第二百七話 野見と宿禰
その日、いつものように何度も立ち合った。
サイにまともに攻撃が当たり、膝を着いたらそこで止める。
立ち上がっても立ち上がらなくても、宿禰がそれまでと決めた頃合いなれば殴りかかる。
最近では殴りかかる前に立ち上がることが殆どだ。
膝をつく回数自体も減っている。
同じ加減で。いや、寧ろ少しずつ加減を強めながら戦っているが、大怪我をして次の日は動けなくなることなど、最近では全く無くなっていた。
宇治を出たばかりの頃は、動けなくなったサイの回復を待つため、一日中立ち往生する日もよくあった。
旅が遅れた理由もそこにある。
「よし、ここまでで良いだろう」
宿禰はサイに声をかけた。
サイは肩で激しく息を繰り返している。
近くで観ていた久志宇賀が力を抜くのが分かった。
宿禰がやりすぎた時に、いつでも止めに入れるようにしているのだ。
次の日に立ち上がれなくなったサイに、無理矢理稽古をつけようとした時、久志宇賀が密かに止めに入ったこともあった。
サイはそのことを知らない。
冷たく接しているがその実、久志宇賀はサイのことを大切に思っている。
サイは鸕濡渟の住処の近くに建てた、宿禰たちの家に向かって歩いていった。
その後ろからこっそりと、久志宇賀が追っていく。
「また見ていたのか」
二人の背中が遠くなったところで、宿禰は衣を正しながら、もう一人の見物人に声をかけた。
「仕方ないだろ。家の前で毎日騒がれたら」
見物人。
野見は動揺を誤魔化すようにそっぽを向いた。
年齢は十歳。
サイより二つ下だ。
子供らしくあどけない顔立ちだが、少し目を引くほどに、意志の強そうな精悍さが垣見える。
サイは父親の鸕濡渟に惹かれているようだが、宿禰はこの少年に興味があった。
「親父殿の食事は良いのか」
「うるさいな、これから用意しに行くつもりだったんだ」
鸕濡渟は取り憑かれたように、埴輪を作り続けている。
食事や睡眠など忘れてしまっているようだ。
息子の野見が面倒を見なければ、本当に死ぬまで土に向かい続けそうな気配まである。
「俺も付き合おう」
「は?」
「いい狩場を見つけたんだ。親父殿も毎日魚では飽きるだろう」
宿禰は軽く笑って歩き出した。途中家に立ち寄って、狩猟用の弓も持ち出した。
後ろを見ると、野見はちゃんと着いてきていた。
山に分け入った。
「近くにいろ。獣に気づかれたくない」
野見にそう言うと返事は無かったが、素直に言うとおりにした。
「猪の足跡を見つけてな。大体の行動範囲は掴んだ。こういう時の為に、手を出さずにしておいたんだ」
冬山は静かだが、全ての獣たちが眠りにつくわけではない。
猪は冬でも餌を求めて動き回る。
「豚も良いがな。やはり山の獣の方が旨い。喰っているという気にさせてくれる」
小声で野見に話しかけ続けるが、やはり返事はない。
だが、宿禰の言葉にはしっかりと耳を傾けているようだった。
「いたな」
途中足跡を追い、その先で三頭の猪の群れを見つけた。
「やってみろ」
宿禰は弓を野見に手渡した。
生唾を呑み込み、野見は受け取った。
震える手で弓を番え、構えを取った。使うのは初めてではないようだ。だが、猪を狩ったことはないようだ。
「首から上を狙え。もし外れたら、すぐに次の矢を番えろ」
野見は黙って頷いた。
「気息を整えろ。集中しろ。矢を当てる。今はそれだけを考えろ」
何度か呼吸を繰り返した。
猪たちは餌を見つけたのだろう。何度も繰り返し、地面の中に鼻面を押しつけている。
放った。
矢は一頭の胴体に吸い込まれた。
猪の叫び声が、静かな山を震わせる。
だが、致命傷ではない。一頭の猪は逃げ出したが、矢が刺さった一頭ともう一頭が、宿禰たちに突進してきた。
「二の矢を番えろ」
そう言って宿禰は茂みから飛び出した。
僅かに先を走る一頭。
牙を突き立て、宿禰に向かってくる。
すんでのところで宿禰は左に避け、すれ違いざまに顳顬を右肘で打った。
猪は数歩ふらふらと進んだあと、盛大に横倒しになった。
一頭は取りこぼした。
野見に向かった、矢が刺さった猪。
逃げ出さず、野見はその場で二の矢を構えていた。
「射て」
叫んだ。
放った矢は、見事に眉間に突き立った。
野見に届く前に軌道が逸れ、彼のすぐ隣でゆっくりと力尽きた。
「良くやったな」
野見の方へと近寄った。
目を見開き、何度も激しく呼吸をしていた。
「外した」
「二の矢は当てた。それでいい。俺と一緒にいるサイなどは、何度教えても、まともに当てることすら出来なかった。あいつよりは余程見所がある」
