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もう戻れない――奪われた、あの時間 。 ~あいつは、俺の前ではあんな顔をしなかった~  作者: 遠崎カヲル


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先輩にされたい

じゃんけんが終わり、しばらくの沈黙が落ちた。


アッチムはまだ呼吸を整えきれていない。

泣き笑いの余韻が、その顔にまだ残っている。


「……あっち向いてホイ、やるか」


グーダスが静かに言った。


その瞬間、アッチムの顔がみるみる赤くなった。

視線が床に落ち、指先がスカートの裾をぎゅっと握る。


「……っ」


返事すら出てこない。

ただ、小さく、こくりと頷いた。


その仕草が、グーダスの胸の奥をじわりと熱くした。


じゃんけんのときでさえあれほど緊張していた。

その先の行為となると、もう顔も上げられないほど恥ずかしいのだ。

それが仕草だけで伝わってきた。


「じゃんけん」


「……ぽん」


グーダスはグー、アッチムはチョキ。


「……あっ」


アッチムから小さな声が漏れた。

負けた瞬間の、あの感覚。胸の奥がきゅっと締まるような、でも甘さを帯びた痛み。

それが声となって漏れ出たのだ。


アッチムは自分の口を押さえる。

でも、もう遅かった。


「あっち向いてホイ」


グーダスの指が、ゆっくりと右を示す。


「……っ!」


アッチムの顔が、反射的に左へと向く。


しばらく、そのまま動かない。

向いた先の壁を見つめながら、アッチムは小さく息を吐いた。


「……回避、っす」


「そうか」


グーダスは静かに答えながら、アッチムの横顔を見ていた。


耳が赤い。それどころか、首筋まで赤い。

回避できたのに、その表情はどこか物足りなそうだった。


「……もう一回、いいっすか」


アッチムが、まだ顔を向けたまま言う。


「ああ」


「じゃんけん」


「ぽん」


グーダスはグー、アッチムはチョキ。

二人の手の形は先程と同じ。


「……んっ」


今度は少し違う声が漏れた。

アッチムは慌てて口を押さえるが、指の隙間から息が漏れる。


「……声、出ちゃいました」


「……ああ」


グーダスはそれだけ答えた。

平静を装ってはいたが、グーダスの胸奥では、抑えきれぬ鼓動が、強く打ちつづけていた。


「あっち向いてホイ」


今度は左を示す。


「……っ」


アッチムの顔が、右へと向く。


回避だった。


でも、その呼吸は明らかに乱れていた。

回避できた安堵と、なぜか込み上げてくる物足りなさが、アッチムの表情に混ざり合っている。


「……先輩」


「なんだ」


「……もう一回、お願いします」


その声は、懇願だった。

回避しておきながら、なおも繰り返される願い。

その矛盾が、グーダスの胸奥を激しくざわつかせた。


「じゃんけん」


「ぽん」


グーダスはグー。

アッチムはチョキ。


三回目だった。


「……はぁ……っ、また……」


アッチムの吐息が、今度は隠しきれない。

敗れるたび、胸奥にやわらかな熱が積もっていく。

それが膨れ上がるのを、アッチム自身にも、もはや抑えきれなかった。


しっとりと湿り気を帯びたアッチムの手のひらが、光をやわらかく受け止めながら、わずかに震えている。

指先から掌にかけて、じんわりと熱を帯びたその手は、内側からにじみ出るものを隠しきれなくなっていた。


「あっち向いてホイ」


グーダスの指が、今度は上を示す。


「……っ、あんっ」


アッチムの顔が、下へと向く。


回避。


だが、その呼吸は、もはや整っていない。

浅く、細かく、乱れたまま。

俯いた顔から、熱が首筋へと滲み広がっていくのが、はっきりと見えた。


グーダスはここで気づいた。


一度目も、二度目も、三度目も。

アッチムは頑なに、チョキを出し続けていた。


「……おい」


「……なんっすか」


まだ息が整っていない。


「お前、わざと負けてないか」


アッチムの動きが、ぴたりと止まる。

わずかに、視線が逸れた。


「……っ、そんなこと」


「三回ともチョキだろ」


