第二百話 興味
社殿の奥には祭壇が設けられていた。
白木の棚の上に杯に盛られた酒や酒肴が並んでいる。
榊の枝も壁に掛けられており、小さな祭壇ながら厳かな雰囲気が漂っている。
だが、何よりも目を引くのは祭壇の前に天井から吊るされた大きな釜だ。
その真下には炉があり、朱い炎が窯を静かに熱している。
釜から立ち登る湯気に混じって、米の香りが鼻をくすぐる。
そしてその更に目の前に、五十狭芹彦と入れ違うように阿曽媛が座した。
三度上体ごと頭を下げたあと、ゆっくりと呼吸をし、祝詞を唱えはじめる。
社殿の間の出入り口に近い壁際に、俺は宿禰と探湯主、そして五十狭芹彦改め、吉備津彦が並んで座り、阿曽媛の姿を見守っていた。
「見事なものだろう、阿曽媛の祝詞は」
俺の隣には五十狭芹彦が座っている。
じっと阿曽媛に目を向けながら、俺に潜めた声で語りかけた。
「うん」
さっき僅かに聴こえた、五十狭芹彦の重く静かな祝詞とは、全く受ける印象が違う。
激しく、荒々しく、それでいて物悲しさを感じさせる、切ない祝詞だ。
「阿曽媛が祝詞を唱えるのは、必ず私の前にいる時だ。私にとってこの祝詞を聴くのは、耐え難い苦しみを伴う。民が慕った温羅という指導者を、父を、或いは夫を奪ったのが誰なのか。それを思い知らされるからだ。
阿曽媛の祝詞は、温羅の御魂に捧げる鎮魂の言葉だけではない。あれは怨みと悲しみで塗り固められた、私への呪言なのだ」
「けど、阿曽媛さんは言ってたぞ。吉備津彦には感謝しているって」
「それもまた本心なのだろう。だが、それで怨恨が消えるわけではない」
「そこまで分かってて、何で阿曽媛を傍に置くんだよ」
「贖罪、と言えば聞こえが良すぎるな。俗な私の感情による物だよ」
「どういう意味?」
「子供にはまだ早いか」
そう言って前を見る五十狭芹彦が、目を細めて微かに笑った。
そうすると、より一層目元の皺が目立った。
五十狭芹彦がなぜ笑ったのかは、彼の言う通りよく分からなかった。
祝詞が終わった。
阿曽媛は唱え終えたあとも、祭壇の前から離れようとしなかった。
五十狭芹彦が何も言わずにそのまま外に出たので、俺たちもそれに従って社殿の外に出た。
神域の静謐な空気を吸った瞬間、なにか思念の縄のようなものから、解き放たれたような気になった。
ナビも俺の横で、気持ち良さそうに伸びをしている。
「うーん、良いもの観させてもらったね」
「そうか」
聴いている時は、阿曽媛の思いが心に直接ぶつかってくるようで、美しい調べでありながら、悲しい気持ちにさせられた。
「そうだよ。吉備津神社に伝わる鳴釜神事の原型を観測出来たんだよ。すっごく有難いことじゃない」
心外と言う顔をして、ナビが俺に息巻いた。
「鳴釜神事?」
聞き覚えのない言葉に、俺は首を傾げた。
「説明して上げよう」
人差し指をピンと立て、ナビがそう言った。
なんか嬉しそうだな。
「いい? 伝承では吉備津彦こと五十狭芹彦が温羅を取り、その首をこの社殿の土釜の下の奥深くに埋めたそうなの。
だけど温羅の魂は鎮まらず、長年に渡って地中から呻き声を上げ続けた。
この地に住む人々は、その声にずっと恐怖し続けることになった」
声を低くし、ナビは“それっぽく”語る。
外もすっかり、月明かりだけが頼りの夜になっていた。
暗闇に微かに浮かぶナビの光が、余計に不気味さを演出していた。
話自体は良くある怪談話だから、それほど怖い訳ではないけど。
「そしてある日温羅の怨念が、五十狭芹彦にこう語るの。“我の心を鎮めたければ、妻である阿曽媛に我の首塚の前で神饌を炊かせるのだ”ってね。その後、温羅の怨念は満足して、唸り声も聞こえなくなった。めでたしめでたしってね。
その伝承の起こりにわたしたちは立ち合えたんだよ。これって凄いことなんだよ」
「確かに、いま俺たちが観たのとかなり似てるな。けど、阿曽媛たちのことを思うと、とてもめでたしなんて思えないよ」
「そりゃあね。けど、飽くまで伝承だから……」
ナビは少しはしゃぎ過ぎたと反省したのか、しゅんとした顔になってしまった。
「ていうかさ、お前やっぱり吉備津彦が五十狭芹彦だって分かってたんじゃないか」
「まあね。“吉備の桃さん”って時点で察しはついてたよ」
「だったら直ぐ教えろよ」
「だってキミが驚く顔見たかったんだもん」
それに関しては悪びれる様子は全くなかった。
こいつはホントに……。
「おい、何してる」
探湯主の声が聴こえた。
いつの間にか三人は先に進んで行ってしまっていた。
俺は声を上げて詫び、後ろから三人の後を追った。
先ほど足を運んだ、五十狭芹彦の屋敷に招じ入れられた。
簡単な酒肴と酒が並んでいる。
酒は俺の前にも置かれていた。
この時代に飲酒法なんて無いわけだけど、一応十二歳の俺は呑まないでおく。
そもそも酒は好きじゃないんだよね。
「改めてご挨拶させて頂きます、大叔父殿」
「于道朱君殿に大叔父と呼んで貰えるとはな。誇らしい限りだ」
恭しく礼をした宿禰に、五十狭芹彦が微笑みながら頷いた。
ていうか、大叔父って言ったか?
