第百九十二話 守られた願い
台与の元から帰った俺を、主人は熱い感涙で迎えてくれた。
載斯烏越に連れ去られた俺は、直ぐに殺されて川にでも流されたと思っていたのだそうだ。
奴婢。
つまり奴隷って言うと、鞭打たれて朝から晩まで働かされて、食事もまともに与えてもらえない。
そんなイメージだった。
勿論、それに近い境遇の人間もいるみたいだし、それを裁く法律などもない。
だけど、皆が皆そうだという訳ではない。
俺の主人のように、奴婢のことも人間扱いしてくれる人もいる。
涙を流して俺の無事を喜んでくれるこの人の思いは、素直に嬉しかった。
ただ、生還した俺が主人に伝えた言葉は、生きて帰って来たこともよりも、この人を驚愕させたようだった。
「つ、筑紫に行くだと」
「そーなんすよ、何かそんな事になっちゃって」
「な、何でそんな事に。流罪ということか」
「いやいや、そういうのとは違うんです。なんて言うか、お手伝い?」
「お手伝い?」
「うん、台与……、巫女様に頼まれて」
「巫女様? 巫女様って、あの巫女様か」
主人は神殿のある方角に顔を向けた。
「そうそう」
「下手な嘘をつくな。巫女様がお前ごときに頼み事などされる筈ないだろう。お前、まさかこの騒ぎに乗じて逃げ出すつもりか。そんなに、俺に仕えるのが嫌だったのか」
「そんなこと。そもそも、それならわざわざ戻ってくる訳ないでしょ」
俺は慌てて否定したが、主人の疑心の眼差しは変わらなかった。
確かに突拍子もない。
俺が何を言っても、簡単には信じてくれないだろう。
「主人よ、俺からも説明させてくれ」
身を潜めて様子を窺っていた載斯烏越が、俺の後ろからのそりと現れた。
「た、大夫様」
逆さまに流れる川を見たかのような顔をして、主人が勢いよく平伏した。
「サイが言っていることは本当なんだ。巫女様、豊鍬入媛様は、サイに筑紫への使いを申し渡されたのだ」
「さ、さい……?」
主人が恐る恐るといった声音で、疑問を口にした。
だが、その顔は下に向けたままだ。
「豊鍬入媛様がお与えになった。こいつは今日から、サイと名乗ることになったのだ」
「名を、巫女様が……」
主人が息を呑む気配があった。
載斯烏越はそんな主人の前に身を屈め、片膝を着いた。
大夫がここまでの距離に近づくことなど、本来ならありはしない。
主人は恐れ慄き、より一層、額を地に埋めた。
「奴婢を奪われては、お前も生計に困るだろう。豊鍬入媛様はその事についてまで、お心を痛めておいでだ」
載斯烏越は懐からずっしりとした革の袋を取り出し、主人の目の前に置いた。
中からは小気味のよい、金属類の軽い音が響く。
おそらくは青銅の装飾品や貴石などで満たされているのだろう。
この時代では大変な価値だ。
米などの食料と変えれば、働かなくとも数年は食っていけるだろう。
「巫女様からのお慈悲だ。受け取るがいい」
「……」
主人が恐る恐る、僅かに頭を上げた。
何かを躊躇っているように見える。
「良い。直答を許そう」
主人が恐縮しきったように、再び背中を丸めた。
そして徐々に地べたから額を離し、載斯烏越の足元辺りに視線を向けた。
「……恐れながら申し上げます。私はこいつと、サイともう一度、会うことが出来るのでしょうか」
目の前に置かれた財物など、どうでもいいかのように、主人が問うた。
今度は載斯烏越が、不意を突かれる番だった。
載斯烏越は背中越しの俺に、密かに目を向けた。
「良い人に巡り会われましたね、持衰様」
小さな声で呟き、少し笑った。
……ああ、本当にそうだな。
「大丈夫ですよ。ちょっと昔馴染みに会いに行くだけですから」
載斯烏越の代わりに、笑って答えた俺の顔を、主人がぽかんとした顔で見上げていた。
三日後。
迎えに来た載斯烏越と探湯主と共に、俺は主人の元を発った。
