第百八十九話 救う言葉
「じじ様と狗奴国の戦いが終わってから、筑紫はずっと平穏でした。それは本当なの」
そして台与は語った。
俺の観ていない、邪馬壹国の二十年を。
「だけど、この世界は大きく動きました。魏の滅亡によって」
「魏が……」
俺は現代の頃の知識を必死で参照した。
朧げな年表が、俺の頭の中に浮かぶ。
「……西暦265年12月。司馬懿の孫、司馬炎は魏の皇帝曹奐に禅譲を迫り、帝位に就いたの。そして、晋王朝を立ち上げた」
ナビが俺の横で呟く。
「八ヶ月前くらいか」
「じじ様も知っている通り、連合国は魏の後ろ楯を得ることで、倭王としての権威を保証されていた。だけど……」
「その肝心の魏が滅亡してしまったら、親魏倭王の権威も霧散する」
台与が頷く。
「昔じじ様がそうしたように、わたしたちも晋に朝貢の使者を送った。けど、間に合わなかった」
「間に合わなかった?」
「狗奴国も狗奴国で、中華の動向には気を配っていたの。魏が滅亡した直後に、兵を挙げて攻めかかって来た。それに同調する国も多くて、連合国は戦う前から領土を削り取られてしまいました」
台与の顔が曇る。
当時のことを思い出しているようだ。
「狗奴国という波濤は、連合国の領土を一瞬で呑み込んでしまいました。邪馬壹国さえも」
「邪馬壹国が……」
日向と呼ばれる地の南に位置していたのが邪馬壹国だ。
日御子と台与の生地でもある。
それが、狗奴国の手に落ちた。
「たった八ヶ月でそんな事に」
信じられない。
いくら魏の後ろ盾を失ったからといって、そんなにあっさりと連合国が敗れるなんて。
「連合国の根幹にあるのは、御子王に対しての信仰心だ。親魏倭王としての権威を失っても、離反する国はごく一部のはずだ」
「その通りです、じじ様。みんなも一緒に戦ってくれました。でも、勝てなかった。いま連合国には、末盧、伊都、奴、不弥国の、北海岸沿いの国の土地しか残されていません」
「だからってそんな八ヶ月の間に」
「倭国は平穏すぎました」
凛とした台与の声が、虚空に響いた。
「筑紫の国はじじ様のお陰で、この年まで一度として戦は起きませんでした。本当に、ただの一度も」
まさか、それって。
俺の身体から血の気が引いていく。
「……軍縮か?」
台与は返事をしなかったが、僅かに伏せたその瞳が、俺の言葉を肯定していた。
「はい。各国は兵役を軽くし、農事や交易に力を入れ始めました。それは確かに連合国に実りを齎しましたが、戦うための刃を錆びさせてしまいました」
「難升米は。あいつがこの事態を想定出来なかったとは思えない」
「なっしーは勿論、狗奴国に対しての備えを怠るべきではないと、各国に唱え続けました。邪馬壹国では、兵の調練も昔の通りに行い続けた。
でも、邪馬壹国だけです。魏より黄幢を下賜されしなっしーでさえ、他国の軍事に口は出せても、強制する力までは有りませんでした。
でも、狗奴国は違う。二十年近くもの間、わたし達を倒すために、爪と牙を密かに研ぎ続けていた」
それなら。
それは。
思考が廻る。
俺の中に感情が渦を作る。
これは何なのだろうか。
怒り、自責、後悔、無力感。
入り混じり、内で膨らむ。
「……晋は、大和は」
まだ聞かなければならない。
感情に押し潰されている場合ではない。
「わたしがここに来る直前、晋への使いが帰還しました。司馬炎は朝貢を受け入れたものの、わたし達が期待した成果は得られませんでした。即ちかつての魏のように、倭国を冊封する事も、軍事的支援を行うこともないようです」
「……この頃は、既に三国の一翼だった蜀は滅びている。呉も初代皇帝の孫権が死んだ後、朝廷内で内紛が勃発して弱体化。そして倭国と結んだ最も大きな理由の一つである高句麗も、二十年前に魏に大敗して以降、国力の回復に努め続けていたの」
