それぞれの時間
チョキーナがその新しい噂を耳にしたのは、いつもの昼下がりの食堂だった。
「ねえ、知ってる? パーダロさんのこと」
「ああ、なんか最近見ないと思ってたら」
近くのテーブルから、声が聞こえてくる。
チョキーナは、トレーを手にしたまま、何気なくその会話に耳を傾けていた。
「大学、辞めたらしいよ」
「えっ、マジで? 就職決まってたんじゃなかったっけ」
「それも、なくなったんだって。なんか、いろいろあったみたいでさ」
パーダロ。
その名前が、もう自分の心をざわつかせないことに、チョキーナは気づいた。
かつては、その名前を聞くだけで、胸の奥が冷たくなった。
資料室のことも、あの部屋のことも、全部まとめて押し寄せてきて、息ができなくなった。
それなのに、今は何も感じない。ただ、遠い誰かの話を聞いているようだった。
どこで、何があったのかは知らないし、知りたいとも思わなかった。
ただ、あの人はもう、自分の世界からいなくなったのだ。それだけが、静かに胸に落ちた。
(……そう)
それ以上の感情は、もう湧いてこなかった。
チョキーナは、空いた席を探して、ぼんやりと食堂を見渡した。
その視線が、ふと、一点で止まる。
窓際の席に、グーダスがいた。
その隣には、アッチムがいる。金に近い茶髪が、よく似合っている。
アッチムは、身振り手振りを交えて話していて、グーダスはそれを呆れたように、けれど確かにやわらかい顔で聞いていた。
二人とも、笑っていた。
チョキーナは、しばらくその様子を見ていた。
胸が痛むだろうと、思っていた。
グーダスがあんな顔で笑うのを見たら、きっとまた、あの冷たいものが落ちてくるのだろうと。
でも――違った。
(……よかった)
心の底から、そう思えた。
グーダスは、幸せそうだった。
あんなにも傷ついて、自分を責めて、凍りついていた人が、今はあんなふうに笑っている。
隣に、ちゃんと笑い合える人がいる。
それが、嬉しかった。
自分が傷つけた人が、ちゃんと幸せになっている。
その事実が、こんなにも胸を温かくするなんて、思わなかった。
二人を見て、よかったと、素直に思えた。
そして、そう思えた自分に、少しだけ驚いた。
もう、いいのだ。
グーダスのことも、アッチムのことも、パーダロのことも。
ずっと胸の奥で渦巻いていたものが、今はもう、どこにもなかった。
(……もう、かかわるのはやめよう)
二人の幸せを、遠くから見ているだけでいい。
自分は、もう、あの物語の中の人間じゃない。
チョキーナは、そっとトレーを置いた。
食欲は、もうなかった。けれど、不思議と気分は晴れやかだった。
ゆっくりと、食堂の出口へと歩き出す。
かつて、この食堂は、息のできない場所だった。
視線が刺さり、声がやみ、いたたまれなくて逃げ出した場所。
それなのに、今は何も痛くない。
ただの、明るい昼下がりの食堂だった。
出口に手をかけた、そのときだった。
「先輩」
声をかけられて、チョキーナは振り返る。
そこに、グリコが立っていた。
「次のデート、いつにします?」
いつもの、穏やかな顔。
まるで、ずっとそこにいたみたいに、自然に立っている。
「……え?」
「決めておきたいんで。先輩、すぐ予定埋めちゃうから」
「……グリコ」
チョキーナは、何も言えずに固まった。
言葉の意味を理解するまで時間が必要だった。
「えっと……わたし……」
何か言おうとした時、グリコが先に口を開いた。
「先輩。俺、結構諦めが悪いんですよ。鳴かぬなら鳴かせてみせよう、ホトトギスって奴ですね」
真面目な声のグリコに、自然と笑みがこぼれてしまう。
でも、その表情はすぐに翳った。
「……ねえ、グリコ。だめだよ」
「何がですか?」
「私、こんな女だよ」
言葉が、こぼれた。
誰とでもじゃんけんする子、と噂された。
実際、流された。
守ってくれていた人を、傷つけた。
きれいな過去なんて、ひとつもない。
「いろいろ、あったんだよ。知ってるでしょ。私、グリコが思ってるような――」
「もちろん知ってます」
グリコは、あっさりと遮った。
「全部、知ってますよ。最初から」
「……だったら」
「それも含めて、先輩でしょう?」
その一言は、なんの気負いもなく、ただ事実のように差し出された。
チョキーナの視界が、にじむ。
ずっと、過去を切り離そうとしてきた。
なかったことにしようと、忘れようと、見ないふりをしようとしてきた。
でも、この人は。
その過去ごと、まるごと「先輩」と呼んでくれる。
切り離さなくていいと、捨てなくていいと、言ってくれる。
あの日、グリコと笑い合っても埋まらなかった、最後の隙間。
ときめきではない何かで、それは今、静かに満ちていく。
「……ずるいよ、グリコ」
「すみません」
謝りながら、グリコは笑っている。
チョキーナは、こぼれた涙を、指先でぬぐった。
それから、顔を上げて、まっすぐにグリコを見る。
「……グリコ」
「はい」
「大好き」
その瞬間、いつも飄々としているグリコの顔が、ぽっと赤くなった。
それを見て、チョキーナは、声をあげて笑った。
窓の外は、よく晴れていた。
過去はあっという間に過ぎ去っていく。
よく晴れた休日の午後、少しだけ年を重ねたグーダスが、街を歩いていた。
その手を、小さな女の子が、ぎゅっと握っている。
元気よく髪を結った、まだ幼い子だ。
「ぱぱ! うち、アイス食べたいっす!」
屈託のない笑顔をグーダスに向ける。
「……おまえ、口調までママに似てきたな」
グーダスは、苦笑する。
その顔は、あの頃よりずっと穏やかで、けれど確かに、幸せそうだった。
たかが、じゃんけん。
されど、じゃんけん。
その小さな手を引いて、二人は、よく晴れた街へと歩いていった。
終わり




