変わってしまった距離
あの日から、何かが変わった。
チョキーナ自身は、最初そう思っていなかった。
パーダロとのことは一度きりだった。
知らない世界を知った、それだけのことだ。
そう、何度も自分に言い聞かせていた。
けれど、日々の中に小さなほころびが生まれ始めていた。
講義棟の入り口で目が合いかけた朝、図書館で同じ列に入ろうとしたとき、食堂でたまたま近くに座ろうとしたとき――そのたびに、グーダスはいなくなる。
さりげなく、自然に、まるで最初からそこにいなかったかのように。
(……どうして……)
声には出さず、ただ唇だけが動いた。
思い返すのは、あの日のことだった。
薄暗い部屋、差し出した手、緊張で汗ばんでいた指先。
そしてグーダスの手――節が目立ち、ごつごつとして、力強い、あの手。
見ているだけで、胸が高鳴った。
「……綺麗な手だな」
不意にそう言われたとき、心臓が跳ね上がった。
恥ずかしかった。
でも、確かに嬉しかった。
勝負が終わったあと、チョキーナは迷わずそう言えた。
「……あなたと、じゃんけんができて……よかったです」
嘘ではなかった。
グーダスと向かい合ったあの時間は、チョキーナにとって特別なものだった。
初めてで、緊張していて、負けてしまって。
それでも終わったあとには確かな温かさがあって、胸の奥がそっと裂けるような痛みも、その後に広がった静かな余韻も、全部グーダスとのものだった。
パーダロとのことは――違う、とチョキーナは思う。
あれは流されてしまっただけだ。
知らない世界を見せると言われて、断り切れなくて、気づいたら深みにはまっていた。
終わったあとも何度もそう言い聞かせた。
一度きり、あれは特別なことじゃない、ただ知らなかっただけだ、と。
でも――
(……グーダスさんは……)
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
もしかして、知っているのだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、指先がわずかに震えた。
知っているはずがない。
あの資料室に、グーダスがいたはずはない。
それでも問いだけが静かに積み重なって、廊下の角に消えていく背中を見つめながら、チョキーナはただそこに立ち尽くしていた。
それからも、日々は続いた。
避けられているという感覚は、日を追うごとに確かさを増していった。
偶然ではない、そう確信できるほどに、はっきりと繰り返された。
ある日の放課後、チョキーナは図書館の返却棚の前で見覚えのある後ろ姿を見つけた。
背が高く、肩幅のある、見間違えようのない体格。
棚に向かってページをめくるその横顔は、こちらに気づいていないようだった。
(……今なら……)
胸が、わずかに速くなる。
声をかけてしまえばいい。
ただ名前を呼べばいい。
それだけのことのはずなのに、足が動かなかった。
そのとき、グーダスがふと顔を上げた。
視線がこちらへ向く。
目が、合いかける。
けれど次の瞬間、グーダスの視線はすっと逸れた。
棚から一冊を抜き取り、そのまま静かに別の列へと消えていく。
意図的だったのか、偶然だったのか。
その区別すら、もうチョキーナにはつかなかった。
返却する本を胸に抱いたまま、しばらくその場を動くことができなかった。
(……やっぱり……)
避けられている。
それはもう疑いようのない事実として、静かにしかし確実に形を持ち始めていた。
夜、自室に戻ってからも、その感覚は消えなかった。
布団の中で天井を見上げながら、チョキーナはあの夜のことを思い返していた。
あのじゃんけんの夜から、何が変わったのだろう。
グーダスとの距離は、あの夜を境に縮まったと思っていた。
ぎこちなくて、恥ずかしくて、緊張しながら手を向け合って、それでも終わったあとの空気はどこか柔らかかった。
「ああ、俺もだ」
静かにそう答えてくれたグーダスの声を、チョキーナはまだ覚えている。
あれは本物だったはずだ。
なのに、どこで変わってしまったのだろう。
パーダロとのことが、頭をよぎる。
一度きりだった。
グーダスには関係のないことだった。
誰にも知られていないはずだった。
それでも思考は止められず、考えたくない方向へとゆっくり滑っていく。
もし、知られていたとしたら――その可能性を、チョキーナは強く打ち消した。
知られているはずがない。
あの資料室に、グーダスがいるはずはなかった。
だからきっと別の理由がある。
自分が気づいていないだけで、何か別のことがグーダスを遠ざけているのだ。
そう思うことにした。
そう思わなければ、胸の奥に沈んでいく重さに耐えられなかった。
それから数日が経った。
このままではいけない、という気持ちは日を追うごとに大きくなっていった。
避けられ続けるたびに胸の奥の重さは増していく。
声をかけたい、理由を知りたい、もう一度あの距離に戻りたい。
その気持ちだけは、何があっても揺るがなかった。
パーダロのことがあっても、何が変わっていても、グーダスのことが大切だという気持ちだけは。
ある朝、チョキーナは決めた。
今日こそ、声をかける。
理由を聞く。
たとえその答えが怖くても、たとえ胸が壊れそうになっても、このまま遠ざかっていくのをただ見ていることだけは――できなかった。
講義が終わり、人の波が廊下へと流れ出す。
その中に、グーダスの姿を見つけた。
声が震えないように。
足が止まらないように。
「……グーダスさん」
チョキーナは、一歩を踏み出した。




