先輩だから、それが全てです
グーダスの部屋は、いつもより静かに感じた。
外から聞こえる風の音も、廊下を行き交う足音も、今夜はどこか遠く、別の世界のことのように思える。
部屋の中には、二人分の息遣いだけが、静かに満ちていた。
アッチムは部屋の入り口近くに立ったまま、動けずにいた。
普段の彼女なら、こんなふうに固まることはない。
誰とでも気さくに話し、笑い、距離を詰めることをためらわない。
それがアッチムという人間だった。
でも今夜は違った。
「……入れよ」
グーダスが促すと、アッチムはためらいがちにその一歩踏み出した。
その足取りは、いつもの軽やかさとはほど遠い。
まるで、踏み出すたびに何かを確認しているような、慎重な歩みだった。
部屋の中央まで来たところで、アッチムは立ち止まった。
視線が、落ち着かない。グーダスを見ては逸らし、部屋の隅に向いては戻る。
指先が、スカートの裾をわずかに握っている。
「……緊張してるのか」
「してないっすよ」
即座に返ってきたが、声が上擦っていた。
「してるだろ」
「……ちょっとだけ、っす」
アッチムは観念したように、小さく認めた。
その仕草が、普段とあまりにも違いすぎて、グーダスは思わず視線を外した。
アッチムを直視していると、妙に胸が騒ぐ自分に気づいたからだ。
「……あの」
アッチムが、おずおずと口を開く。
「電気、消してもらえますか」
「……暗くするのか」
「恥ずいっす……明るいの、無理です」
その言葉を聞いた瞬間、グーダスの脳裏に、あの夜のことが浮かんだ。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋。
チョキーナと向かい合って、互いの輪郭だけがかろうじて見えていた、あの空間。
あのときは自分も、同じように薄暗い部屋を当然のこととして受け入れていた。
でも今――
「……見たいんだ」
気づいたときには、言葉が出ていた。
「お前のすべてを」
アッチムの肩が、ピクッと跳ねた。
「……え」
「暗くしなくていい」
グーダスは静かに言う。
「隠さなくていい」
しばらく、沈黙が落ちた。
アッチムは何も言えないまま、グーダスを見つめている。
その目が、じわりと潤んでいくのがわかった。
「……せ、先輩」
「なんだ」
「それ……ずるいです」
かすれた声だった。
涙をこらえているのか、声の端がわずかに震えている。
グーダスは答えない。ただ、アッチムを見ていた。
普段は濃いメイクに彩られたその顔が、今夜は薄い。
つけまもない。アイラインも控えめだ。
それでも――いや、だからこそ、その顔は綺麗だった。
「……本当に、いいのか」
グーダスは問う。
「じゃんけん、初めてなんだろ。俺でいいのか」
アッチムは少しだけ俯いて、それからゆっくりと顔を上げた。
「先輩だから、いいんです」
その言葉は、飾り気がなかった。
ギャルらしい軽さも、いつもの砕けた口調も、どこにもなかった。
ただ、真っ直ぐな一言だった。
グーダスは、それ以上何も言えなかった。
向かい合うと、改めて距離の近さを意識した。
アッチムの呼吸が、わずかに乱れている。
グーダスは自分の手をゆっくりと持ち上げた。
節が目立ち、ごつごつとした、力強い手。
指を内側へと折り込んでいくと、拳はぎゅっと固く握り締められ、構えたその拳が上を向いて反り返った。
グーダスの鼓動にあわせて拳がピクピクと脈打つ。
じゃんけんのグーとして構えられたそれは、内側から張るように硬く、確かな熱を宿していた。
「最初はグーだ」
その言葉が落ちた瞬間、アッチムの息が小さく詰まった。
「さ……最初は、グー」
繰り返すように、確かめるようにそう言って、アッチムはゆっくりと手を持ち上げる。
細く、しなやかな指が、ゆっくりと内側へと折れ曲がっていく。
グーを作るその動きは、ぎこちなくて、どこかたどたどしかった。
初めての形を、初めての意味で作っているような、そんな慎重さがあった。
そしてグーダスは気づいた。
アッチムの手のひらが、しっとりと湿り気を帯びている。
光を柔らかく受け止めるその手のひらは、緊張からにじみ出た汗で、光沢を帯びていた。
細い指の間にまでじんわりと滲んだそれは、アッチムの内側で起きていることをそのまま映し出していた。
「……こう、っすか」
「ああ」
「合わせるぞ」
「……はい」
二つのグーが、ゆっくりと近づいていく。
触れた瞬間、アッチムの肩が大きく震えた。
ただグーを合わせただけ。
それだけのはずなのに、その接触はやけに強く意識に残る。
アッチムの手のひらの温もりが、グーダスの拳へと伝わってくる。
