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もう戻れない――奪われた、あの時間 。 ~あいつは、俺の前ではあんな顔をしなかった~  作者: 遠崎カヲル


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19/23

慰めてあげましょうか

噂を聞いたのは、何気ない昼休みのことだった。隣のテーブルから、声が聞こえてきた。


「ねえ、アッチムって知ってる?」

「ああ、あのギャルの子でしょ」

「そうそう。なんかパーダロさんとじゃんけんしたらしいよ」

「え、マジで?」

「パーダロさんが自慢げに話してたって」


チョキーナは、トレーの上に視線を落としたまま、その会話を聞いていた。


パーダロ。


その名前が耳に入った瞬間、胸の奥で何かがざわついた。あの資料室での出来事が、意図せず浮かび上がってくる。押し込めていたはずの記憶が、その名前一つで輪郭を取り戻す。


「やっぱりあの子って、誰とでもじゃんけんするんだね」

「見た目からしてそうじゃん」


笑い声が重なる。


チョキーナは静かに箸を置くと、アッチムと話した日の事を思い出した。

あの日、アッチムは言っていた。


「うち、じゃんけんはグーダスさんが初めてっすから」

「グーダスさんとしてる間は、絶対に他の人とはしないっすから」


あの言葉を、チョキーナはまだ覚えている。

あの言葉に、完膚なきまでに打ちのめされたことも。


でも――


(……偉そうなことを言ったくせに)


胸の奥に、じわりと胸の奥に、じわりと優越感が広がる。

結局、あの子も同じだったのだ。誰とでもじゃんけんする子、という噂は本当だった。

あんなに真っ直ぐな顔で言い切っておきながら、パーダロとじゃんけんをしていたんだ。


(……グーダスさんを傷つけたあんたに何がわかるんすか、か)


その言葉が、そのままアッチムに返ってきた。


ざまあみろ、とは思わない。

ただ、やっぱりそういう子だったのだ、という確信だけが静かに広がる。


チョキーナは立ち上がり、トレーを持って食堂を出た。




それから数日、グーダスの様子がおかしかった。


廊下ですれ違っても、いつもの短い頷きがない。

ゼミでも、どこか上の空だった。

食堂で見かけても、一人でいることが多くなった。

アッチムの姿も、グーダスの隣から消えていた。


(……やっぱり、何かあったんだ)


気になる。気になって仕方ない。


グリコに悪い、とわかっている。

グリコはいつも隣にいてくれて、守ってくれて、大切にしてくれている。

あんなにも、自分に誠実に向き合ってくれている。


それなのに――


グーダスの元気のない横顔が、頭から離れない。

授業中も、ふとした瞬間も、気づけばグーダスのことを考えている自分がいる。

いけない、と思う。でも止められない。


その葛藤を抱えたまま、チョキーナは日々をやり過ごしていた。




放課後の中庭は、人が少なかった。


木漏れ日が、ベンチの上に細く伸びている。

風が葉を揺らす音だけが、静かに聞こえていた。


その中に、グーダスがいた。


ベンチに一人で座って、ただ前を向いている。

スマートフォンも見ていない。

誰かを待っているわけでもなさそうだ。

ただ、そこにいる、という感じだった。


チョキーナは足を止めた。


通り過ぎてしまえばいい。

関係ない。自分にはグリコがいる。


でも――


グーダスの横顔が、どうしても気になった。


肩が、いつもより落ちている。

あの力強さが、どこかへ消えてしまったような。

何かを抱えたまま、誰にも言えずにいるような。

そんな背中だった。


(……グーダスさん、なんだか辛そう)


胸の奥が、ズキンと痛んだ。


やめよう、と思った。

声をかけるべきじゃないとわかっていた。

グリコのことを考えれば、答えは出ているはずだった。


それでも、足は動いていた。

気づいたときには、チョキーナはグーダスの隣に腰を下ろしていた。


グーダスが、ゆっくりと顔を向ける。


「……チョキーナか」


「……邪魔でしたか」


「いや」


短く答えて、また前を向いた。


しばらく、二人とも何も言わなかった。

中庭に、風の音だけが流れる。


チョキーナはグーダスの横顔をそっと見た。


目の下に、うっすらと翳りがある。

ちゃんと眠れていないのかもしれない。

表情は平静を装っているけれど、その奥に何かが深く沈んでいるのが見えた。


あの力強さが消えている。

ゼミで向かい合っていたときの、あの安定感がない。

まるで、足元から何かを根こそぎ持っていかれたような、そんな佇まいだった。


チョキーナは視線を前に戻した。


(……アッチムさんのことだろうな)


チョキーナはアッチムの噂を思い出した。


パーダロとじゃんけんしたという噂。

あれほどグーダスだけだと言い切ったくせに。あれほど真っ直ぐに言い放ったくせに。


そのアッチムが、今グーダスの隣にいない。

グーダスがこんなにも沈んでいるのは、そのせいだ。


考えてはいけない。

そうわかっているはずなのに――


(……わたしなら)


その考えが、胸の奥から浮かび上がってきた。


止めようとした。

でも止まらなかった。


(……わたしなら、グーダスさんをこんな顔にさせない)


そう思ってしまう自分がいる。

そう思ってしまうことへの罪悪感も、確かにある。


でも、どちらも本当だった。


「……最近元気ないですね。ずっと辛そうな顔してますよ」


チョキーナは、前を向いたまま静かに言った。


グーダスは答えない。


「アッチムさんと、何かありましたか」


少しの間があった。


「……まあな」


グーダスは短くそれだけ言った。

でも、その一言の重さを、チョキーナは確かに受け取った。


きっと傷ついているのだろう。

もしかしたら、二人はもう終わってしまったのかもしれない。


グーダスの横顔を見ながら、チョキーナは胸の奥に静かな熱が灯るのを感じた。


その時ふと、グリコのことを、思った。


いつも隣にいてくれるグリコのことを。

真っ直ぐに向き合ってくれるグリコのことを。


ごめんなさい、と心の中で呟いて、それを振り払った。


「ねえ、グーダスさん」


チョキーナは、グーダスの横顔を見ながら、静かに口を開いた。


「……」


グーダスは前を見たまま返事をしない。


「もし辛いんだったら……」


そう言いながら、チョキーナはゆっくりと手を差し出した。


「私が慰めてあげましょうか?」


その手はチョキの形をしていた。

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