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もう戻れない――奪われた、あの時間 。 ~あいつは、俺の前ではあんな顔をしなかった~  作者: 遠崎カヲル


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23/23

それぞれの時間

チョキーナがその新しい噂を耳にしたのは、いつもの昼下がりの食堂だった。


「ねえ、知ってる?  パーダロさんのこと」


「ああ、なんか最近見ないと思ってたら」


近くのテーブルから、声が聞こえてくる。

チョキーナは、トレーを手にしたまま、何気なくその会話に耳を傾けていた。


「大学、辞めたらしいよ」


「えっ、マジで? 就職決まってたんじゃなかったっけ」


「それも、なくなったんだって。なんか、いろいろあったみたいでさ」


パーダロ。

その名前が、もう自分の心をざわつかせないことに、チョキーナは気づいた。


かつては、その名前を聞くだけで、胸の奥が冷たくなった。

資料室のことも、あの部屋のことも、全部まとめて押し寄せてきて、息ができなくなった。


それなのに、今は何も感じない。ただ、遠い誰かの話を聞いているようだった。


どこで、何があったのかは知らないし、知りたいとも思わなかった。

ただ、あの人はもう、自分の世界からいなくなったのだ。それだけが、静かに胸に落ちた。


(……そう)


それ以上の感情は、もう湧いてこなかった。

チョキーナは、空いた席を探して、ぼんやりと食堂を見渡した。


その視線が、ふと、一点で止まる。


窓際の席に、グーダスがいた。

その隣には、アッチムがいる。金に近い茶髪が、よく似合っている。


アッチムは、身振り手振りを交えて話していて、グーダスはそれを呆れたように、けれど確かにやわらかい顔で聞いていた。


二人とも、笑っていた。


チョキーナは、しばらくその様子を見ていた。


胸が痛むだろうと、思っていた。

グーダスがあんな顔で笑うのを見たら、きっとまた、あの冷たいものが落ちてくるのだろうと。


でも――違った。


(……よかった)


心の底から、そう思えた。


グーダスは、幸せそうだった。

あんなにも傷ついて、自分を責めて、凍りついていた人が、今はあんなふうに笑っている。

隣に、ちゃんと笑い合える人がいる。


それが、嬉しかった。


自分が傷つけた人が、ちゃんと幸せになっている。

その事実が、こんなにも胸を温かくするなんて、思わなかった。


二人を見て、よかったと、素直に思えた。

そして、そう思えた自分に、少しだけ驚いた。


もう、いいのだ。


グーダスのことも、アッチムのことも、パーダロのことも。

ずっと胸の奥で渦巻いていたものが、今はもう、どこにもなかった。


(……もう、かかわるのはやめよう)


二人の幸せを、遠くから見ているだけでいい。

自分は、もう、あの物語の中の人間じゃない。


チョキーナは、そっとトレーを置いた。

食欲は、もうなかった。けれど、不思議と気分は晴れやかだった。


ゆっくりと、食堂の出口へと歩き出す。


かつて、この食堂は、息のできない場所だった。

視線が刺さり、声がやみ、いたたまれなくて逃げ出した場所。


それなのに、今は何も痛くない。

ただの、明るい昼下がりの食堂だった。


出口に手をかけた、そのときだった。


「先輩」


声をかけられて、チョキーナは振り返る。

そこに、グリコが立っていた。


「次のデート、いつにします?」


いつもの、穏やかな顔。

まるで、ずっとそこにいたみたいに、自然に立っている。


「……え?」


「決めておきたいんで。先輩、すぐ予定埋めちゃうから」


「……グリコ」


チョキーナは、何も言えずに固まった。

言葉の意味を理解するまで時間が必要だった。


「えっと……わたし……」


何か言おうとした時、グリコが先に口を開いた。


「先輩。俺、結構諦めが悪いんですよ。鳴かぬなら鳴かせてみせよう、ホトトギスって奴ですね」


真面目な声のグリコに、自然と笑みがこぼれてしまう。


でも、その表情はすぐに翳った。


「……ねえ、グリコ。だめだよ」


「何がですか?」


「私、こんな女だよ」


言葉が、こぼれた。


誰とでもじゃんけんする子、と噂された。

実際、流された。

守ってくれていた人を、傷つけた。

きれいな過去なんて、ひとつもない。


「いろいろ、あったんだよ。知ってるでしょ。私、グリコが思ってるような――」


「もちろん知ってます」


グリコは、あっさりと遮った。


「全部、知ってますよ。最初から」


「……だったら」


「それも含めて、先輩でしょう?」


その一言は、なんの気負いもなく、ただ事実のように差し出された。


チョキーナの視界が、にじむ。


ずっと、過去を切り離そうとしてきた。

なかったことにしようと、忘れようと、見ないふりをしようとしてきた。


でも、この人は。


その過去ごと、まるごと「先輩」と呼んでくれる。

切り離さなくていいと、捨てなくていいと、言ってくれる。


あの日、グリコと笑い合っても埋まらなかった、最後の隙間。

ときめきではない何かで、それは今、静かに満ちていく。


「……ずるいよ、グリコ」


「すみません」


謝りながら、グリコは笑っている。


チョキーナは、こぼれた涙を、指先でぬぐった。


それから、顔を上げて、まっすぐにグリコを見る。


「……グリコ」


「はい」


「大好き」


その瞬間、いつも飄々としているグリコの顔が、ぽっと赤くなった。

それを見て、チョキーナは、声をあげて笑った。


窓の外は、よく晴れていた。

  



過去はあっという間に過ぎ去っていく。


よく晴れた休日の午後、少しだけ年を重ねたグーダスが、街を歩いていた。


その手を、小さな女の子が、ぎゅっと握っている。

元気よく髪を結った、まだ幼い子だ。


「ぱぱ! うち、アイス食べたいっす!」


屈託のない笑顔をグーダスに向ける。


「……おまえ、口調までママに似てきたな」


グーダスは、苦笑する。

その顔は、あの頃よりずっと穏やかで、けれど確かに、幸せそうだった。


たかが、じゃんけん。

されど、じゃんけん。


その小さな手を引いて、二人は、よく晴れた街へと歩いていった。


終わり

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