ナビが歴史的事実に基づいて、晋の置かれている背景を説明してくれた。
「司馬炎からしたら、倭国はもう利用価値の無い国だってことか」
「その通りです」
ナビに言ったつもりだったが、台与も俺の言葉に反応した。
「それで、大和の方は」
「あ、それは俺から……」
載斯烏越が手を上げた。
「狗奴国が攻めてきてすぐ、俺は御眞木彦殿に泣きつきました」
比喩でも何でもなく、本当に泣きついたのだろう。
載斯烏越には見栄というものが無い。
だからこそ、大和との外交官に相応しかった。
御眞木彦の場合、御し易く見える載斯烏越のような人間の方が気に入る筈だからだ。
見下すのが好きなんだ。
あいつは。
「けど、“河内は戦の少ない土地柄ゆえ、兵の数も少数です。東国の動きが不穏な今、軍事的援助は難しい。戦いに必要な物資なら、出せるだけお送りしましょう”ってのが、御眞木彦殿の回答でした」
「あ、の、野郎」
俺は拳を握り締めた。
予想通りの出方ではある。
あいつはそういう男だ。
そもそも俺は最初から、大和に軍事支援など期待していない。
俺があいつに与えた役割は、もっと別にある。
台与がここに居る以上、それは成されたという事になる。
だが、腹立たしいという感情とは別だ。
「……それで、筑紫は今どうなっているんだ」
俺は一度深く息をついてから、二人に問い質した。
「国境は山脈を挟んだ以北にまで後退しています。だから却って守りやすくなり、今は何とか小康状態で持ち堪えてます」
「でもね、それもいつまで保つかどうか……」
載斯烏越が説明を行い、台与の重い声が後に続いた。
状況は理解できた。
魏に寄りかかった政策、動かない大和。
そして、戦いを忘れた連合国。
台与を守る為に、俺は狗奴国を完膚なきまでに叩き潰した。
だがそれが、今こうして裏目に出ている。
「……俺はやり過ぎたのか」
気持ちに支配されている場合ではない。
だからこそ、事実は受け入れなければならない。
俺はまた、失敗したんだ。
「ちょっとちょっと、何考えてるか判っちゃったよ。キミ、また自分を責めてるでしょ。でもそれは違う。邪馬台国が歴史から消えていくのは決まっていた事なんだよ。キミが何もしなくても、それは動かせなかった。むしろあの戦いがあったからこそ、これまで平穏だったとも取れるんだから」
「違う。俺は緩やかに、連合国を歴史の中に消していくつもりだったんだ。それで整合性は取られる筈だった」
「はい? 持衰様、えと、あの」
俺はナビに向かって話しているのだが、その向こう側には載斯烏越がいる。
ナビは俺以外に視えないので、載斯烏越からしたら、突然自分に向かって、訳の分からない事を言い出したようにしか見えないだろう。
「伊邪那美様、大丈夫です。じじ様には私から」
「……は?」
台与の唐突な言葉によって、俺とナビが固まる。
そしてぎこちない動きで、首だけを台与の方に回す。
「伊邪那美? それってわたしのこと?」「台与、お前分かるのか」
俺とナビが、ほぼ同時に声を出す。
台与は白い歯を見せて笑いながら、懐をまさぐった。
そして、竹の板を編んで作った、竹簡を取り出した。
遥か昔、何処かでそれを見たことがある。
「分かるよ。だって日御子様が教えてくれたから」
そして台与は竹簡を広げた。
そこに並んでいる文字に、俺は見覚えがある。
見覚えがあるなんてもんじゃない。
俺はその字を良く知っている。
間違いなく、日御子の字だった。
「それ、日御子がお前の為に書いていた」
台与が嬉しそうに頷く。
「そうですよ。それでほら、ここ」
台与が竹簡の一節を指し示した。
「“海の彼方より現れし神の御使い。その者を誘いし神、那美もまた在り”。ここに日御子様がそう書かれてる。神の御使いは、じじ様のことね」
「そして誘いの神ってのが……」
