慰めてあげましょうか
噂を聞いたのは、何気ない昼休みのことだった。隣のテーブルから、声が聞こえてきた。
「ねえ、アッチムって知ってる?」
「ああ、あのギャルの子でしょ」
「そうそう。なんかパーダロさんとじゃんけんしたらしいよ」
「え、マジで?」
「パーダロさんが自慢げに話してたって」
チョキーナは、トレーの上に視線を落としたまま、その会話を聞いていた。
パーダロ。
その名前が耳に入った瞬間、胸の奥で何かがざわついた。あの資料室での出来事が、意図せず浮かび上がってくる。押し込めていたはずの記憶が、その名前一つで輪郭を取り戻す。
「やっぱりあの子って、誰とでもじゃんけんするんだね」
「見た目からしてそうじゃん」
笑い声が重なる。
チョキーナは静かに箸を置くと、アッチムと話した日の事を思い出した。
あの日、アッチムは言っていた。
「うち、じゃんけんはグーダスさんが初めてっすから」
「グーダスさんとしてる間は、絶対に他の人とはしないっすから」
あの言葉を、チョキーナはまだ覚えている。
あの言葉に、完膚なきまでに打ちのめされたことも。
でも――
(……偉そうなことを言ったくせに)
胸の奥に、じわりと胸の奥に、じわりと優越感が広がる。
結局、あの子も同じだったのだ。誰とでもじゃんけんする子、という噂は本当だった。
あんなに真っ直ぐな顔で言い切っておきながら、パーダロとじゃんけんをしていたんだ。
(……グーダスさんを傷つけたあんたに何がわかるんすか、か)
その言葉が、そのままアッチムに返ってきた。
ざまあみろ、とは思わない。
ただ、やっぱりそういう子だったのだ、という確信だけが静かに広がる。
チョキーナは立ち上がり、トレーを持って食堂を出た。
それから数日、グーダスの様子がおかしかった。
廊下ですれ違っても、いつもの短い頷きがない。
ゼミでも、どこか上の空だった。
食堂で見かけても、一人でいることが多くなった。
アッチムの姿も、グーダスの隣から消えていた。
(……やっぱり、何かあったんだ)
気になる。気になって仕方ない。
グリコに悪い、とわかっている。
グリコはいつも隣にいてくれて、守ってくれて、大切にしてくれている。
あんなにも、自分に誠実に向き合ってくれている。
それなのに――
グーダスの元気のない横顔が、頭から離れない。
授業中も、ふとした瞬間も、気づけばグーダスのことを考えている自分がいる。
いけない、と思う。でも止められない。
その葛藤を抱えたまま、チョキーナは日々をやり過ごしていた。
放課後の中庭は、人が少なかった。
木漏れ日が、ベンチの上に細く伸びている。
風が葉を揺らす音だけが、静かに聞こえていた。
その中に、グーダスがいた。
ベンチに一人で座って、ただ前を向いている。
スマートフォンも見ていない。
誰かを待っているわけでもなさそうだ。
ただ、そこにいる、という感じだった。
チョキーナは足を止めた。
通り過ぎてしまえばいい。
関係ない。自分にはグリコがいる。
でも――
グーダスの横顔が、どうしても気になった。
肩が、いつもより落ちている。
あの力強さが、どこかへ消えてしまったような。
何かを抱えたまま、誰にも言えずにいるような。
そんな背中だった。
(……グーダスさん、なんだか辛そう)
胸の奥が、ズキンと痛んだ。
やめよう、と思った。
声をかけるべきじゃないとわかっていた。
グリコのことを考えれば、答えは出ているはずだった。
それでも、足は動いていた。
気づいたときには、チョキーナはグーダスの隣に腰を下ろしていた。
グーダスが、ゆっくりと顔を向ける。
「……チョキーナか」
「……邪魔でしたか」
「いや」
短く答えて、また前を向いた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
中庭に、風の音だけが流れる。
チョキーナはグーダスの横顔をそっと見た。
目の下に、うっすらと翳りがある。
ちゃんと眠れていないのかもしれない。
表情は平静を装っているけれど、その奥に何かが深く沈んでいるのが見えた。
あの力強さが消えている。
ゼミで向かい合っていたときの、あの安定感がない。
まるで、足元から何かを根こそぎ持っていかれたような、そんな佇まいだった。
チョキーナは視線を前に戻した。
(……アッチムさんのことだろうな)
チョキーナはアッチムの噂を思い出した。
パーダロとじゃんけんしたという噂。
あれほどグーダスだけだと言い切ったくせに。あれほど真っ直ぐに言い放ったくせに。
そのアッチムが、今グーダスの隣にいない。
グーダスがこんなにも沈んでいるのは、そのせいだ。
考えてはいけない。
そうわかっているはずなのに――
(……わたしなら)
その考えが、胸の奥から浮かび上がってきた。
止めようとした。
でも止まらなかった。
(……わたしなら、グーダスさんをこんな顔にさせない)
そう思ってしまう自分がいる。
そう思ってしまうことへの罪悪感も、確かにある。
でも、どちらも本当だった。
「……最近元気ないですね。ずっと辛そうな顔してますよ」
チョキーナは、前を向いたまま静かに言った。
グーダスは答えない。
「アッチムさんと、何かありましたか」
少しの間があった。
「……まあな」
グーダスは短くそれだけ言った。
でも、その一言の重さを、チョキーナは確かに受け取った。
きっと傷ついているのだろう。
もしかしたら、二人はもう終わってしまったのかもしれない。
グーダスの横顔を見ながら、チョキーナは胸の奥に静かな熱が灯るのを感じた。
その時ふと、グリコのことを、思った。
いつも隣にいてくれるグリコのことを。
真っ直ぐに向き合ってくれるグリコのことを。
ごめんなさい、と心の中で呟いて、それを振り払った。
「ねえ、グーダスさん」
チョキーナは、グーダスの横顔を見ながら、静かに口を開いた。
「……」
グーダスは前を見たまま返事をしない。
「もし辛いんだったら……」
そう言いながら、チョキーナはゆっくりと手を差し出した。
「私が慰めてあげましょうか?」
その手はチョキの形をしていた。




