息のできる場所
噂は、思っていたよりも早く広まった。
チョキーナ自身は、何も言っていないし、何か変えたつもりもない。
しかし、あの夜のことが、どこからともなく漏れていた。
廊下ですれ違うとき、視線が刺さる。
食堂に入れば、声が止まる。
知っている顔が、知らない顔に変わっていく。
誰とでもじゃんけんする子。
かつて自分がアッチムに向けた言葉が、今度は自分に貼りついている。
否定する気力も、説明する言葉も、もうどこにもなかった。
ただ、毎日をやり過ごすことだけが、今の自分にできる唯一のことだった。
その日も、チョキーナは人気のない中庭のベンチに座っていた。
食堂に行った時、講義棟の廊下を歩いた時、周囲からの視線と空気に耐えられなかった。
ここだけが、息のできる場所だった。
空を見上げると、雲が流れている。
どこへ向かうのかも知らないまま、ただ流されていく。
(……私みたいだ)
そんなことを、ぼんやりと思った。
「……先輩」
不意に、声をかけられた。
チョキーナは声の方へと視線を向けた。
そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。
同じ学部の、一学年下。
真面目そうな顔立ち、清潔感のある服装。
名前は――グリコ、だったか。
「……なに」
「隣、座っていいですか」
断る理由もなかった。
チョキーナは小さく頷く。
グリコはベンチの端に腰を下ろした。
距離を詰めるでもなく、離れすぎるでもなく、自然な距離で。
しばらく、沈黙が続いた。
グリコは何も言わなかった。
急かすでもなく、慰めるでもなく、ただそこにいた。
その静けさが、妙に心地よかった。
張り詰めていた何かが、少しずつほどけていく。
「……なんでここにいるの」
チョキーナは、視線を落としたまま聞いた。
「先輩が心配で来ました」
グリコは、真っ直ぐに答えた。
「噂、聞きました」
「……っ」
「でも」
グリコは続ける。
「俺には関係ないので」
その言葉の意味を、チョキーナはすぐには理解できなかった。
「噂がどうとか、何があったとか、そういうことじゃなくて」
グリコは空を見上げながら、静かに言う。
「先輩が辛そうだから、来ました」
それだけだった。
説明を求めるでもなく、責めるでもなく、ただそれだけを言った。
胸の奥で、何かがじわりと溶けた。
ずっと冷えていた場所が、少しだけ温かくなる。
チョキーナは答えられないまま、ただ空を見上げていた。
それからグリコは、毎日中庭に来るようになった。
何かを求めるわけでもなく、ただそこにいる。
チョキーナが話せば聞き、話さなければ黙って隣にいる。
その繰り返しの中で、チョキーナは少しずつ言葉を取り戻していった。
周囲の様子も、少しずつ変わっていった。
廊下で視線が刺さることが減った。
食堂でも、声が止まることがなくなった。
グリコが隣にいる。ただそれだけで、誰も何も言えなくなっていった。
グリコが何者か、この学内で知らない者はいない。
チョキーナはそれを後から聞いて、初めて知った。
それでも普通に、隣に座ってくれていた。
ただそれだけのことが、胸の奥に静かに染み込んでいく。
「……グリコって、なんでこんなに優しいの」
ある日、チョキーナはそう聞いた。
グリコは少し考えてから、照れくさそうに答えた。
「先輩のこと、ずっと見ていたので」
「……え」
「遠くから、ずっと」
その言葉は、飾り気がなかった。
告白でも、口説きでもない。ただ、事実として言った。
チョキーナは何も言えなかった。
グリコは、今までの自分をすべて見ていた。その上で、隣にいてくれているのだ。
「……ずるいよ、そういうこと言うの」
「すみません」
グリコは笑った。
その笑顔が、どこまでも真っ直ぐだった。
なんだろう、とチョキーナは思った。
この人といると、息ができる。
肩の力が抜ける。
ずっと張り詰めていたものが、少しずつほどけていく。
そんなある日のことだった。
講義棟の前でチョキーナが立っていると、見覚えのある顔が近づいてきた。
パーダロだった。
その後ろに、ナニーツとクロウがいる。
「よ、久しぶりじゃん」
パーダロが、軽い口調で言う。
チョキーナの足が、すくむ。
「また遊ぼうぜ」
その言葉が、耳の奥で響く。
逃げたい。
でも、足が動かない。
その瞬間――
「パーダロさん」
静かな声が、横から割り込んだ。
グリコだった。
チョキーナの隣に、いつの間にか立っている。
笑顔だった。
穏やかな、でも目の笑っていない笑顔だった。
「僕を敵に回す自信、ありますか?」
低く、静かに言った。
パーダロはグリコをじっと見た。
何かを測るような目だった。
やがて、視線が逸れた。
グリコが何者か、知らないはずはない。
パーダロは軽く肩をすくめた。
「……いや、いい」
それだけ言って、パーダロは踵を返した。
ナニーツとクロウも、黙ってついていく。
三人の背中が遠ざかっていくのを見ながら、チョキーナはようやく息を吐いた。
「……大丈夫ですか」
グリコが、チョキーナを見る。
「……なんであんなに強いの」
「強くないですよ」
グリコは首を振った。
「ただ、先輩を守りたかっただけです」
その言葉が、じわりと胸に届いた。
守られている。
頼れる人が、隣にいる。
こんなに安心したのは、いつぶりだろう。
「……先輩」
グリコが、少し照れくさそうに言った。
「デート、しませんか」
真っ直ぐな目だった。
揺るぎのない、真っ直ぐな目で、チョキーナを見ていた。
チョキーナはしばらく、何も言えなかった。
でも――
「……いいよ」
気づいたときには、答えていた。
グリコの顔が、ぱっと明るくなった。
その笑顔を見て、チョキーナはほっとした。
ただ、それだけだった。




