信じる理由
その女の子は、グーダスの前で少し背筋を伸ばした。
「わたし、アッチムの友達のジケッタといいます。グーダス先輩、今ちょっとお時間ありますか」
「……なんだ」
グーダスの声は硬かった。
アッチムから何か伝言でも預かってきたのだろうか。いずれにしても、いい話ではない予感がした。
「アッチムから、絶対に先輩には言わないでほしいって口止めされてたんですけど」
ジケッタは、一度唇を結んだ。
「……アッチムが、あまりにもかわいそうで」
その一言に、グーダスは何も言わず、続きを待った。
「だから、アッチムに何があったか、先輩に伝えたくて来ました」
ジケッタは、静かに話し始めた。
それは、ゼミの飲み会があった夜の事。
その飲み会には、グーダスは所要で参加できなかった。
アッチムはゼミの仲間と共に、いつも通り飲んでいたそうだ。
しかし、酒が弱いわけでもないのに、いつの間にか意識を失っていたらしい。
「それで、気づいたら、いつの間にかパーダロ先輩の部屋にいたそうです」
グーダスの手に、自然と力が入った。
「そこでパーダロ先輩に、じゃんけんしている写真を見せられたそうです。いつ撮られたのかも、アッチムには分からなかったって」
「……っ」
「その写真を見せながら、パーダロ先輩は『お前から誘った』って言ったそうです。でも、アッチムには身に覚えがなかったって」
ジッケッタの声が、少しだけ震えた。
「パーダロ先輩から、どうせ一回やったんだから、いいだろって迫られて……その場から逃げたそうです」
グーダスは、何も言えなかった。
「アッチム、毎日泣いてるんです。グーダス先輩を傷つけた。自分は先輩の隣にいる資格はないって」
ジケッタは、目を伏せた。
「アッチムは、何も言わずに、言い訳もせずに、グーダス先輩から離れるつもりなんです。あの子、ずっとやつれてて……見てるだけで、かわいそうで」
そして、ジッケッタは顔を上げた。
「わたし、アッチムは先輩を裏切ってないと思うんです」
まっすぐな目だった。
「グーダス先輩は、どう思いますか?」
グーダスは、しばらく動かなかった。
頭の中で、すべてが繋がっていく。
避けられていた理由。
連絡が来なかった理由。
あの噂の、本当の意味。
「……ジケッタ、と言ったか」
「はい」
グーダスは柔らかく笑った。
「ありがとうな」
それだけ言うと、グーダスは走り出した。
行く先は、決まっていた。アッチムのところだ。
グーダスは、人混みをかき分けるようにして走った。
息はとっくに上がっていたが、そんなことはどうでもよかった。
頭の中を占めているのは、アッチムの泣き顔だけだ。
先輩じゃなきゃやだっす、と泣きながら言ったあの顔も、あっち向いてホイだってできますからと顔を真っ赤にして言ったあの笑顔も、走るたびに胸の奥で浮かんでは消えていく。
あいつは、あれからずっと一人で抱えていたのか――そう思うと、胸が締めつけられた。
自分がグーダスを傷つけたのだと思い込んだまま、誰にも言い訳をせず、ただ一人で泣いていたのだ。
「……バカやろう」
思わず漏れた言葉は、ほかでもない自分自身に向けたものだった。
なんで気づいてやれなかったのか。もっと早く会いに行っていれば、もっと強引にでも探していれば、もっと信じてやれていれば。
後悔がいくつも込み上げてきて、それがそのまま足の力に変わっていく。
やがて女子寮が見えてくると、グーダスは入口の前で足を止め、大きく息を吸い込んだ。
「すみません!」
突然の大声に、寮母が驚いたように顔を上げた。
「アッチムさんを呼んでもらえませんか!」
寮母は、息を切らして必死の形相を浮かべるグーダスの顔をじっと見つめると、何かを察したように、ゆっくりと首を横に振った。
「……ごめんなさいね。あの子なら、さっき出て行ったわ。泣きそうな顔をしてね。どこへ行くかは、言わなかったけれど」
その言葉に、グーダスは息を呑んだ。
立ち尽くしたのは、ほんの一瞬だった。次の瞬間にはもう、彼は寮の前から走り出していた。
(アッチム……!)
頼む、まだどこにも行かないでいてくれ。
今度こそ、お前の話を聞かせてくれ。
先輩と、ずっと一緒にいたかった。
ただ、それだけだった。それだけのことが、もう叶わない。
アッチムは俯いたまま、あてもなく歩いていた。
どこへ向かっているのかも、自分でわかっていない。
ただ、あの場所にいると先輩に会ってしまいそうで、会えば顔を見てしまいそうで、それが怖くて、足だけが先輩から遠ざかる方へと動いていた。
自分には、先輩の隣にいる資格なんてない。
何度もそう言い聞かせてきた言葉を、また胸の中で繰り返す。
先輩を傷つけた。それなのに、のうのうと隣にいられるはずがない。
だから何も言わずに離れよう。言い訳なんてしない。それが、せめてもの――
「アッチム」
背後から、声がした。
その声を聞いた瞬間、心臓が止まるかと思った。
聞き間違えるはずがない。聞き間違えたくても、できない声だった。
振り向いてはいけない。顔を見たら、きっとだめになる。
「……すみません」
とっさに口から出たのは、その一言だった。
なぜ謝ったのかも、自分でわからない。
アッチムは顔を伏せたまま背を向け、そのまま走り出そうとした。
その腕を、つかまれた。
「アッチム。ひとつだけ、聞かせてくれ」
強くはない、けれど離す気配のない手だった。
アッチムは立ち止まったまま、それでも顔を上げられない。
上げてしまえば、こらえているものが全部こぼれてしまう気がした。
グーダスは、静かに言った。
「アッチム。おまえは――俺を、気持ちで裏切ったことはあるか」




