第百九十六話 試されし者
「サイ、何を馬鹿な事を言っているんだ」
久志宇賀の声が、屋敷の中に響き渡った。
だがそんな声などまるで耳に入っていないかのように、サイは宿禰を見つめ続けている。
宿禰もまた、僅かな殺気を込めて睨み返した。
子供が耐えられる圧ではない。
だが、サイは微塵も怯む気配を見せなかった。
歴戦の戦人のような胆力だ。
「聴いていただろ。宿禰殿は昔于老を討った達人だ。三韓で于道朱君と言えば、知らぬ者は無いほどにその名は鳴り響いているのだぞ」
「于道朱君?」
サイは久志宇賀に問い返した。
だが、目線は全く外さなかった。
「向こうでの宿禰殿の呼び名だ」
「宇治宿禰……、ああなるほどね」
韓の言葉と結びつけたのだろう。
納得したように一人でに頷く。
その仕草もまた、妙に大人びている。
「だったら尚更だな。台与の為に戦うほどの力があるのか、俺がここで見極める」
「莫迦を言うな。そもそもお貸し頂くのは兵たちだ。宿禰殿ご自身の力を測っても仕様がないだろ」
そして久志宇賀が、宿禰とサイの間に立ち塞がった。
「無礼をお許し下さい、宿禰殿。どうか子供の戯言と聞き流し、豊鍬入媛様の為に、御力をお貸し願いたい」
サイの態度に腹を立て、自分が助力を断ることを懸念したようだ。
端正な顔を歪ませながら、必死に久志宇賀は頭を下げている。
「案ずるな久志宇賀。言っただろう。俺は女王に多大なるご恩がある。あの方の御力になれるのであれば、寧ろこちらから助力を願い出たい程だ」
「かたじけない、宿禰殿」
安堵の表情を浮かべながら、久志宇賀は顔を上げた。
「だがな久志宇賀。俺が女王の為にお前たちと共に戦うには、ここに居るサイ殿に認めて貰わねばならないようだ」
宿禰は久志宇賀を押しのけ、サイの目の前に立った。
頭二つ半は小さい。
近くに立つと、その身長差がより一層際立つ。
それでもやはりサイは、全く気後れすることなく、静かな気迫を込めた目で、宿禰を睨めつけている。
「宿禰殿、貴方程の方が、子供相手に何をむきになっているのですか」
むきになどなってはいない。
ただどうしようもなく、この少年に興味を引かれるだけだ。
それに宿禰が彼の挑戦を断ろうとも、向こうがそれを承知しないだろう。
「……そんなの分かってる。けどな……」
サイが何かをぶつぶつと口にしている。
久志宇賀に言っているのかと思ったが、そうではないようだ。
「……それに十年以上戦ってなかったんだ。筑紫に行く前に、感を取り戻さないとな……」
気が狂ったのかと思ったが、そうでもなさそうだ。
サイの目は、正気を失っていない。
「誰かと話しているのか」
「……ん、いや、独り言。悪い、気にしないでくれ」
慌てたようにサイが答えた。
この時だけ、微かな動揺が見られた。
久志宇賀が特に気にする様子がないので、サイの独り言は珍しく無いのかもしれない。
「そうか。……サイ、俺が女王の為に戦うに値するかどうか。見極めたいと言ったな。ならば俺は力を示す為に、全力を尽くそう。女王の御為とあらば、俺は子供相手にも容赦はせぬぞ」
脅しでも何でもなく、宿禰は本気で言っていた。
事実、宿禰はサイを子供だとは思っていない。
先ほどからこの少年に対し、まるで目上の人間と接しているような感覚にさえなっていた。
「ああ、そうしてくれなければ困るからな」
外へ出た。
ただならぬ雰囲気を纏う宿禰たちを見て、慌てて屋敷の者たちが近づこうとしてきた。
宿禰はそれを手で制した。
敷地内の中央。比較的開けた場所まで歩き、立ち止まった。
宿禰とサイを取り囲むように、久志宇賀や他の人間たちが並ぶ。
「得物は何がいい。用意させよう」
「それには及ばない」
そう言ってサイは、懐から黒く輝く刀子を取り出した。
黒耀石を削って作られた物だろう。
宿禰の前腕よりやや短い位の長さだ。
持ち手は細く切った麻布のような物が巻かれている。
鉄器が普及し始めた今は、戦で使われることは少なくなってきたが、未だ狩りなどでは多用される。
人を殺す力も、充分にある。
身体が未発達なサイにとっては、最も適した武器だろう。
「宿禰、お前の武器は」
「俺は素手でいい」
「そうか」
サイは落ち着いた動作で構えを取った。
舐めているのかと不平を垂れてくると思ったが、予想が外れた。
そこまで自身を過信もしていなければ、宿禰を侮ってもいないという事か。
やはり子供離れしている。
宿禰は気息だけを整えた。
構えは取らず、両腕は垂れ下がったままだ。
サイの方から動いた。
堂に入っている。
闇雲に突っ込んで来たわけではない。
宿禰の股間の急所に目掛けて、素早く刀子を振り上げた。
僅かに後ろに下がる。
サイの斬撃が空を斬る。
だが、宿禰の胸の辺りまで高さが来たときに、その軌道が突如変わった。
予定したように逆手に持ち替え、今度は振り下ろす。
