もしかして
グリコがいつも隣にいることが、いつの間にか自然になっていた。
チョキーナへの悪い噂はいつの間にか消えていた。
廊下を歩いていても視線が刺さることはなく、食堂に行っても声が止まることもない。
あらためて、グリコの影響力の大きさが身に染みた。
穏やかな日々が、静かに戻ってきた。
グリコと並んで歩くとき、チョキーナは息ができる。
楽しいし、安心するし、頼れる。なによりグリコを独り占めしていることに、ちょっとだけ優越感も感じる。
以前の自分なら、そんなことを考えただけで自己嫌悪していたかもしれない。
でも今は違った。少しくらいならいい、そう思えるようになっていた。
昼休み、学食へ向かう途中だった。
「あれ、グリコ先輩じゃない?」
「本当だ。隣の人、彼女だよね」
小さな声が聞こえてくる。チョキーナは聞こえないふりをした。
だが、少しだけ口元が緩む。
隣を見ると、グリコはそんなことには気づいていないのか、いつも通りだった。
「先輩、今日の日替わり定食何でしたっけ」
「知らないよ」
「じゃあ見てから決めます」
「普通そうでしょ」
思わず笑う。グリコも笑った。
本当に、変な人だと思う。
学内でも有名で、顔も良くて、お金もあって、頭も良い。
そんな人なのに、話していると不思議なくらい気を使わない。
(……ほんと、変な人)
そう思う。
そして、胸の奥にほんの少しだけ空白が残っていることにも気づいていた。
埋まらないほど大きくはない。忘れようと思えば忘れられる程度のものだ。
それでも、ときどき思い出したように顔を出す。
その正体を、チョキーナは考えないようにしていた。
日々の生活の中でもう一つ、変化があった。
グーダスとの関係が、少しずつ戻ってきていた。
あのことには触れない。触れられない。
でも、廊下で目が合えば頷き合えるようになった。
ゼミで隣になれば、短い言葉を交わせるようになった。
それだけのことが、チョキーナには十分だった。
あの夜から、ずっと重かった何かが、少しだけ軽くなった気がした。
最初の変化は、ある朝の廊下だった。
講義棟の角を曲がったところで、グーダスと鉢合わせした。
以前なら、グーダスはそのまま視線を逸らして立ち去っていただろう。
でも、そのときは違った。一瞬だけ目が合う。グーダスは小さく頷いた。
それだけだった。言葉はなかった。
それでも、無視されなかったことが、少しだけ嬉しかった。
次の変化は、ゼミの帰り道だった。
グーダスとたまたま同じ方向に歩いていて、しばらく並んで歩くことになった。
「……最近、どうだ」
グーダスが前を向いたまま言った。
「……まあ、普通ですね」
「そうか」
それだけだった。たった二言、三言の他愛のない会話。
でも、その短い言葉がチョキーナには十分だった。
あのことには触れなかったし、触れなくていい。
ただ、言葉を交わせるようになったことが、こんなにも大きかった。
さらに少し経った頃、ゼミの発表準備の日だった。
チョキーナは資料を教室に忘れたことに気づいた。
困っていると、一枚の紙が差し出された。
「使うか」
グーダスだった。
「え?」
「予備だから。おまえにやるよ」
どうやら余分に印刷していたらしい。
「……ありがとうございます」
「別に」
肩をすくめる。それだけだった。
昔なら当たり前だった。こんなやり取りはいくらでもあった。
でも今は違う。失ってしまったと思っていたものが、少しだけ戻ってきている。
そんな気がした。
もちろん、昔には戻れないし、戻れるはずもない。
それでも、会話ができる。目を合わせられる。同じ空間にいても苦しくない。
それだけで十分だと思えた。
ある日の昼下がり、チョキーナは食堂でグーダスと向かい合っていた。
偶然同じテーブルになった、ただそれだけのことだった。
会話が弾むわけではない。でも、沈黙が苦しくもない。
ぼんやりとトレーを見つめながら、チョキーナはふと口を開いた。
「……グリコってさ」
「ああ」
「なんか、こう、真面目すぎるんです。デートのとき、全部払ってくれるんです。止めてもきかないし」
「へえ」
「しかも毎回同じこと言うの。僕が払いたいだけなんで、って。なんかおかしくて、笑えてくるんです」
チョキーナは苦笑した。
グーダスは短く相槌を打った。だが、その目はどこか遠くを見ている。
「それと、この前も服選んでくれて。妹がいるから詳しいんですって」
「……そうか」
箸が止まった。ほんの一瞬だった。だがチョキーナは見逃さなかった。
「正直、私にはもったいないくらいなんですよね」
グーダスは答えなかった。少ししてから、「……そうか」とだけ言った。
その横顔が、妙に苦しそうに見えた。
「……グーダスさん、聞いてます?」
「聞いてる」
「なんか顔、暗いですよ」
「そうか?」
グーダスは視線をトレーに落とした。「……悪い。ちょっと考え事してた」
チョキーナはその横顔を見た。
何かを抱えているような、それでいて誰にも言えないような、そんな顔だった。
そして気づく。
グリコの話をするたびに、グーダスの表情が曇っている。
最初は気のせいだと思った。でも、一度ではない。二度でもない。
話を重ねるたびに、その違和感は確信へ変わっていく。
(……もしかして)
グーダスにはアッチムがいる。自分にはグリコがいる。
それなのに、どうしても、その考えだけは消えてくれない。
(……もしかして、グーダスさん)
胸が小さく鳴った。
期待してはいけない。期待したら駄目だ。わかっている。
それでも――
(……まだ、わたしのこと)
その先を口にすることは、できなかった。