「うん。じじ様と一緒にいらっしゃる那美様。つまり伊邪那美様だよ」
「うぎゃ~、やっぱりわたし伊邪那美命ってことにされちゃってるよ〜」
ナビが頭を抱えて呻き出した。
「何だよ、やっぱりって」
まるでこうなる事が分かっていたみたいな口振りだ。
「何でもない……。日御子ちゃんが無意識に張った伏線が、少し回収されただけだから……。それにしてもわたしが伊邪那美か〜。大丈夫だよね。セーフだよね。怒られないよね」
何をぶつぶつ言ってるんだコイツは。
「あの、すみません、おれ、何が何だか……」
会話が切れたタイミングを見計らい、載斯烏越が口を挟んだ。
「話しが進まないから、あえちゃんは後でね」
「あ、はい」
その質問はあっさりと流された。
完全に置いてけぼりだ。
それでも空気を読み、すごすごと引き下がる。
「それでね、じじ様」
気を取り直した様子で、台与が俺に語りかけた。
先ほどまでのコメディモードと違い、真剣な口調だった。
「じじ様は自分の責任だって言ってたけど、それは違います。じじ様は、じじ様がやるべき以上のことを、わたし達の為にしてくれた。
わたし達に、平和な時代を与えて下さった。それで十分なんです。死んだ後の事にまで、責任を感じないで」
台与の琥珀色の瞳が俺を姿を映し込む。
まるで彼女に全身を抱きとめられているような、そんな感覚に陥ってしまう。
全てを理解され、受け入れられ、許されてしまうような。
俺の心が否応なく和らぐ。
それは危険だ。
「死ねばそれまでなんて、無責任なこと言えるか。歴史は自分が消えた後も、紡がれていくんだ」
「その通りです。そして、次代の歴史を紡ぐべきは、託されたわたしの役目。女王であるわたしの役目でした。
だけどわたしは、じじ様に頂いた平穏を守れなかった。責を負うべきは、このわたしなんです」
「それは違う。お前はただ人々の為に、無理矢理女王に担ぎ上げられただけだ。当たり前の幸せを犠牲にして、王位に就いた。それだけでも十分過ぎるんだ。そんなお前に、責任なんかあるわけ無いだろ」
十三歳の少女に、流れた血の精算を課した。
その上で尚、新たな血を求める。
狂ってるんだ、この時代は。
そして結局、そんな時代しか用意できなかったのが、この俺なんだ。
俺は力なく項垂れた。
最低限、台与の命は護られた。
それで良い、俺にしては上出来じゃないか。
そう思い込もうとしても、この悔しさは消えなかった。
「うーーーーん、やっぱダメか〜」
静寂をぶち壊すように、台与の気の抜けた声が、広間に響いた。
「台与……?」
「まあ、そうだよね~。じじ様の性格上、どんだけ“貴方に責任はないですよ”って説得しても納得する訳ないもんね」
やれやれと言った様子で、台与が肩を揉みながら首を回す。
「そうッスよ台与様。持衰様は超絶自責思考の堅物野郎なんですから。しかも頑固ジジイ」
「載斯烏越、お前まで何を」
ずっと黙っていた載斯烏越までもが、ニヤニヤしながら台与に同調し始めた。
「だったら、じじ様にはもう“あの言葉”しかないよね」
「そうですよ。アレしかないです」
二人が何を言っているのか理解出来ない。
今度は俺が置いていかれる番だった。
「だからわたしは、じじ様に筑紫の事を伝えたくなかったんだよ」
「いやいや、それ言ったら台与様が持衰様に飛びついたから」
「むー、それを言われると弱いな〜」
二人して呑気に笑い合う。
おいおい、今はそんな空気じゃないだろ。
「おい、二人とも何を言ってるんだよ」
悲鳴にも似た声を上げた俺に、二人が同時に振り返った。
そしてもう一度、顔を見合わせ、悪戯を思いついた子供のように頷きあった。
「「せーの」」
そして息を合わせて、“あの言葉”を叫んだのだった。
「じじ様」「持衰様」
「「助けてーーーーー」」