心の臓。
正確に無慈悲に、切っ先が迫る。
手刀。
サイの手首を叩く。
つもりだった。
サイが身体を半回転させながら、宿禰の懐に潜った。
刀子を手にしていた逆の左手で、手刀を放った宿禰の手首を押さえた。
回転の勢いを利用し、宿禰の腕を流そうとする。
「……ちっ」
サイの苛立ちの声が上がる。
体重と勢いの乗った受け流しを、宿禰は強引に力で止めた。
左拳。
顎を目掛けて突き上げた。
サイの眼。
視えている。
いや、“観られている”。
思い切り顔と背中を仰け反らせ、サイが拳をやり過ごした。
体勢の崩れた状態のまま跳び上がり、足と左手で宿禰の身体を押し、後ろに飛んだ。
そのまま地に倒れ込んだが、受け身を取りながら素早く立ち上がった。
観衆が息を呑む気配がある。
「中々やるな、于道朱君」
「認めて貰えたか、サイ」
「まだまだ」
今度は歩み寄るように距離を詰めてくる。
宿儺はまだ、構えを取らない。
「遠慮しないんじゃ無かったのか」
間合いに辿り着いたサイが、刀子を振った。
左の肩口に斜めから喰い込む一撃。
半身を下げて躱す。
間髪入れずに次の斬撃が放たれる。
避け、時にいなしながら、宿禰はサイの力を測る。
速さも力も平凡以下だ。
人並みの農夫程にも、肉体は鍛えられていない。
そして武の才も全くと言っていい程感じられない。
――だからこそ不気味だ。
場に慣れている。
そして戦いを知っている。
圧倒的な経験を積んだ、歴戦の兵士のような振る舞いだ。
効率よく、迷いなく、そして時に意表を突く動きを、次々と繰り返している。
だが、何よりも宿禰と“勝負になっている要因”は、サイの異常なまでの反応速度だ。
突き。
それを受け流す。
直後、宿禰は右拳を真っ直ぐ突き出した。
反応仕切れない速さと頃合いだ。
にも関わらず、サイは髪の毛一束ほどの間合いで何とか躱す。
顔には汗が貼り付き、目は緊張で血走っている。
余裕は無いのだろう。
だが、躱し続ける。
「……嫌な眼だ」
戦いの最中だというのに、サイの視線が宿禰と絡みついた。
闘志の奥にある、妖しい光。
サイの“力”は、確かに驚嘆に値する。
だが、飽くまでも驚きに過ぎない。
宿禰に恐怖を与える程ではない。
それなのに、サイと視線を合わせた瞬間、宿禰は背中に怖気が走った。
視られている。
観られている。
観察されている。
この俺が。
サイは間違いなく、死に物狂いで戦っている。
だが、それと同時に、冷静に自分を見定めようとしている視線を感じる。
避ける動き、攻撃の瞬間、足運び、体捌き、息遣い、目線。
全身を舐め回すように、一挙手一投足を見つめられている不快感。
嫌な眼だ。
本当に。
怖いのか。俺は。
この眼が。
面白い。
本当に。
サイの振り下ろし。
手の平を広げ、迎える。
振り切る前に、サイが飛び退く。
当然だ。
膂力の差は歴然だ。
掴んだ瞬間、勝負は決する。
踏み込んだ。
サイが空けた間を一気に詰める。
前蹴り。
飛び込んだ宿禰の顎に目掛けて繰り出される。
僅かに右に。
サイの蹴りが頬を掠めた。
火で焼かれたような痛みが走る。
右拳。
腹にめり込む。
後ろに飛んだ。サイが。
威力を殺された。
完全ではない。
倒れはしなかったが、サイが咳込んだ。
更に詰める。
刀子。
眼前。
飛んでいる。
武器を放ったのか。
左手で払う。
刃で皮が刻まれ、僅かに血が噴き出る。
サイが走り込んできた。
刀子で宿禰の気を逸らした。
だが、それは自分にも視えていた。
サイの回し蹴り。
掴んだ。
それなりの衝撃が手に伝わる。
終わりだ。
跳んだ。
飛び膝蹴り。
宿禰の鼻柱を狙っている。
僅かに上体を下げ、頭突きを放った。
骨と骨がぶつかる音。
サイの呻き。
だが、まだ終わらない。
強引に足を払い除け、宿禰の首に巻きつけた。
極められる。
久志宇賀の技の応用か。
サイの手が頭部にかかる前に、思い切り腕を突き上げた。
その手がサイの顎を掴んだ。
渾身の力で、そのまま振った。
絡みついた足も僅かな抵抗を見せた後に振り払われ、サイは背中から地面に激突した。
全身の空気が漏れ出る音がした。
胸を抑え、青黒くなった顔で叫びにならぬ叫びを上げる。
立ち上がった。
手には刀子。
宿禰が払った。
振り払われた時のことさえも、見越していたのか。
だがここまでだ。
サイの呼吸は戻っていない。
踏み込む。
サイの眼は、確かに宿禰を捉えている。
だが、もう身体はついてこないだろう。
放った右拳が、まともにサイの左頬に入った。
右頬、腹。
拳と膝蹴りを入れた。
サイの眼が光る。
まだ、俺を観ているのか。
「宿禰殿」
久志宇賀の叫び。
「分かっている」
息を乱すことなく、宿禰はそう答えた。
横顔を向けて、サイが足元に転がっている。
その瞳にはもう、あの光は宿っていなかった。