「……」


否定しようとして、でも言葉が出てこない。

やがてアッチムは、観念したように小さく俯いた。


「……だって」


かすれた声が、ゆっくりと続く。


「先輩に……いっぱいホイされたくて……」


その言葉が落ちた瞬間、グーダスの思考が止まった。


「でも……いざホイされると……回避しちゃうんです……」


アッチムは小さく笑いながら、続ける。


「自分でも、よくわからないっす……されたいのに……回避しちゃう……」


俯いたまま、指先がスカートの裾をぎゅっと握る。


「……先輩に顔の向きを決められたら……もう、どうにかなっちゃいそうで……」


その言葉の意味を、グーダスは確かに受け取った。


されたい。

でも怖い。

怖いけど、されたい。


その矛盾が、アッチムをこんなにも追い詰めている。


「……そうか」


グーダスは静かに言った。


しばらくの沈黙。

やがてグーダスは、視線を逸らしながら、小さく口を開いた。


「……お、俺だって」


声が、情けないくらいに上擦っていた。


「お前から……ホイされたいよ」


アッチムが、ゆっくりと顔を上げる。


「……先輩」


「うるさい」


「先輩っ」


「うるさいって言ってるだろ」


グーダスはまだ視線を戻せない。

窓の外の、どこでもない一点を見つめたまま、ただ耳だけが熱くなり続けていた。


アッチムはしばらく黙っていた。


やがて、小さな笑い声が聞こえてきた。


「……なんで笑うんだ」


「だって」


アッチムの声は、笑いながら、でも泣きそうだった。


「先輩が、かわいいから」


「……俺のどこがかわいいんだ」


「全部っす」


その一言で、グーダスはもう何も言えなかった。

窓の外を向いたまま、視線を戻す言い訳を探し続けていた。


ようやくグーダスは視線を戻す。


「……もう一回だ」


グーダスは静かに言った。


アッチムがゆっくりと顔を上げる。

まだ頬は赤く、呼吸も整っていない。


「……はい」


「じゃんけん」


「ぽん」


グーダスはグー。

アッチムはチョキ。


「……あっ、んっ……また……」


アッチムの吐息が、部屋の空気に溶けていく。

負けるたびに積み重なってきたものが、もう限界まで膨らんでいるのがわかった。


「あっち向いてホイ」


グーダスの指が、ゆっくりと左を示す。


アッチムの顔が、反射的に――


「……っ」


動いた。


左へ。


グーダスの指と、同じ方向へ。


一瞬の静寂。


アッチムは自分が向いた方向を理解するのに、少し時間がかかった。


「……あ……」


小さな声が漏れる。


回避、できなかった。


「……負けた……」


その声は、震えていた。


でも――


「……っ、は……あ……」


息が、うまく続かない。


胸の奥から、じわじわと広がっていくものが止まらない。

波のように押し寄せて、全身へと満ちていく。


「……なんで……負けたのに……」


アッチムは自分の手を見つめながら、かすれた声で続ける。


「こんなに……気持ちいいんっすか……」


その言葉が、静かな部屋に落ちる。


息も絶え絶えで、膝がわずかに震えている。

それでも、その顔には笑みが浮かんでいた。


「……先輩」


「なんだ」


「先輩がいいの。先輩じゃなきゃ、やだ」


飾り気のない、一言だった。

ただ、その言葉だけが、真っ直ぐに放たれた。


グーダスは、その言葉を受けた瞬間、ゆっくりと窓の外から視線を戻した。


アッチムと、正面から目が合う。


赤く潤んだ目が、真っ直ぐにグーダスを見ている。

泣きそうで、笑っていて、息も絶え絶えで。


それでも、その目だけは、まっすぐだった。


グーダスはしばらく、何も言えなかった。


チョキーナとのあの夜から、誰かと正面から向き合うことを、どこかで避け続けていた。


でも今――


「……俺も、お前がいい」


グーダスは静かに言った。


アッチムの目から、涙がひとつ、零れた。

笑いながら、泣いていた。


その顔が、グーダスの胸の奥に、静かに、しかし確かに刻まれていった。

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