第百九十九話 古き戦友
宿禰にしごかれ続ける地獄の旅程も、ようやく終わりが近づいてきた。
俺の時代においての岡山県。
吉備の国にようやく辿り着いたのだ。
ここに台与が筑紫を救うために会うべしと指定した人物の一人、“吉備の桃さん”がいる。
「この先にある川を渡れば阿曽の里はすぐ目の前だ」
先頭を行く探湯主が後ろに向かって声をかけた。
「や、やっとか」
俺は精根尽き果てかけた状態で、呟いた。
「ふむ。もう二、三泊しても良かったのだが」
「勘弁してくれ」
大和を発って十日余り。
その間、毎日時間さえあれば俺は宿禰と立ち合い続けた。
いや、あれは立ち合いなんかじゃない。
殆ど一方的に痛めつけられていただけだ。
宿禰の暴力から身を守るのが精一杯で、反撃など一切行うことが出来なかった。
最初のうちは気づいたら気を失っていることも多かった。
ただ、初めてこいつと戦った時のように、動けなくなる程の怪我を負うことはなかったので、一応手心は加えられていたようだ。
だからこそ、怪我を理由に修行を休む事が出来なかったので、ある意味かなり残酷とも言える。
「そうは言うが、お前は日を重ねる毎に強くなっていたぞ。旅を始めた頃とは別人だ」
「そりゃ、あんだけやられればね」
だめだ。
思い出しただけで吐き気が。
もうトラウマになってそう。
「相変わらず武の才は感じられないのに、不思議な男だ。女王のお見立てにはやはり感服するしかないな」
「褒めるかディスるかどっちかにして」
こいつの強さは素直に尊敬するけど、一緒にいるのは恐怖でしかない。
宿禰と戦った時は身を案じてくれた探湯主も、旅の間は一切助けてくれないし。
「見えたぞ。あれが血吸川だ」
「血吸川?」
先を行く探湯主の背中に向かって、俺は声をかけた。
「ああ。二十年近く前から、この川はそう呼ばれているそうだ」
「何だかおっかない名前だな」
「サイ、あれを見ろ」
「え?」
急に探湯主が、行く先に聳える山を指差した。
目を凝らすとその頂上付近には、柵や物見櫓のようなものが見える。
高地性の集落。或いは砦のようにも思える。
「あそこにはかつて、鬼と呼ばれる男がいた」
吉備の鬼。
それってまさか。
「その名を温羅と言う。温羅はかつて大和に対して反旗を翻した。直ちに討伐の軍は差し向けられ、追い詰められた温羅とその仲間たちは、この川で討ち取られた。
その時に流れ出た血で、この川は朱く染まったそうだ。それを見た地元の者たちが、いつしか血吸川と呼ぶようになったらしい」
温羅。
知っている。
会った事はないがその名前は。
そして、そいつを討った男の名も。
「もしかして、これから会う桃さんってのが」
「ああ、その温羅を討ち取った御方だ」
「名前は」
「吉備津彦様だ」
…………誰。
血吸川を渡り、俺たちは阿曽の里へと辿り着いた。
鉄の匂いと炎の熱気に包まれている。
ここは鍛冶の里でもあるらしい。
方々から金槌が金属を叩く音が木霊している。
「この地は古来より、鋳造が盛んな地として有名だった。かつて温羅が治めていた時もな。吉備津彦様もそれを奨励している。ここで打たれた青銅器は、大和を中心に倭国内に流通しているのだ」
「なるほど。青銅器はこの地の特産品って訳ね」
すっかりツアコンのポジションに収まった探湯主の話しを聞きながら、俺と宿禰は彼の後ろに続く。
「で、肝心の吉備津彦は何処にいるんだよ」
「正確な場所を私が知るはずがなかろう。だから調べてこい」
「どうやって」
「そこの鍛冶場の近くで休んでいる男がいるだろう。奴に尋ねてこい」
「へいへい」
俺は鍛冶師に近づいていき、吉備津彦の居所について尋ねた。
大和の大夫の一行だと伝えたら、丁寧に説明してくれた。
交流のある地域なので、通りは良いみたいだ。
後ろで控える宿禰と探湯主の出で立ちを見れば、平民でないのも一目瞭然だしな。
ただ、男の答えは俺たちにとっては、少し面白くないものであったのだが。
「ここから東か」
「ああ」
返事をしながら、宿禰が腕を組んだ。
吉備津彦の居場所は分かった。
だけどそこは阿曽の里から東にある、吉備の中山と呼ばれる山の麓だった。
「通り過ぎてしまっていたわけだな」
そういう事なのだ。
俺は呆気に取られている探湯主に目線を送った。
これでまた筑紫が遠のいた。
「申し訳ございません、宿禰殿」
「仕方ないさ。慣れぬ土地で馴染みのない人物に会おうと言うのだから」
宿禰が探湯主を擁護した。
「まあ、そうだけどさ。ただ、宿禰は吉備津彦のことを知ってるんだよな」
