いいよ、グリコなら
待ち合わせの時間より、十分以上早く着いたが、グリコはすでにそこにいた。
スマートフォンを見るでもなく、ただ立っている。絶対に見逃さないぞという意思が自然と伝わってくる。
チョキーナが近づくと、目があった。その瞬間グリコの顔がぱっと明るくなった。
「先輩、来ましたね」
「待った?」
「全然です。さっき着いたところですよ」
嘘だろう、とチョキーナは思った。
グリコの額が汗ばんでいる。日差しを遮る物は何もない場所だ。グリコらしいな、とチョキーナは思った。
最初に入ったのは、駅近くの雑貨屋だった。
グリコは文句も言わず、チョキーナの後ろをついてくる。
チョキーナが足を止めるたびに、一緒に立ち止まる。
「これ、かわいくない?」
チョキーナが小さな陶器の置物を手に取ると、グリコが覗き込んだ。
「……猫ですね」
「そう、猫」
チョキーナは掌の上でそっと傾けてみる。
丸みを帯びた白い猫が、のんびりとした顔でこちらを見ていた。
「先輩、猫好きなんですか」
「まあ、嫌いじゃないかな」
「じゃあ買いましょう」
「え、いい、自分で買う」
グリコはチョキーナの言葉を聞いているのかいないのか、すでにレジの方へ歩き出していた。チョキーナは止める間もなかった。
小さな紙袋を受け取りながら、なんだかおかしくなって、チョキーナは笑った。
「グリコって、強引だね」
「そうですか?」
「そうだよ」
グリコは少し考えてから、また笑った。
「先輩に喜んでほしいだけです」
その言葉が、すとんと胸に落ちた。重くもなく、おしつけがましくもない。
ただ、真っ直ぐだった。
服屋では、グリコが真剣だった。
チョキーナが何気なく手に取ったワンピースを見て、少し考えてから言う。
「先輩、それより隣のやつの方が似合うと思います」
グリコが静かに言った。
チョキーナが視線を移すと、確かに隣に似たようなデザインのものが掛かっている。
「え、そう?」
「色が」
それだけ言って、グリコは少し考えるように目を細めた。
「詳しいね」
「妹がいるので」
さらりと答えて、グリコはそれ以上説明しなかった。
誰かのために、ずっとそういうことを考えてきたのだろう。チョキーナはなんとなく、そう思った。
試着して出てくると、グリコが静かに頷いた。
「似合いますね」
「本当に?」
「嘘つかないです」
チョキーナは鏡を見た。確かに、悪くなかった。
グリコの言う通り、色が合っている。
「……買おうかな」
「買いましょう」
グリコがすかさず言って、財布を取り出す。
チョキーナは苦笑した。
「また払うつもりでしょ」
「僕が払いたいだけなんで」
「それ、さっきも言ってたよ」
「同じ気持ちなんで」
押しつけがましくない。でも、引かない。
その絶妙な距離感が、なんだかおかしかった。
チョキーナはまた笑った。こんなふうに笑ったのは、いつぶりだろう。
食事は、グリコが予約していた店だった。
落ち着いた照明、静かな音楽、丁寧に運ばれてくる料理。
チョキーナが「高くない?」と聞くと、グリコは首を振った。
「先輩を連れてきたかった店なんで」
それだけ言って、メニューを開いた。
会計のとき、チョキーナが財布を出すより先に、グリコがさっと済ませていた。
「払うって言ったのに」
「僕が払いたいだけなんで」
「それ、何回目」
「気持ちが同じなんで、同じ言葉になります」
チョキーナは呆れながら、でも口元が緩むのを止められなかった。
美術館は、静かだった。
グリコはチョキーナの歩幅に合わせて、ゆっくり歩く。
作品の前で立ち止まるたびに、静かに隣にいる。
「グリコって、美術好きなの?」
「先輩が好きそうだったので」
「私のために?」
「はい」
さらりと言われ、チョキーナは言葉に詰まった。
グーダスへの気持ちを引きずっていたとき、こんなふうに誰かのために動いてもらったことがあっただろうか。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