そして笠縫の神殿に立ち寄り、台与の祈祷を受けた。
神の加護を俺たちに与えた台与は「じゃ、頑張ってね」とあっさりした励ましの言葉を送り、俺たちを送り出したのだった。
笠縫邑の外れまでは、載斯烏越も見送りに来てくれた。
「持衰様、ちょっと、ちょっと」
小声で載斯烏越が俺に手招きする。
探湯主は気を利かせて、声の届かない距離まで離れてくれた。
「持衰様、申し訳ございません」
「ああ、良いって良いって着いて来れないのは。武術が苦手なのは仕方がないさ」
「いえ、その事については別に何とも思ってません。台与様の傍にも居なければですし」
「ああ、そう……」
少しは気にしてくれて良いんだぞ。
「俺がお詫び申し上げているのは、台与様を大和へお連れした事についてです」
「その事か……」
「持衰様もお気付きだとは思いますが、台与様の身柄をお守りする為に、俺は大和国を頼りました」
「ああ」
「台与様を庇護する条件に大和国が、御眞木入日子殿が提示したのが……」
御眞木入日子。
第十代崇神天皇だ。
「台与を御眞木彦の養女として差し出すこと」
俺は載斯烏越の言葉を引き取った。
「その通りです」
載斯烏越が悔しそうに頷いた。
「それだけではありません。御眞木入日子殿は、台与様が神宝として身に着けていた勾玉と、日御子様より継承した青銅鏡を捧げるようにと、要求をなされました」
鏡に勾玉。
正統なる最高司祭としての象徴。
それらを受け継げば、分かり易く倭国全土に、御眞木彦の立場を喧伝出来る。
「確かに、台与の首に勾玉は無かった。だけど、青銅鏡は台与の手にあったはずだ」
笠縫に向かう時、そしてその神殿の中でも、俺は台与が捧げ持っている青銅鏡を目にしている。
そして見間違う筈もない。
あれは間違いなく、日御子が魏より賜り、台与へと継承した青銅鏡と同じ物だ。
「勾玉に関しては、台与様は特に拘りもなく、御眞木入日子殿に捧げました。ですが銅鏡だけは、手放すことを強く拒まれました。どうしてもと言うのであれば、連合国と命運を共にしても構わぬと。
そもそも台与様は、筑紫から離れることに、心より賛同なされていた訳ではありませんが」
載斯烏越や難升米が、台与を守る為に説得して、大和へ亡命させたのだろう。
「流石の御眞木入日子殿もこれには折れ、形代を作って宮に祀ることで、妥協してくれました」
なるほど、つまりレプリカか。
青銅鏡を手放さなかったのは、それが日御子から受け継いだ大切なものだからという理由か。
「日御子様の為に築かれた御陵も、今では大和が太陽神を祀るための祭壇となっています」
「それは、知っている」
「遍く天を照らす大神。つまりは倭国の最高神。そう触れ回っております」
「分かった、もういい」
唇を噛みながら、苦しそうに言葉を絞り出し続ける載斯烏越を、俺は手で制した。
「筑紫の女王は御眞木彦の娘となり、御子王となる証も奪われた。そして邪馬壹国が代々崇め奉ってきた太陽神までもが、大和国に取り込まれた。要するに、宗主国であった筑紫連合国の立場は、完全に逆転してしまってる訳だ」
「……その、通りです……」
「随分と足元を見られたものだ」
「申し訳ございません、持衰様。このような不利な条件を呑むしかなかったのは、外交官である俺の責任です」
自分の不甲斐なさを心から恥じ入っているような、怒りと憤懣を固め合わせた顔だった。
両の拳は、青白くなるほど握り締められている。
常に軽い調子の載斯烏越の、こんな顔を見るのは初めてだった。
「いや、お前は良くやってくれたよ」
「そのようなお言葉……」
「慰めだと思うか。そうじゃない。お前は私と、日御子様の願いを、ちゃんと分かってくれていた」
「持衰様と、日御子様の願い……」
穏やかに、俺は頷いた。