宿禰は猪の傍らに膝をつき、懐から石を削った刀子を取り出した。それで血を抜いて腑分けをした。
もう一匹も終わったところで、猪の肉を二切れ切り取った。
「喰ってみろ」
一切れを野見に手渡し、宿禰は肉を口に入れた。
血の味の奥から、脂の甘みが溢れてきた。
サイと久志宇賀は血を洗ってから食べたがるが、宿禰はそのまま喰らうのが好きだった。
野見は嫌な顔をせず、猪の肉を咀嚼していた。
「暗くなるまでは時間がある」
宿禰は野見と協力して火を熾し、猪の肉を焼きながら、二人で囲った。
夏場であれば、すぐに沢などで獲った獲物を冷やさなければならないが、冬であればその必要はない。
ここで腹を拵えてから、山を下りても問題ない。
「そろそろだな。良い物もある」
宿禰は麻を縫って作った小袋から、塩を取り出して焼けた肉にふった。
「喰え」
野見は串に刺さった肉に、おずおずと喰らいついた。
二口目からは、堰を切ったようになった。
そしてすぐに、二本目に取り掛かった。
宿禰はその様子を眺めながら、野見に負けないほどの勢いで、肉を喰らった。
最初の分では足りなくなり、すぐに焼き足した。
「……強いんだな」
ふと、肉を口に運ぶ手を止めて、野見が呟いた。
「まあ、そこそこな」
「あんた位に強ければ、父上を助けられたんだろうな」
「どういう意味だ」
野見は残った肉に思い切り喰らいついた。
一心不乱に串に刺さった肉を平らげると、手に残った串を放った。
「父上が韓から戻って、おかしくなって、山に籠もられた。最初は見つからなかったけど、俺だけはすぐに見つけた」
野見と鸕濡渟の親子の間で、何があったのかはサイ達から聞いている。
だが宿禰は黙って、野見の言葉に耳を傾けた。
「山で見つけた父上は、何か訳の分からないことを呟いたり、叫んだりしていた。時々、滅茶苦茶に剣を振り回してもいた。怖かった。鬼みたいだった。止めたかったけど、出来なかった。
父上は俺なんかよりも大きくて、強くて。俺が何をしたって敵いっこないって。そしたら別の大人たちが父上を見つけて、連れ戻しに行って……、それで、それで」
「皆、殺されたか」
野見は震えながら頷いた。
「俺は怖かった。父上が人を殺すのもだけど、父上がいつか、あの剣に殺されてしまうかもしれないって。それが一番怖かった。だから、俺は」
そしてようやく幼い勇気を振り絞り、父の前に立ったのか。
大した気概ではある。
そして、殺されかけた。
「俺が強くて、すぐに父上を止めていれば、こんな事にはならなかった。俺は弱くて、臆病で。今だって本当は、父上と一緒にいるのが怖いんだ」
鸕濡渟と関わるようになって数日。その間、父親の飯入根は、一度として顔を出すことはなかった。
おそらくあの男も、野見と同じように鸕濡渟を恐れている。
怖いと言いつつ傍を離れない野見は、寧ろ優れた胆力の持ち主だ。
だがそれを言っても、何の慰めにもならない。
「だから、強くなりたかったのか。だから、俺とサイの立ち合いを、ずっと眺めていたのか」
野見が頷いた。
「眺めているだけで、強くなれるのか。縮こまって、父親を見ているしかなかった時と、何も変わらんな。
父のために、他人に頭を下げることも出来んのか」
「俺は……」
「言え。お前はどうしたいんだ。何を求めているんだ」
「あんたは、父上を救えるかもしれないって、言ったよな。本当なのか」
「ああ」
「強いから、そんなことが出来るのか」
「そうだ」
「だったら、俺も強くなりたい。あんたなんかに頼らなくても、自分で父上を救いたい。あんたよりも、強くなりたい」
叫びにも似た声だった。
自分の全てを、悲痛な響きに乗せている。
「宿禰殿。頼む、俺に力をくれ」
答える代わりに、宿禰はもう一本、串を野見に手渡した。
野見は黙って、それに喰らいついた。
涙を流し、悔しそうに。
自分の非力を、呪いながら。
そんな感情が人にはある。
知っていはいる。だが、理解はできない。
宿禰は今まで、自分の無力を呪ったことはない。
悲しい、悔しい。
そんな感情とは無縁だった。
大叔父である吉備津彦との別れ際、宿禰は彼に言われた。
“お前は強いだけだ”と。
それは宿禰にも分かっている。
だが、どうしようもない。
弱い人間は強くなれるが、強い人間が弱くなるのは難しい。
人の弱さを知らぬ事が、宿禰の欠落であり、ある意味、弱さなのだろう。
ならば弱さを知り、それでも尚、強さを渇望して涙を流す目の前の少年は、もう自分よりも強いのかもしれない。
宿禰はそんな事をぼんやりと考えながら、自らも肉を喰らい始めた。




