刀を手に取った。


「これも親父のだ。形見」


「賢太様の?」


「ああ」


六郎は少しだけ表情を変えたが、答えは出ない。


「少なくとも、私は聞いたことがありません」


「そうか」


夕陽は木刀を見る。


名前すら知らない。

父が何のために持っていたのかも、どうして怪異を斬れるのかも。


「……親父。ほんと、何も教えてねえな」


その時、夕陽の中に一つの疑問が浮かんだ。


「六郎」


「はい」


「親父を知ってる奴って、まだ源塾にいるのか?」


「います」


「お前以外にも?」


「賢太様と親しかった方もいますし、教えを受けた者もいます。賢太様が源塾で何をしていたのか、知っている者もいるでしょう」


夕陽は黙った。


父がなぜ消えたのか。

どう死んだのか。


それは知った。


けれど――父が生きていた時、自分の知らない場所で何をしていたのか。


夕陽は知らない。


「六郎」


「はい」


「俺も、その源塾に連れてけ」


六郎が目を瞬く。


「……源塾へ?」


「ああ」


「何をしに?」


「親父のことを聞きに行く」


夕陽は木刀を握った。


「俺の知らない親父を知ってる奴がいるんだろ?」


「…………」


「だったら、会ってみたい」


六郎はしばらく夕陽を見つめた。


やがて、小さく息を吐く。


「……分かりました」


「よし」


夕陽は即座に立ち上がった。


「じゃあ行くぞ。今すぐ!!」


「え? 今すぐと言われましても……」


六郎が困惑したように窓の外を見る。


夕陽もつられてそちらを見た。


外は、もう真っ暗だった。


「…………」


「…………」


「……暗いな」


「ええ。とっくに夜です」


「そうだな。今日はもう遅い」


夕陽はあっさり座り直した。


「六郎、お前泊まるとこは?」


「いえ。今日は野宿かと」


「野宿?」


「ええ。慣れていますので」


「泊まってけ」


「……え?」


「部屋なら余ってる」


「しかし――」


「夕飯は?」


「まだですが……」


「よし、食え」


「…………」


「風呂は?」


「いえ、それもまだ……」


「じゃあ沸かす」


「あの、夕陽さん」


「寝巻き持ってる?」


「……ありません」


「親父のが残ってたかな。いや、俺のでいいか」


「いえ、そこまでしていただかなくても」


「自分用の枕とかある?」


「枕?」


「自分のじゃないと寝られないとかあるだろ」


「野宿する人間が枕にこだわると思いますか?」


「あ、そっか」


「…………」


「じゃあ客用のでいいな」


「話を聞いてください」


夕陽は聞いていなかった。


「布団出して……飯食って……風呂入って……よし」


一人で納得すると、夕陽は立ち上がる。


「これで寝れるな」


「…………」


六郎は、その背中を見つめた。


出会って、まだほんの数時間。


自分が何者なのかも、ほとんど知らないはずなのに。


飯を食わせる。


風呂を沸かす。


寝る場所を用意する。


そんなことを、特別なこととも思わずに。


「……似ていますね」


「ん?」


「いえ。何でもありません」


六郎の脳裏に、一人の男の姿が浮かんでいた。


乃木賢太。


剣の腕でもない。


怪異へ立ち向かう姿でもない。


こういうところだった。


六郎の肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。


「……ありがとうございます。お言葉に甘えます」


「おう。じゃ、飯にするか」


その何気ない言葉に。


六郎は、少しだけほっとするのであった。


第三話 了

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