生まれ変わった奴婢の少年としてではなく、かつて親魏倭王の側近であった、持衰として。
「東の国と、大和と手を結ぶように最初に仰られたのは日御子様だった」
「そうだったのですね」
俺はまた頷いた。
載斯烏越と祖父と孫の振りをして、河内まで共に旅をした。
あの時の事が、頭の中に蘇る。
載斯烏越もきっと同じだろう。
「御眞木彦が喰えない男だとは、日御子様も私も見抜いていた。筑紫連合国に対して、良からぬ企みを抱えているとな」
「そこまで思い至っていて、何故それでも大和と」
「魏が永遠ではないと、女王も私も分かっていた。その時、再び振り下ろされる狗奴国の凶爪を、防ぎきれる保証も無いと」
その時を先延ばしにするために、俺は前世で、狗奴国軍を完膚なきまでに叩き潰した。
虐殺とも言えるほどに。
それでも、魏の滅亡までしか保たせることは出来なかった。
「なあ、載斯烏越。女王と私が本当に守りたかったのは、倭国の盟主という形ではなかったんだよ」
「持衰様……」
「本当に守りたかったのは、台与と、仲間と、その下で暮らす民たちなんだ」
そう、日御子は願っていた。
人々の平穏を。
上とか下とか、そんな事はどうでもいいんだ。
それは、台与も同じ気持ちだ。
「載斯烏越、お前は台与を守ってくれた。日御子様と私の大切な子を、お前は守り抜いてくれたんだ。だから恥じることはない。お前は胸を張っていいんだ」
載斯烏越の眼から、止めどなく涙が滴り落ちる。
「今度は私の番だ。台与の次は、日御子様の大切な仲間たちを、私が救いに行く」
「じ、持衰様」
最後の言葉で、張り詰めていた物が全て切られてしまったようだ。
涙と鼻水でぐじゃぐじゃになった顔を、俺の胸に埋めた。
子供の身体なので、背丈は載斯烏越の方がずっと高い。
両膝を地に付けて、俺にしがみついている。
「おい、こら止めろ。汚い。汚いし探湯主が見てるから」
それから何とか載斯烏越を宥めて引き剥がすまで、一時間近くは掛かったと思う。
「あ〜、もう汚いな」
鼻水やら涎やらが染み付いた衣の両端を持って、俺は何度も布を振る。
載斯烏越とも別れ、今は探湯主と二人きりで歩いている。
まっすぐに筑紫、つまり九州へは向かわず、全く方角の違う南へと向かっている。
台与に課せられた、仲間集めの一環だ。
「てかさ、何があったか聞かないんだな」
「お前と豊鍬入媛様、載斯烏越殿に何か因縁がある事は、何となく分かった。豊鍬入媛様のことは気にはなるが、あの方が話されぬ以上、余計な詮索はしないさ」
前を見ながら、探湯主がさらりと告げた。
台与を前にした時以外は、基本的に冷静な奴のようだ。
「じゃあ逆に質問なんだけどさ、これから会いに行くのって、どんな奴か知ってるのか」
「書いてあるだろう」
微かに面倒臭そうな含みを持たせて、探湯主が言い捨てた。
「書いてあるって言ってもさ」
俺は懐から木板を取り出した。
そこには台与が彫った人名が並んでいる。
その中の一つ。
今会いに向かっている人物の箇所を、俺は口に出した。
「宇治。すっくん……」
これだけ。
全然分からん。
「ほらほら、こんだけじゃ分かんないだろ」
俺は木板を突き出し、探湯主に向けた。
「止めろ。私は字は読めん」
「ああ、そうだったな」
探湯主は、と言うよりも、今の倭国に漢字を読める人間なんてほぼ存在しない。
俺は大人しく、木板を懐に仕舞った。
「全く、奴婢のクセに文字を解するとは、奇妙な子供だ」
「まあ、その辺りは追々。……で、この“宇治のすっくん”って何者なんだよ」
ここでようやく、探湯主は目線だけを俺に向けた。
「……宿禰」
「すくね?」
探湯主は小さく頷いた。
「宇治宿禰。私が知る限り、当代最強の倭人だ」
最強の、倭人。
俺は傍らを歩くナビと、密かに顔を見合わせた。




