誰とでもする子
あれから、チョキーナの日常は表面だけが元通りになった。
朝になれば講義へ向かい、昼になれば食堂へ行き、夜になれば部屋へ戻る。
誰が見ても、普通の毎日に見えるはずだった。
でも、胸の奥だけは、あの日から何も動いていなかった。
「もういいよ」
グーダスの声が、ふとした拍子によみがえる。
抑揚のない、静かな声。
怒鳴られた方がまだよかった、とチョキーナは何度も思った。
あの温度のなさが、かえって深く、じわじわと傷口を広げ続けていた。
説明したかった。
違うと言いたかった。
パーダロに流されただけで、グーダスのことが大切で、一度きりのつもりで――
でも、何も言えなかった。
言葉を探しているうちに、グーダスの背中は人波に消えていた。
(……ごめんなさい……)
声にならないまま、その言葉だけが胸の中で繰り返される。
そんなある日のこと。
食堂の入り口で、チョキーナは思わず足を止めた。
グーダスがいた。
それだけなら、もう慣れていた。
遠くから見かけるたびに胸が痛むことも、視線が勝手に吸い寄せられることも。
でも――今日は違った。
その隣に、見慣れない人影があった。
目を引く明るさだった。
茶色というより金に近い、派手に染めた髪。
目元には濃いアイラインが引かれ、唇には艶のある色が乗っている。
丈の短いトップスからへそが覗き、細い腰のラインがそのまま見えていた。
歩き方からして違う。
軽やかで、屈託がなくて、周囲の視線を気にする素振りが一切ない。
グーダスの隣でよく笑い、よく話しかけ、距離が近い。
(……あの子……)
見覚えはあった。
確か、一学年下の子だ。
名前まではわからない。
ただ――噂なら、耳に入ってきたことがあった。
誰とでもじゃんけんをする子、と。
噂の真相はわからない。
けれど、あの子の姿も言動も、その噂を肯定する方向にしか働かないのは事実だった。
そんな噂のある子が、なぜグーダスの隣にいるのだろう。
(……どうして……)
胸の奥に、冷たいものが広がる。
グーダスはその子と話しながら、わずかに口元を緩めていた。
チョキーナには最後まで向けてくれなかった、そんな顔で。
(……笑ってる……)
その笑顔が、じわりと胸に刺さる。
「もういいよ」と言い捨てた人が、あんなふうに笑えるのだと、初めて知った。
チョキーナはその場から動けないまま、二人の後ろ姿が食堂の奥に消えるまで、ただ見つめていた。
同じ頃、グーダスは自分自身に苛立っていた。
許したい、と思う。
あのことを、チョキーナのことを、全部水に流して、もう一度普通に笑い合いたい。
そう思う自分が確かにいる。
でも――
(……できるか……)
奥歯を噛みしめる。
あの光景が、何度消そうとしても消えない。
資料室の扉の隙間から見た、あの場面。
チョキーナの声、チョキーナの表情、チョキーナがパーダロに向けていた、あの顔。
俺には見せなかった顔を、あいつには見せていた。
その事実だけが、胸の奥にこびりついて離れない。
(……男らしくないな……)
自嘲が浮かぶ。
いつまでも引きずって、避け続けて。
チョキーナに声をかけられたとき、突き放すことしかできなかった。
本当は言いたいことが山ほどあったのに。
許したい。
でも許せない。
ふっきりたい。
でも、忘れられない。
いっそ嫌がらせのひとつでもしてやりたい。
でも、そんなことをしている自分はもっと情けない。
(……どうしようもない……)
答えの出ない問いを抱えたまま、グーダスはゼミ室の窓の外を眺めていた。
ゼミが終わり、ほかの学生が引いていく。
静まり返ったゼミ室に、窓の外からわずかな風の音だけが届いている。
「せーんぱい」
不意に、声をかけられた。
振り返ると、金に近い茶髪をした女子が、ゼミ室の入り口に立っていた。
同じゼミの、一学年下。
アッチム、という名前だったか。
忘れ物でもしたのか、と思った。
それなのに、アッチムはそのままグーダスの隣の席に鞄を置いた。
今日も派手だな、とグーダスは思った。
濃いめのメイク、へそが見えるトップス。
こんな静かなゼミ室にいると、その華やかさがかえって際立って見えた。
「最近、元気ないっすね」
屈託のない、真っ直ぐな声だった。
遠慮もなく、かといって馴れ馴れしすぎるわけでもない。
ただ、見たままを言葉にしたような、そんな口調。
「……そうか?」
グーダスは短く返す。
「そうっすよ」
アッチムは少し首を傾けながら、グーダスの顔をまじまじと見る。
その目には、妙に真っ直ぐなものがあった。
「なんかあったんですか?」
「別に」
「嘘っすね」
即座に返ってきた言葉に、グーダスは思わず苦笑する。
「……勘がいいな」
「顔に出てますよ、先輩」
アッチムはそう言って、隣の席に腰を下ろした。
距離感が、妙に自然だった。
話しやすい、とグーダスは思った。
チョキーナとのことで頭が重くなってから、誰かとこんなふうに話したのは久しぶりな気がした。
「……ちょっと、色々あってな」
「色々、ですか」
「ああ」
短く答えながら、グーダスは視線を窓の外へ戻す。
言うつもりはなかった。
それなのに、言葉が自然と続いていた。
「……好きだった子が、いてな」
アッチムは何も言わず、ただ続きを待っている。
「俺以外の奴と……じゃんけんをしてた」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がまた重くなる。
アッチムはしばらく黙っていた。
それから、静かに口を開く。
「……それって、先輩が知らないところで、ですか?」
「ああ」
「……そっか」
短い相槌だった。
でも、その声には妙な温度があった。
グーダスはそれに気づかないまま、続ける。
「まあ、お前みたいにじゃんけん慣れてる子には、よくある話だよな」
その言葉を言い終えた瞬間――
アッチムが、黙った。
不自然なほど、急に。
グーダスが視線を向けると、アッチムは俯いていた。
肩が、わずかに震えている。
「……おい、どうした」
返事がない。
「アッチム?」
細い肩が、小刻みに揺れる。
そしてアッチムは、俯いたまま、かすれた声で言った。
「……先輩」
「なんだ」
「じゃんけんって……そんなに、軽いもんじゃないと思うんですけど……」
その言葉の意味を、グーダスはすぐには理解できなかった。




