第百九十四話 敗北の烙印
「……何が聞きたいんだ」
探湯主の心底不本意そうな顔が、炉の灯りに照らされて浮かんだ。
どちらかと言えば秀麗な顔立ちなのに、その表情のせいで陰気に映る。
「そうだな……、探湯主ってさ、今幾つなんだ」
取り敢えず当たり障りない質問から始めることにした。
「予想以上につまらない質問だな……」
当たり障りなさ過ぎたみたい。
薪の爆ぜる音にため息が混じる。
「二十四だ」
かなり素っ気ないけど、一応は答えてくれた。
この調子なら、何とか話しを繋げられそうだ。
「探湯主は神職なんだよな」
「そうだ」
「何でそんなに強いんだ」
「強い。私がか」
台与の前で俺を組み敷いた動き。
只事ではなかった。
神様に祈ってるだけじゃ、あんな動きは出来ないはずだ。
「台与は載斯烏越じゃなく、お前を俺に付けた。それだけ腕を買われてるってことだろ」
「三輪山の神を崇め奉るなら、その山に抱かれてみたいと思うのは当然だろう。山の中に遊べば、自然と身体も鍛えられる」
「俺に使った技は。人を相手にしないと身に付かないだろ」
「三輪の神域を侵す不届き者は時折現れる。そいつ等をのしている内に、人の倒し方も覚えた」
さして面白くもないと言った様子で、探湯主は俺に答えた。
こいつ、どちらかと言えば線の細い貴公子って雰囲気なのに、意外と野性的なんだな。
それに我流でここまでの力を身につけられるところを見ると、武術の才にも恵まれているようだ。
台与が選んだ時点で間違いは無いってことか。
「ふーん、そっかそっか。じゃあ、後は」
「いい加減にしろ。上辺だけをなぞるような話しに付き合うつもりはない」
探湯主が厳しい目を向けてきた。
やっぱり見透かされてるよな。
こいつに興味があるのは本当なんだけどな。
「なら言わせてもらう。お前、何で台与を豊鍬入媛って呼ぶんだ」
「……どういう意味だ」
低く、鉛のように重い声だった。
場の空気が冷える。
炉が上げる炎の熱さが、まるで感じられなくなる。
だけど俺ももう、この雰囲気を取り繕うつもりは無い。
「台与が筑紫の女王であることは知っているよな」
「……ああ」
「筑紫は魏の後楯を失い、狗奴国により存亡の岐路に立たされている。それで已む無く、大和に庇護を求めた」
「偉そうに語るな。筑紫まで豊鍬入媛様をお迎えに上がったのは、この私と父だ」
それでか。
台与が大和に来たのはつい最近だ。
そんな短い期間で、良くぞここまで入れ込んだものだと思っていたが、旅上を共にする過程で、探湯主は台与に心酔していったのだろう。
「台与は大和に護られる代わりに、御眞木彦王の娘となり、名を送られた。それが“豊鍬入媛”だ。でもその名前は台与にとって、敗北の烙印だ」
一瞬だけ、炎が激しく揺れた。
探湯主の顔が闇に溶ける。
声を発することはなかった。
俺の次の言葉を、ただ待っている。
「御眞木彦は手を取り合っていた筈の筑紫を救うつもりは毛頭ない。御子王の神聖を取り込み、緩やかに筑紫の記憶を風化させ、女王台与の存在を抹消する。それが台与が、豊鍬入媛になるって事なんだ」
それなのにこいつは、台与を豊鍬入媛と呼ぶ。
完全な大和寄りの人間ならそれも分かる。
だけど探湯主は、心から台与のことを思っている。
「なのに何故お前は、豊鍬入媛と呼ぶんだ」
見定めたかった。
探湯主を。
台与の為に、共に働くに値する男なのかを。
相変わらず、探湯主は言葉を発しない。
俺も黙って見つめ続けた。
こいつの答えを聞くまでは、これ以上何か言うつもりはなかった。
「お前は思い違いをしている」
そう一言、探湯主が呟いた。
静寂に、雨音が一つ落とされたような声だった。
「思い違い?」
「豊鍬入媛様という御名は、烙印などではない。それは証しだ。かの御方を、大和の太陽の巫女としてお迎えしたことのな」
「烙印ではなく、証……」
「豊鍬入媛様は筑紫の女王ではなく、大和の日の巫女となられた。だからこそ、我らは何があろうとも、あの方を守り抜く。その覚悟の証しだ」
冷たかった探湯主の声に熱が籠る。
台与の事になると、やはりこいつは冷静ではいられなくなるようだ。
「“台与”だけでは不足なのだ。日の巫女には、相応しい名が必要となる。この大和ではな。だからこそ、豊鍬入媛という御名をお名乗り頂くのだ」
熱く拳を握りながら、俺に熱弁する。
その瞳に炎が宿る。
炉の灯りが映っているだけなのだが、俺は探湯主の瞳そのものが、燃えているように感じた。
「台与だけだと不足ってのは、どういう意味だ」
「あの御方の偉大さを、それだけでは表現仕切れぬだろう」
なんだそれ。
長い名前の方が良いってこと?