湿り気を帯びたその手のひらは、触れた瞬間から熱を持ち、二つの拳が重なる場所だけが、じわりと温かくなっていく。
「……あっ」
アッチムの口から小さな吐息が漏れる。
「……離すぞ」
「……はい」
二つのグーが、ゆっくりと離れる。
その接触の余韻が、まだ手の中に残っている。
アッチムは自分の手を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「どうだ?」
「……なんか」
アッチムは言葉を探すように、少し間を置いた。
「実感、ないっす。でも」
視線を上げて、グーダスを見る。
「……ちゃんと、ここにいるって感じがする」
その言葉の意味を、グーダスはうまく言語化できなかった。
でも、胸の奥に届いたことだけは、はっきりとわかった。
「じゃんけん、いくぞ」
グーダスの声に、アッチムは小さく頷く。
「……はい」
「最初はグー」
「じゃんけん」
「ぽん」
二つの手が、同時に差し出される。
グーダスの手も、アッチムの手も、グー。
あいこだった。
「……あいこ、っすね」
アッチムの声に、わずかな安堵が混じっていた。
緊張が少しほどけたような、そんな表情だった。
「あいこで」
「しょ」
二つの手が、再び差し出される。
グーダスの手は、グー。
そして、アッチムの手は――チョキ。
「……あ」
一瞬の静寂。
アッチムは自分の手を見つめたまま、固まっていた。
グーがチョキに勝つ。
それだけのことが、現実として結びつくまでに、少し時間がかかった。
「負けたちゃった……」
その声は、小さかった。
グーダスは、アッチムの表情を見た。
眉を寄せ、唇をきゅっと結んでいる。
目の端が、じわりと赤くなっていく。
「……痛いか」
アッチムは少し驚いたように目を上げた。
「……なんで、わかるんっすか」
「顔に出てる」
「……っ」
アッチムは視線を落とす。
しばらく、何も言えないまま、自分の手を見つめていた。
「……痛い、です」
ようやく、小さな声で言った。
「胸の奥が、ちょっと……」
言葉が途切れる。
グーダスはわずかに身を引いた。
「……やめるか」
「やめないでほしいっす」
即座だった。
グーダスが止めようとしているのに、アッチムは首を小さく振った。
「大丈夫だから……続けてください」
「でも」
「お願いします」
痛いと言いながら、それでも続けてほしいと言う。
グーダスには、その意味がわかった。
痛みよりも、この時間の方が大切なのだと。
先輩とのじゃんけんを、ここで終わらせたくないのだと。
「……わかった」
グーダスは短く答えた。
アッチムは小さく頷いて、もう一度手を構えた。
その手のひらは、さっきよりもさらにしっとりと湿り気を帯びていた。
光をやわらかく受け止めるその手が、わずかに震えながら、それでも確かに前へと差し出される。
じゃんけんは、続いた。
「先輩……痛い……でも……やめないでっす……」
勝ったり、負けたり、あいこになったり。
「あんっ……先輩……先輩……っ」
その繰り返しの中で、アッチムの頬の赤みは引かず、呼吸は少しずつ乱れていく。
「……先輩……うち……先輩のグーに、負けちゃう……っ」
やがて、最後の勝負と決めたじゃんけんの勝敗がついた。
アッチムが負けて勝負は終わった。
アッチムがゆっくりと顔を上げた。
その目は、赤くなっていた。涙が、浮かんでいる。
でも、口元は笑っていた。
「……嬉しいっす」
泣きながら、笑っていた。
「負けたのに、嬉しいって変ですよね」
「……変じゃない」
グーダスは静かに言う。
「先輩に負けたから、嬉しいんです」
アッチムは涙をぬぐおうともせず、真っ直ぐにグーダスを見た。
「先輩が最初で……よかった」
その言葉が、静かなグーダスの部屋に、柔らかく満ちていった。
グーダスはしばらく、何も言えなかった。
チョキーナのことが、脳裏をよぎった。
あの夜、チョキーナも笑っていた。
「幸せでした」と言っていた。
でも――
今アッチムが見せているこの顔は、あの夜のチョキーナとは違う何かを持っていた。
うまく言葉にはできない。でも、確かに違う。
「……本当に俺でよかったのか」
思わず、そう聞いていた。
アッチムは少し間を置いてから、また笑った。
「先輩だからっす。それが全てです」
その言葉が、グーダスの胸の奥に、静かに、しかし確かな熱として届いた。
凍りついていたものが、その熱に触れ、ゆっくりと溶け出していく。
まだチョキーナのことを、完全に忘れたわけではない。
傷が癒えたわけでもない。
それでも――
溶け出したそれは、過去を少しずつ洗い流していくようだった。




