第百九十一話 大中臣(おおなかとみ)の祖
「と、豊鍬入媛様。なぜご尊顔を晒されているのですか」
ひっくり返っていた男が跳ね起き、台与に向かって叫んだ。
「え、だって誰もいないし」
「居るでしょうこの私が。巫女王が男子に顔をお見せになるなど、言語道断ですぞ」
「ああ、そう言えばちゃんと顔を合わせるのは初めてだね」
台与が小首を傾げながら、にこりと笑顔を作った。
「ぎゃー、眩しい。そのお顔が眩しい。そんなお顔をされてたんですねーーー」
男が目を覆って苦しみはじめた。
身悶えするように、身体をクネクネと動かしている。
「わたしの顔、きらい?」
台与が少し悲しそうな顔をした。
眉尻を下げて目を細める。
晴天の太陽が、突然雲に隠れたようだ。
見てるこっちまで切なくなる。
「いえ大好きです。磨いた翡翠よりも透き通った瞳。絹糸のようにしなやかな御髪。そよ風のようなお声を奏でるそのお口は、貝釧よりも整っており、小さな鼻梁はどんな装身具よりもお美しくあらせられます」
「えー、ありがとう」
今度は少し照れ臭そうに笑う。
「ぎゃー、その笑顔。日輪が我の前に顕現しておる。灰になる、灰になるー」
お前は吸血鬼か。
「台与、顔、顔」
面白いけどこのままじゃ話しが進まない。
俺は台与に顔を隠すようにと、身振りで伝えた。
「あ、うん」
台与は素直に、布が垂れ下がった冠を被った。
彼女の顔が隠れたことで、ようやく男の叫びが止まった。
だが、未だ興奮は冷めやらぬようで、胸を押さえながら激しく息をしている。
男の心臓の音が、俺の方まで聴こえてくるようだった。
俺は改めて男の姿を観察した。
齢はやはり二十代くらい。目鼻立ちの整った爽やかな顔をしている。
少し切れ長な目が印象的だ。
やや長く伸びた髪は、今の騒ぎでかなり乱れている。
細身の身体は真っ白な絹衣で覆われている。
巫女が纏う装束に似ているため、おそらくこの男も神職のような立場なのだろう。
だが日に焼けたその肌からは、どちらかと言えば活動的な印象を与えられる。
「大丈夫、探湯主くん?」
「は、はい。何とか」
探湯主と呼ばれたその男は、息も絶え絶えといった様子で、なんとか台与に返事をした。
「で、ですがこれでお分かりになったでしょう豊鍬入媛様。崇高なる巫女王たるお方が、軽々しく余人にそのご尊顔を晒してはならぬと。色々危険です」
それはお前だけじゃないのか。
「でも、探湯主くんは友だちだし」
「なんと勿体ないお言葉。ですが、やはりいけません。貴女様と対等なお立場になれる人間など、この倭国にはおらぬのです」
「えー、残念だなー」
軽い口調だが、台与は本当に寂しく思っているのだろう。
特別扱いなど、彼女は望んではいないのだ。
「なあ、台与。こいつもさっきお前が言っていた、“仲良し”の一人なのか」
話題を変えたいこともあって、俺は二人の会話に口を挟んだ。
その一瞬だった。
「うわ、ちょっと大丈夫」
ナビが驚いて声を上げる。
その時、俺は床に組み敷かれていた。
うつ伏せの俺の背中に探湯主がのしかかっていて、右腕を抱え込むように極められている。
“俺の力”が働いていたので、探湯主の動きは視えていた。
けど防げなかった。
子供の身体だったこともあるが、あっさりと抵抗する俺の手を振り払ったのだ。
やっぱりこいつ、只者じゃない。
「お前、どなたに物を言っているのか分かっているのか。子供だからでは済まされんぞ」
同じ人間と認識しているのか疑いたくなるほど、冷たい声だった。
台与との茶番劇を繰り広げていた時とは、まるで別人だ。
「見たところ奴婢のようだな。騒ぎに釣られて忍び込んだか」
僅かに力が強められる。
それだけでも、俺の腕の痛みは倍増する。
堪えきれず、呻きとも叫びともつかぬ声が、俺の口から漏れ出る。
そして背中には、容赦のない殺気が突き刺さる。
冗談抜きで死を意識させられた。
「じじ様」
台与が慌てて声を上げる。
同時に、腕の痛みが微かに和らいだ。
「じじ……“様”? この奴婢の事を、ご存知なのですか」
「台与……」
俺はなんとか顔だけ上げて、必死に横に首を振った。
台与がはっとしたような反応を示し、言葉を呑み込んだ。