「ああ。大和にまだお見えだった時に、何度か顔を合わせたことがある」
「え、大和出身なのか」
「大和から派遣された軍だと言ったろ」
だとしたらやっぱり、吉備津彦の正体って……。
「幸い中山はそれほど離れていない。今から急げば今日中にたどり着ける」
探湯主と俺は二人で頷き、直ちに東へ向かって引き返すのだった。
二時間ほどかけてこの地の中心地であり、それが名前の由来となった吉備の中山に辿り着いた。
麓にある集落の奥にあるのが茅葺宮と言われる、吉備津彦が住まう屋敷だった。
訪った俺たちを出迎えてくれたのは、阿曽媛という三十後半くらいの女性だった。
それなりに美しい顔立ちだが、どことなく暗い雰囲気で、あまり美人だという印象は受けなかった。
「吉備津彦様はこの近くの祭殿にて、ご祈祷をなされております。ご案内いたしましょう」
淡々とした調子で俺たちにそう伝え、ゆっくりと歩き出した。
ここで普通に暮らしてるってことは、吉備津彦の妻か侍女だと思うのだが、供回りもつけずに自ら案内役を買って出たのに違和感がある。
「あの、すみません。阿曽媛さんは吉備津彦とはどうゆう関係なんですか」
興味本位で尋ねてみた。
それにこの人、自分からは何も喋らない。
ずっと沈黙したまま歩くのは、少し気まずいし退屈だ。
「様くらいつけろ莫迦」
「痛て」
探湯主に後ろから頭を小突かれた。
けど、阿曽媛は俺の言葉遣いを、特に気にするような様子は受けていなかった。
「情けを受け、世話をして頂いているものです。本来は殺されるはずの人間でした」
「殺されるって、穏やかじゃないな」
「……私は温羅の妻でしたから」
「温羅の」
「はい。温羅は殺されましたが、吉備津彦様は骸を丁寧に葬って下さいました。それだけでなく、反抗しない限りは温羅の一族郎党の命も、あの方は安撫して下さいました。あの方には、感謝してもしきれません」
言葉の内容とは裏腹に、阿曽媛の言葉は暗く沈んでいた。
嘘をついているようには感じない。
だけど、反逆者とはいえ夫は夫。
彼女の悲しみは理屈で拭われることはないのだろう。
「着きました」
結局、祭殿までの道すがらは、重い沈黙に押し潰されてしまっていた。
けど、気を病んでいたのは俺だけみたいだ。
探湯主はそもそも興味がないようだったし、宿禰はずっと無表情で、阿曽媛の話しに何を思ったのかは窺い知れなかった。
「ご足労をお掛けしましたな、阿曽媛殿」
宿禰が阿曽媛に対して初めて口を開いた。
「いえ、かつての夫に偶に会うのも、悪くはないでしょう」
「ほう、つまりそれは」
「温羅は吉備津彦様により、この祭殿にて供養されております」
祭殿の敷地は、三方が木々に囲われている。
おそらくは祭殿の為に木を伐り倒して、場所を作ったのだろう。
飾り気のない広場の奥に、子供の背丈ほどの高床の上に据えられた、いわゆる社殿のような建物だけが、ぽつりと建てられていた。
これまた飾り気はない。
高床式で、造りが少ししっかりしている意外は、ちょっと裕福な豪族の屋敷と違いはない。
近づくにつれて、大きな鐘を鳴らしたような重い響きと、それ以上に低い声で読み上げられる、祝詞の奏上が耳に届いきた。
「この声が」
「吉備津彦様です。温羅を葬ってからは毎日、ここへ訪れて温羅の魂を鎮めておいでです」
社殿の前で立ち止まり、阿曽媛が呟いた。
「逆賊とはいえ、温羅はこの地の民にとっては、良い領主には違いありませんでした。吉備津彦様はそんな温羅に対して、このように敬意を示して下されます。民たちの悲しみは、それで幾らか和らぎました」
民たちは、か。
阿曽媛は祝詞の声が止むまでたたじっと、抜け殻のような表情で、社殿を見つめ続けていた。
「吉備津彦様、阿曽で御座います」
祝詞が止むと、阿曽媛は社殿の前に立ち、中へ向かって声をかけた。
この時代なので扉などはなく、屋内の様子がそこから垣間見えるが、中の人物の姿までは確認出来なかった。
「おお、阿曽媛か。お主も温羅に、祝詞を捧げに参ったか」
「それも御座いますが、ご客人をお連れいたしました」
「客人だと」
床が軋む音が聴こえてきた。
影が見え、その影に夕陽が当たる。
白い髪と、同じ色の豊かな口髭。
隆々とした筋肉。
やはりそうだ。
最後に会った二十年近く前よりも、顔の皺は深くなっているが、俺の知るあの男に、間違いはなかった。
「五十狭芹彦」
「……その名で呼ばれるのは、久方振りだな」
そう言って五十狭芹彦は、夕陽に目を細めながら、俺の姿を見下ろした。




