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もう戻れない――奪われた、あの時間 。 ~あいつは、俺の前ではあんな顔をしなかった~  作者: 遠崎カヲル


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22/23

変わらない

「アッチム。おまえは――俺を、気持ちで裏切ったことはあるか」


グーダスが言い終わると同時だった。


「ないっす」


アッチムは、即座に答えていた。


「そんなの、あるわけないっす。うちの中には、ずっと先輩しかいなかった。それだけは、本当っす」


言葉と涙が、勝手にあふれてきた。

けれど、言ってしまってから、アッチムは怖くなる。

気持ちは、そうだ。


でも――


「でも、うち……っ、ほかの人と、じゃんけんを……」


言わなければ、と思った。

例え気持ちは裏切っていなくても、それでも、あの夜のことだけは隠したくなかった。

喉の奥から、言葉を絞り出そうとする。


「もういい!」


その先を、グーダスの声が遮った。


アッチムの肩が、びくりと跳ねる。

グーダスの強い口調に、やっぱり、許されないんだ、と思った。

全身から血の気が引いていく。


けれど――


「いいか、アッチム」


続くグーダスの声は、静かで落ち着いてた。


「たかが、じゃんけんだ」


――たかが、じゃんけん。


その一言で、心の奥がスッと軽くなった。


先輩を裏切った。

もう先輩の隣にはいられない。


そう思い込んで、一人で泣き続けてきた心が――


たった一言で、ぜんぶ、軽くなっていく。


「おまえの気持ちが離れてないなら、俺は変わらない。それだけだ」


グーダスは、まっすぐにアッチムを見ていた。


顔を上げられないままのアッチムの耳に、その言葉だけが、まっすぐ届いた。


ああ、この人は。


うちが必死に隠そうとしていたものを、この人は全部いらないと言ってくれた。

事実よりも、証拠よりも、噂よりも、聞きたかったのは、うちの気持ち。

そのためだけに、ここまで走ってきてくれた。


「……せんぱい」


声が、震えた。


「せんぱい、うち……うち……っ」


その先は、もう言葉にならなかった。

顔を上げると、ずっと見られないでいた先輩の顔が、すぐそこにあった。

困ったような、それでいて、確かに笑っている顔だった。


「せんぱーいっ!」


気づいたときには、飛び込んでいた。

考えるより先に体が動いて、グーダスの胸に、思いきり顔を埋める。

涙も、鼻水も、もうぐちゃぐちゃで、それでも止められなかった。

離したくなかった。離れたくなかった。


グーダスは、たたらを踏んで、わずかによろけた。


「……っと。おまえ、相変わらず加減がないな」


呆れたような声だった。

けれど、その手は、アッチムの背中にそっと回されていた。

大きくて、あたたかい手。その手のひらの感触だけで、ずっと張り詰めていたものが、音を立ててほどけていく。


よかった。

もう、離さなくていい。


アッチムは、声をあげて泣いた。

グーダスの胸の中で、子どもみたいに、いつまでも泣き続けた。

グーダスは何も言わず、ただ、その背中をゆっくりと撫で続けていた。


どれくらい、そうしていただろう。

やがて涙が落ち着いてくると、アッチムは胸に顔を埋めたまま、ぐすっと鼻を鳴らした。

そして、ふと思い出したように、ぽつりと言った。


「……せんぱい。うち、いつか先輩と、野球拳もしてみたいっす」


グーダスの体が、びしりと固まった。


「ばっ……お、おまえ、どこでそんな言葉覚えてきたんだ!」


「え? だめなやつっすか?」


「だめに決まってるだろ! ……ったく、誰だ、おまえにそんなこと教えたのは」


慌てふためく先輩の胸の中で、アッチムは、きょとんと首をかしげる。

何がそんなにいけなかったのか、本当にわかっていない顔だった。

わかっていないからこそ、いちばんたちが悪い。

グーダスの顔が、耳まで真っ赤になっているのを見上げながら、アッチムはようやく、いつもの調子で、にっと笑った。


  


その頃。

大学からほど近い、安い居酒屋の一角で、パーダロは上機嫌だった。

テーブルには、空いたジョッキがいくつも並んでいる。

だいぶ出来上がっているらしく、その声は遠慮なく大きい。

向かいに座った連れの男が、にやにやしながら身を乗り出した。


「で、どうだったんだよ。アッチムだっけ? あのギャル」


「ああ、あれな」


パーダロは、もったいぶるように一口飲んでから、軽い調子で続けた。


「もうちょっとだったんだけどな。酒に混ぜて、連れ込んで、写真撮って、さあこれからってところで、目を覚ましやがってよ。逃げられた」


「マジかよ、詰めが甘いな」


「うるせえ。潰したまではよかったんだよ」


けらけらと笑い合う。

人ひとりを陥れておきながら、その口ぶりには罪の意識のかけらもない。

彼らにとっては、ただの酒の肴だった。


「まあでも、写真は撮ってあるからな」


パーダロは、スマートフォンを軽く振ってみせる。


「こいつさえあれば、あのギャルなんざ、いつでも呼び出せるっしょ。なんなら、今からでも――」


「パーダロ先輩」


不意に、声がした。

軽薄な空気が、その一言で、ぴたりと止まる。

パーダロが顔を上げると、テーブルのすぐ脇に、一人の男が立っていた。

いつから、そこにいたのか。近づいてくる足音も、気配も、まるでなかった。


「……グリコ?」


「面白そうな話ですね」


グリコは、穏やかに微笑んでいた。

口元には、やわらかい笑みさえ浮かんでいる。


「その写真の話、もう少し詳しく、聞かせてもらえます?」


声は、どこまでも静かだった。

ただ、その目だけが、まったく笑っていなかった。

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