俺の意図を察してくれたようだ。
転生者であると明かしたくない、俺の気持ちを。
どうせ言ったところで信じないだろうが、俺が生まれ変わった人間だとは、なるべく知られない方が良い。
歴史にどんな影響を及ぼすか知れた物ではないからだ。
台与の為ならリスクも負うが、出来ることなら消失は免れたい。
「お前……、まだ言うのか」
弛んだ力がまた込められた。
再び俺は痛みに悶える。
「じじ……、あー、もう。ちょっと探湯主くん、止めてあげて」
「しかし豊鍬入媛様、この奴婢の数々の無礼、いかに豊鍬入媛様の知り人であろうとも、到底見過ごせるものではございませぬ」
「離さないとコレ取るよ」
顔を隠している布に手をかけた。
僅かに口元が覗く。
すると探湯主は素早く俺から飛び退いた。
効果覿面だ。
「そ、それだけはご勘弁下さい」
縮こまるようにして平伏し、床に額を擦りつけた。
「わかればよろしい」
ふんと鼻を鳴らして、台与は隠し布を放した。
俺は肩を押さえながら身を起こした。
動かそうとするとかなり痛むが、幸い折れてはいないようだ。
それでも身体中が汗まみれだ。
「じじ様、大丈夫」
「ああ、全然……」
大丈夫じゃないが、台与を心配させたくない。
俺は無理矢理、笑顔を浮かべた。
「また、“様”ですか。……豊鍬入媛様、どうかお教え下さい。一体この奴婢は何者なのですか」
「へ? あ、いや、その……」
今度は台与がしどろもどろになる番だった。
彼女の迷いを表すかのように、両腕を意味もなく彷徨わせている。
共感覚によって人の嘘に敏感な台与は、自身が嘘をつくのも苦手なのだった。
「おいコラ、久志宇賀。殺すつもりかテメー」
背後から怒声が響いた。
後ろを振り向くと、梯子から這い上がってきた載斯烏越がそこにいた。
髪は乱れ、それなりに仕立てのいい絹の装束は、土埃で汚れていた。
神殿に上がり込み、探湯主に詰め寄る。
呼び名が台与と違うのは、おそらく久志宇賀というのが本当の名前だからだろう。
台与は仲が良いと思った人物には、大概あだ名を付けるのだ。
「載斯烏越殿、闖入者です。下賤の者が聖域を侵しております」
「あん? ああ、その御方、じゃなくてそのお坊ちゃんはだな……」
謝罪もない探湯主にまたキレかけるが、俺の言い訳の方が先決と判断したのか、載斯烏越が説明をはじめた。
「……とまあ、そう言うわけだ」
「では、二十年前に豊鍬入媛様が笠縫を訪れた際に、この子供の親と知り合うたと」
「そうそう」
「しかもこの子供には、伊邪那美の神がお憑きになっており、その神を崇め奉るために、豊鍬入媛様御自らが、ここへお招きになられたと」
「あー、そういうことだよ」
載斯烏越が土埃を払いながら答える。
あとで掃除しとけよ。
だがしかし流石だ。
伊達に長年、あの御眞木彦を相手に折衝を行ってきたわけじゃない。
何の澱みもなく、すらすらと嘘を吐き続けた。
とても誤魔化しているようには思えず、探湯主はひとまず、載斯烏越の言葉を信じたようだ。
「ですが載斯烏越殿。やはり問題があります。この奴婢に神が宿っていようとも、余人には知りようがありません。説明したとて納得もしないでしょう。豊鍬入媛様のご神威をお守りするためにも、何よりも貴方様が……」
「煩い、言われなくても分かっている。だから嫌だったんだ、お前を呼ぶのは。あとお前、さっきのことちゃんと俺に……」
「でも助かったよ。ありがとうね、あえちゃん」
また怒りが再燃しかけた載斯烏越の言葉を、台与の朗らかな声が鎮めた。
載斯烏越はまだ何か言いた気だったが、このままでは話しが進まぬと思ったのか、探湯主を睨見つけるだけに止めた。
「さて、この子のことも分かって貰った所で、でいよいよ本題だね」
高座に鎮座している台与が、改めて一同を見渡した。
俺たち三人も居住まいを正し、筑紫の女王の言葉に耳を傾ける。
「探湯主くんを呼んだのはね、この子のボディガードをお願いするためなの」
「ボディガード?」「こいつが」
俺と探湯主は同時に声を上げた。
「豊鍬入媛様、ボディガードとは一体」
「ほら、今って筑紫が大変でしょ。だから、この子に仲間を集めながら筑紫に向かってもらって、なっしー達を助けてもらおうかと」
