一途な涙、はがれるつけま
しばらく、グーダスは何も言えなかった。
「じゃんけんって、軽いもんじゃない」
そんな言葉がアッチムから出てくるなんて、想像もつかなかった。
言葉の意味を、どう受け取ればいいのかわからない。
グーダスを慰めようとして言ったのだろうか。
それとも――
「……アッチム」
返事がない。
アッチムは俯いたまま、その肩が小刻みに震え続けている。
やがてその震えは大きくなり、細い背中全体へと広がっていった。
グーダスは内心で焦った。
アッチムが何を思い、どんな顔をしているか。
この時グーダスには、まるで見当がついていなかった。
「……なあ、どうした」
できる限り優しい声で話しかけた。
アッチムはやっぱり顔を上げない。
俯いたまま、肩を震わせ続けている。
やがて、鼻をすする音が聞こえてきた。
アッチムの足元に、小さな雫がぽたぽたと水玉のシミを描いた。
「……泣いてるのか」
問いかけというより、確認だった。
アッチムは答えない。
でも、その沈黙が答えだった。
グーダスはどうすればいいかわからないまま、ただ隣に座っていた。
しばらくして、アッチムがゆっくりと顔を上げた。
その顔を見た瞬間、グーダスは思わず言葉を失った。
濃いアイラインが目尻へと流れ、頬に黒い筋を作っている。
つけまつげの端がわずかに剥がれかけ、ぱたぱたと頼りなく揺れていた。
さっきまでの華やかさが、跡形もなく崩れていた。
その顔は、どこか幼くて、ただの女の子だった。
「……先輩って」
アッチムは涙をぬぐおうともせず、掠れた声で言う。
「……ほんと、不器用っすよね」
「……俺が、何かしたか?」
「したっすよ」
アッチムは小さく笑った。
泣きながら笑うその顔が、ひどく痛々しかった。
「傷ついてるくせに、誰にも言えなくて、ひとりで抱えて。そういうとこ、ほんと……」
言葉が途中で途切れる。
また、涙が溢れた。
「かわいそうで……見てられないっす」
その一言を聞いた瞬間、グーダスの胸の奥に、じわりと熱いものが広がった。
かわいそう、という言葉が、素直に胸に届いた。
チョキーナとのことを話したとき、同情されることを恐れていた。
でもアッチムの口から出たその言葉は、ただの同情ではなかった。
もっと深い意味がこめられていた。
「……それだけじゃないっすけど」
アッチムは続ける。
「先輩、まだその子のこと……好きなんですよね」
「……」
グーダスは答えなかった。
いや、答えられなかった。
「顔に出てましたよ、さっき話してるとき。先輩、すごい辛そうで……」
アッチムは視線を膝に落とす。
「これじゃ……うちが入り込む隙間、ないじゃないっすか……」
その言葉は消え入りそうなほど小さかったが、しかしとても重かった。
グーダスは何も言えない。
否定することも、肯定することも、どちらもできなかった。
「……それで」
アッチムは小さく息を吸う。
「先輩にじゃんけん慣れてるとか思われてたのも……なんか、全部重なって」
言葉が、また途切れる。
「ごめんなさい、うまく説明できないっす。なんで泣いてるのか、うちにもよくわからなくて」
その言葉が、グーダスには妙にリアルに聞こえた。
理由がひとつじゃないから、うまく言葉にできない。
それはグーダス自身も、ずっとそうだった。
「……おい、それ」
グーダスが視線を向けると、アッチムは自分の目元に触れて、小さく「あ」と声を漏らした。
「……やば、つけま取れかけてる」
「いや、完全に取れてるな」
「見ないでくださいよ!」
アッチムが両手で顔を覆う。
その仕草が、さっきまでとは打って変わって、ひどく子供っぽかった。
グーダスは思わず、小さく笑っていた。
「……笑わないでください」
「笑ってないよ」
「笑ってるじゃないっすか!」
「……悪かった」
短い沈黙が落ちる。
アッチムは両手で顔を覆ったまま、しばらく動かなかった。
やがてゆっくりと手を下ろし、諦めたように息を吐く。
「……先輩」
「なんだ」
「うち、じゃんけんしたことないっす。誰とも」
その言葉が、静かなゼミ室に落ちる。
以前であれば、笑いながら流したかもしれない。
しかし、今ならその言葉を素直に信じることができた。
「じゃんけんは、好きな人とじゃないとしたくなくて。だからずっと、誰ともしてこなかったんっす」
その言葉の意味が、ゆっくりとグーダスの中に染み込んでいく。
誰とでもじゃんけんする子、という噂。
それが、まったくの真逆だったということ。
先ほどの不用意な言葉が、アッチムをひどく傷つけてしまった。
グーダスは、それを理解した。
「……そうだったのか」
「そうっすよ」
アッチムはようやく顔を上げる。
目元はまだ赤く、つけまは完全に取れてしまったが、その目だけは真っ直ぐだった。
「だから、じゃんけん慣れてるとか言わないでほしかったです」
「マジで……悪かった」
グーダスは、心からそう思った。
沈黙が落ちる。
ゼミ室の窓から、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
やがてアッチムは、小さく息を整えてから、もう一度口を開いた。
「先輩……あ、あの……」
普段のアッチムからは想像もつかないくらい緊張した声だった。
「うち……先輩となら……じゃんけんしてもいいっす」
「……そうか」
グーダスはそれしか言えなかった。
なんと答えるのが正解なのかわからない。
そんなグーダスを見透かすように、アッチムは続けた。
「あと……」
アッチムの声が、わずかに震える。
「うち、先輩となら……あ……あの」
そこで言葉が詰まった。
なかなかその先が出てこない。
アッチムは一度視線を床に落として俯いた。
しかし、自分を奮い立たせるように顔を上げると、意を決して言った。
「先輩となら、あっち向いてホイだって、できますから!」
その言葉を聞いた瞬間、グーダスの胸の奥に、熱が広がった。
チョキーナとのことで凍りついていた何かが解け始めるのに、十分な熱だった。
一方そのころ遠崎は、この作品のおとしどころが見つからず、途方にくれていた。




