見送るしかなかったその背中
「……グーダスさん」
声をかけた瞬間、自分の声がこんなにも小さいことに気づいた。
廊下の喧騒の中でその声がちゃんと届いたのか、チョキーナ自身にはわからなかった。
けれど、グーダスの足が止まった。
ゆっくりと、振り返る。
その顔を見た瞬間、チョキーナは息を呑んだ。
表情がなかった。
あの夜、薄暗い部屋の中で向かい合ったときの、あの緊張と照れが混じったような顔ではなかった。
ただ、平坦で、どこか遠い。
まるで、見知らぬ相手を見るような目だった。
「……なんか用?」
短く、それだけ言った。
チョキーナの胸の奥で、何かが小さく砕ける音がした。
なんか用、という言葉の軽さが、かえって重く胸に落ちる。
用がなければ声をかけてはいけないのか。
用がなければ、話しかけることも許されないのか。
「あ……えっと……」
言葉が、うまく出てこない。
準備していたはずの言葉が、その一言で全部霧散してしまったようだった。
グーダスはチョキーナの返答を待つでもなく、わずかに視線を逸らす。
早く終わらせたい、そういう空気がにじんでいた。
「……用がないなら」
「待ってください」
気づいたときには、声が出ていた。
グーダスの足が、また止まる。
チョキーナは一歩踏み出す。
膝が、わずかに震えていた。
「……どうして、避けるんですか」
絞り出した言葉は、思っていたよりも真っ直ぐに出た。
グーダスは答えない。
ただ、チョキーナの方を向いたまま、わずかに目を細める。
その沈黙が、怖かった。
怒鳴られるよりも、責められるよりも、この沈黙の方が、ずっと怖かった。
「……最近、ずっと……避けられてる気がして……」
声が、途中で細くなる。
「気のせいなら、そう言ってほしくて……それで……」
言葉が続かない。
グーダスはしばらくチョキーナを見ていたが、やがて短く息を吐いた。
「避けるも何も」
低く、静かな声だった。
「おまえと話すことなんかないよ」
その言葉は、叫ばれたわけでも、怒鳴られたわけでもなかった。
ただ、事実を告げるように、静かに落とされた。
だからこそ――深く、刺さった。
「……っ」
息が詰まる。
話すことなんかない。
その一言が、胸の奥で何度も繰り返される。
「……どうして……」
声が震える。
涙が出そうになるのを、必死に堪える。
「どうして、そんなこと……私たち、あの夜……」
言いかけて、止まった。
私たち。
その言葉を口にした瞬間、グーダスの表情がわずかに動いた。
感情のなかった顔に、何かがよぎる。
怒りとも、悲しみとも、つかない何かが。
「私たち……?」
グーダスが、静かに繰り返す。
その言い方が、チョキーナには読めなかった。
「……はい……あの夜、一緒に……じゃんけんを……」
「ああ」
グーダスが短く遮る。
「覚えてるよ」
その言葉には温度がなかった。
覚えている、という事実だけが、ぽつりと置かれる。
チョキーナは続けようとする。
あの夜は特別だったと、大切だったと、だから距離が縮まったと思っていたと。
そう言いたかった。
でも――
「おまえ」
グーダスの声が、静かに被さる。
視線が、真っ直ぐにチョキーナへ向く。
「……俺には、あんな顔、見せなかったじゃん」
その瞬間、チョキーナの思考が止まった。
あんな顔。
その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
いや――理解したくなかったのかもしれない。
「……え……」
声が、かすれる。
あんな顔、とは、どの顔のことだろう。
考えなくてもわかった。
考えたくなくても、わかってしまった。
資料室。
パーダロ。
終わらなかったあいこ。
そして――最後に、自分が見せたあの表情。
「……っ……」
全身の血が、一気に引いていくような感覚がした。
見られていた。
あの場所に、グーダスがいた。
全部、見ていた。
「……そんな……」
足元が、揺れる。
膝に力が入らなくなり、その場に崩れ落ちそうになる。
「……見て……たんですか……」
声は糸のように細く、途中でほとんど消えた。
グーダスは答えない。
その沈黙が、答えだった。
チョキーナの視界が、にじむ。
涙をこらえようとしても、もうこらえきれなかった。
見られていた。
グーダスに、全部。
あの声も、あの表情も、あの言葉も。
パーダロに向けたすべてを、グーダスは見ていた。
「……ごめん、なさい……」
言葉が、こぼれる。
謝りたかったわけではなかった。
説明したかった。
違うと言いたかった。
あれは流されただけで、グーダスのことが大切で、パーダロとのことは一度きりで――
でも、何も言えなかった。
グーダスはチョキーナをもう一度だけ見て、それからゆっくりと視線を外した。
「……もういいよ」
それだけ言って、背を向ける。
その背中が、廊下の人波に溶けていく。
チョキーナはその場に立ち尽くしたまま、動くことができなかった。
『俺には、あんな顔、見せなかったじゃん。』
その言葉だけが、頭の中で静かに、繰り返され続けていた。
それは責めているようで、責めていなかった。
怒っているようで、怒りだけではなかった。
その言葉の奥に、チョキーナはグーダスの傷を見た。
悔しさと、悲しさと、どうにもならない思いが混ざり合った、あの一言。
(……ごめんなさい……)
声にならないまま、その言葉だけが胸の中に残った。
人波は流れ続け、グーダスの背中はもう見えない。
チョキーナはただ、その場で、静かに崩れていった。