「豊鍬入媛様……」
台与は飽くまでも明るく話しているが、探湯主の顔は暗く沈んだ。
生国が滅亡の危機に瀕している台与の現状を、共に憂いているのかもしれない。
「ちょっと待ってくれ、台与……様」
「豊鍬入媛様な」
「確かに今の俺じゃ、一人で不安だとは思う。けど同行者なら載斯烏越様でもいいだろう」
「悪いな坊主、俺は武術はからっきしなんだ。何かあった時、俺じゃお前を守れない」
「あん?」
反射的に載斯烏越を睨めつけた。
何が坊主だ糞餓鬼が。
私はお前が産まれる前からずっと……、
「こらこら落ち着いて」
ナビが隣で俺を宥めた。
ああ、そうか。
今は探湯主がいるからな。
それにしても演技が自然すぎてムカついた。
もう一度載斯烏越を見ると、冷や汗をだらだらと流していた。
「豊鍬入媛様、私もこの子供のお守りなどは御免です」
「探湯主くんまで……」
「あ、いえ。決して豊鍬入媛様のご憂慮を、そのままにしておこうという訳では御座いませぬ」
台与の声がまた暗いトーンになったので、探湯主が慌てて訂正した。
「豊鍬入媛様の為であれば、私一人でも筑紫へと赴き、身命をとしてご助力いたします。ただ、たとえ神がお憑きになっていようとも、このような子供を連れていては、単なる足手まといにしかならぬと、そう申し上げているのです」
俺は探湯主の言葉に歯噛みした。
確かに客観的に考えれば、この男の言うことは正論だ。
仕方がない。
俺もこいつじゃないが、一人で筑紫を目指すしかないようだ。
“観測者補正”があれば、子供の身体でもなんとかなるだろう。
「久志宇賀」
俺がそう思い定めた時、高座が厳かな声が響いた。
一瞬、台与が発したのだとは思えなかった。
載斯烏越と探湯主も、同じように仰天していた。
声も無く、顔の見えぬ女王の姿を仰ぎ見ている。
「この者の力は、今尚筑紫で戦っている者たちを救うために、必要不可欠なのです。そして私にとっても、神より賜った希望の光に他なりません」
「台与……」
布越しの台与が、探湯主を見つめた。
見えるはずのない眼光が、探湯主を照らす。
彼は目を見開き、唇を戦慄かせている。
台与を通して神を視ているのか、或いは台与そのものがこの男にとっての神なのか。
そんな表情に、俺には見えた。
「ですが、如何に豊鍬入媛様の御言葉であろうとも……」
「信じられぬと申すのですか。私の言葉が」
「いえ、決してそのようなことは」
「ならば従いなさい。この者を筑紫へ無事に送り届けること。それが共に神に仕えるお前に与えられた使命だと、そう心得なさい」
「はは」
勝負あった。
探湯主はその威光の前にひれ伏し、遂に俺と共に旅に出ることを承諾したのだった。
「よし、探湯主くんも聞き入れてくれたことだし、早速準備に取り掛かろう。あえちゃん、諸々よろしくお願いね」
台与の神威に押され、言葉を失った俺たちは、ただ沈黙しているしかなかった。
その粛然とした空気を打ち破ったのも、また台与の言葉だった。
「は、はい」
金縛りから解かれたように、載斯烏越が返事をした。
一度礼をして立ち上がり、バタバタと神殿を後にした。
「それじゃあ、探湯主くん。道中のこと宜しくね。それと、筑紫に着いたら無理しないでね。無事に送り届けることが、貴方の役目なんだから」
「はい、承知いたしました……」
まだ完全に納得したわけではないようだが、探湯主は素直に頷いた。
最早、台与に逆らう気は無いようだ。
「おい、奴婢の子供」
探湯主が顔を僅かにこちらに向けて、俺を呼んだ。
「何だよ」
「名は何と言う」
「え。ああ、名前か……」
俺は逡巡した。
持衰、は不味いよな。
これから難升米たちに会うのに。
なら、今の奴婢としての俺の呼び名の方がいいのか。
「サイくん」
「は?」
俺が名乗るよりも先に、台与が代わりに答えてしまった。
「サイ? サイって、それは……」
彼女が、日御子が俺を呼ぶ時の名前。
「この子の名前はサイ。ね、サイくん」
何故かとても嬉しそうな声で、台与が俺に呼び掛けた。
俺は不意を突かれて、ただゆっくりと頷くことしか出来なかった。
サイ。
この時代での俺の呼び名が、今ここで決まった。