「え、親戚なのか」
「ああ、吉備津彦殿の兄上が、俺の祖父に当たる」
「てことは、もしかして宿禰って王族なのか」
「知らなかったのか。宿禰殿の祖父君は先代根子彦様の御父君。今の御眞木入日子様とは従兄弟同士だ」
探湯主が俺に説明をしてくれた。
根子彦ってのは先代の大和国王だ。
後の第九代、開化天皇に当たる。
「いや、全然知らなかった」
「と言っても、俺は傍系だからな。大した身分ではないさ」
血筋を鼻に掛けることなく、宿禰はさらりと言ってのけた。
「そちらの二人は初めてだったな」
「はい。私は大和の神事を任されております、神聞勝の息子、久志宇賀と申します」
「ほう、神聞勝の倅か。で、そちらの少年は」
「サイと申します。奴婢の子供で、小間使いとして連れ歩いております」
探湯主が澄ました顔で説明した。
こいつは何かって言うと奴婢奴婢って。
まあ、その通りなんだけど。
「ただの奴婢が、このような旅に着いてこられるものか。何かある。私にはそうとしか思えんな」
「ご慧眼ですな、大叔父殿。サイは女王より神憑きの子供として見出されたそうです。その呼び名も、女王より賜わったものなのです」
宿禰のその言葉を聞いた時、五十狭芹彦は出会ってから最も強い反応を示した。
驚いたような、何かに気づいたような。
そして、懐かしむような。
息を呑み、そしてゆっくりと吐き出した。
「女王……、台与様か。神憑き、そしてサイ。なるほどな……」
「吉備津彦様、何やらご納得の様子と見受けられます。豊鍬入媛様がサイに目を掛けられる理由について、他に心当たりがお有りなのですか」
五十狭芹彦の態度に目聡く気づき、探湯主が問い質すような口調で声を掛けた。
「女王はとある御仁と、この少年を重ねておられるのだ。サイという名も、そこから来ておるのだと思う」
どきりとした。
流石は五十狭芹彦だ。
当たらずとも遠からずといったところだ。
「その御仁とは」
探湯主が身を乗り出した。
台与に対して程ではないが、一応上の者には礼儀正しいこいつにしては珍しい。
台与の事になると、やはり平静ではいられないようだ。
「持衰様」
「持衰?」
「先代の女王に仕えておられた御方だ。男子はそのお姿さえ目にするのを禁じられた御子王に、持衰様はただ一人、近侍することを許されていた」
「俺が昔、筑紫へ訪れた際に、そのような御仁がかつてお見えになったと聞いた覚えがあるな。それが、その持衰様という訳か」
宿禰が思い出したように呟いた。
宿禰はかつて辰韓と大和の戦に際し、助力を乞いに筑紫へ赴いている。
台与との縁もそこで出来たのだ。
「そ、その持衰という男は何者なのですか。なぜ、男子でありながら女王の傍に侍ることが出来たのですか。豊鍬入媛様とも面識が有るということなのですか。
ま、まさか豊鍬入媛様は、その男のことを慕っていた訳ではないでしょうね」
いや、そんな訳あるかい。
台与は俺にとって孫みたいなものだぞ。
俺は探湯主を抑えようと腰を上げた。
「落ち着け、久志宇賀」
だがそれを実行に移す前に、五十狭芹彦が声を出した。
優しいが、有無を言わさぬ迫力があった。
「も、申し訳ございません」
流石に自分の醜態を自覚した探湯主は、咳払いで取り繕い、綺麗に座り直した。
「持衰様や女王については、またゆっくり話してやろう。今は一度、このサイと二人きりで話しをさせてくれ」
「え、二人で?」
「嫌か?」
「いや、そんなことないけど」
五十狭芹彦は前世の俺と因縁浅からぬ仲だ。
口が滑って余計なことを言ってしまわないか、ちょっと心配になる。
「吉備津彦様、サイとお二人で語られるのは構いませぬが、先ずは豊鍬入媛様からの御用向きをお伝えさせて頂けないでしょうか」
「それもサイから直接聞こう。この少年なら女王のご意向も、充分に理解しているのだろう」
「……承知しました」
飽くまでも俺と二人で話すスタンスを崩さない五十狭芹彦に、とうとう探湯主は根負けしたようだ。
一度頭を下げて暇を告げると、ゆっくりと立ち上がった。
「では俺も。サイ、後は頼んだぞ」
そう言って宿禰も五十狭芹彦に軽く礼をして、探湯主に続いて外へ出ていった。
後には俺と、少し目を輝かせた五十狭芹彦のみが残されたのだった。