「“良い”言葉がより多く組み込まれてる方が、名前としての“格”が高いんだよ。筑紫にはこの文化が無かったから、キミに馴染みがないんだろうね」
会話を聞いていたナビが口を挟んだ。
と言ってもこの声は、俺にしか聴こえない訳だが。
「この風習は後々の世にも受け継がれていくよ。記紀に記された歴代天皇の和風諡号もかなり長いしね。キミの時代だって高いお金を払うほど、戒名の構成が増えたり、位号のランクが上がるでしょ」
考え方としては、ピカソのフルネームみたいなもんか。
「豊鍬入媛……」
俺は口の中で、小さくその名を転がした。
鍬は農の象徴。
それが豊む。
しかも王族の証しである“入”という言葉も入っている。
五穀豊穣を表した、この時代においては最高位の名前だ。
「御眞木入日子様のご真意は私には何も言えん。だが、私が豊鍬入媛様とあの方をお呼びするのは、それが私の信心の表れだからだ」
迷いのない、強い意志を感じる。
俺に台与への気持ち信じさせる為の言葉ではない。
ただ、台与への真心を疑われた事が、探湯主にとっては我慢ならなかったのだろう。
「そしてもう一つ。豊鍬入媛様は、女王などというお立場に拘ってはおられない。それがサイ、お前の一番の思い違いだ」
「探湯主……」
「あの方は権威など欲してはいない。私自身も、このまま豊鍬入媛様には、女王の座から退いたままでいて頂きたいと思っている。
筑紫の連中は、年端もいかぬ豊鍬入媛様に、国の命運の責任を負わせた。それはあの方にとっての不幸だ」
探湯主の顔に怒りが滲む。
筑紫人間たちを、心を呪うような。
俺にとってそれは、自分自身に向けられた怨嗟でもある。
「探湯主、俺も分かってるよ。台与は女王で在るべきではない。ただの普通の、何処にでもいる女の子で居られる筈だったんだ……」
だから俺は、大和に台与を預けた。
心の奥の奥底で、もしかしたらこうなる事を分かっていたのかもしれない。
御眞木彦に台与を預ければ、どうなってしまうのかを。
筑紫のためと言いつつも、俺は心の底の底で、国よりも台与個人の幸せを、選んでしまっていたのかも知れない。
「サイ、だから俺は本当は、筑紫の連中のことなどどうなってもいい。だが、私は奴らを命に賭けても守るつもりだ。なぜなら……」
「それが台与の大切な人たちだから。だろ」
「お前……」
俺は探湯主に笑いかけた。
台与の為に全てを投げ打とうとするこの男が、かつての俺と、タケルの姿に重なった。
「悪かった、探湯主。疑うような質問をして。良く分かったよ、お前が台与のことを、大好きだってことが」
「はあ? な、なななな、何を、お前は。す、好きとかお前そんな。そんなこと。そ、そんな俗な感情を、わた、私が豊鍬入媛に。そんな畏れ多いこと、」
台与の人を視る目は、俺なんかより確かだ。
要らぬ懸念だとは分かってた。
でもどうしても、心配になってしまった。
台与の事になると冷静でいられないのは、俺も一緒だったみたいだ。
「ジジ馬鹿だよね」
「うるさいな」
ナビの誂いに、笑って返した。
「サイ、お前聴いてるのか」
何やら焦りながら弁明する探湯主の声が、暫く止むことはなかった。