グリコは笑った。その笑顔が、夕方の柔らかい光の中で、どこか眩しかった。
肩の力が抜けている。
ずっと張り詰めていたものが、今日一日でほとんどほどけてしまった。
この人といると、息ができる。
ただそれだけなのに、それがこんなにも大切だと、今日初めて気づいた。
美術館を出ると、空が夕焼けに染まっていた。
二人並んで歩きながら、チョキーナはふと思った。
もうちょっと、一緒にいたい。その気持ちが、自然と言葉になった。
「……ねえ、うちに来ない?」
グリコが少し驚いたように目を丸くした。
それから、静かに笑った。
「いいんですか」
「いいよ」
「……はい」
その返事が、どこか嬉しそうだった。
チョキーナはそれを見て、自然と口元が緩んだ。
チョキーナの部屋は、久しぶりに誰かの気配で満ちていた。
グリコはソファに腰を下ろし、部屋をそっと見回している。
「……お茶、飲む?」
「いただきます」
チョキーナがお茶を持って戻ると、グリコはソファに座ったまま、静かに待っていた。
お茶を置いて、チョキーナも隣に腰を下ろす。
二人並んで、しばらく何も言えなかった。
部屋の中に、静けさだけが満ちている。悪い静けさじゃなかった。
ただ、穏やかな、息のできる静けさだった。
チョキーナはふと、隣のグリコの手を見た。大きくて、真面目そうな手だった。
気づいたときには、そっと触れていた。
グリコの手が、わずかに震えた。
「……先輩」
「……ねえ」
チョキーナは、小さく呟いた。
「じゃんけん……しよ」
グリコが目を見開く。
しばらく、何も言えないでいた。
それから、かすれた声で言った。
「……いいんですか、僕なんかで」
チョキーナは、グリコの手を少し強く握った。
「いいよ、グリコなら」
グリコは答えなかった。
ただ、その手が、チョキーナの手をそっと握り返した。
グリコとのじゃんけんは、優しかった。
今までの誰よりも。
チョキーナを気遣う気持ちが、いやというほど伝わってくる。
急かさない。
詰め寄らない。
ただ、丁寧に、大切に向き合ってくれる。
グリコのグーは、とても熱くて、硬かった。
チョキーナのチョキも十分に熱を帯び、その手のひらは勝負の熱にあてられて、汗でしっとりと濡れていた。
でも――
(……あれ)
胸の奥が、静かだった。
あのときとは、違う。グーダスと向かい合ったときの、あの張り詰めた感覚がない。
指先まで意識が走るような、あの熱がない。
ただ、穏やかで、温かくて、安心している。
その違いに気づきかけたとき、グリコが言った。
「じゃんけんグリコ、しませんか」
「……いいよ」
「最初はグー、じゃんけん、ぽん」
グリコが勝った。
「グ・リ・コ」
グリコが三歩進む。
その歩き方が、なんだかちょっと可愛かった。
「じゃんけん、ぽん」
今度はチョキーナが勝った。
「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」
チョキーナが丁一歩ずつ丁寧に進む。
チョキーナは思わず笑った。
グリコも、はにかみながら笑った。
二人で笑い合った。
楽しい。本当に、楽しい。
グリコといると、笑える。息ができる。肩の力が抜ける。
でも――
(……どうしてかな。胸がドキドキしない)
その言葉が、胸の奥にひっそりと浮かんだ。
打ち消そうとしたけれど、消えなかった。
手のひらは確かに熱を帯びていた。じゃんけんの熱が、ちゃんとある。
身体はグリコを受け入れている。
でも、あの時とは違う。
グーダスと向かい合ったときの、息が詰まるような緊張がない。
パーダロのときの、逃げ場のない危うさがない。
グリコのじゃんけんは、優しい。
こんなに優しくされているのに。こんなに大切にされているのに。
(……ごめんなさい)
チョキーナは、笑いながら、心の中でつぶやいた。
その言葉は誰に向けているのか、自分でもわからないまま。
グリコはまだ笑っていた。その笑顔が、眩しかった。
眩しくて、温かくて、安心できて。
それでも、最後の隙間だけが、静かに、埋まらないままだった。




