第百八十八話 豊鍬入姫
「と、とととととと、台与さま。何やってんすか」
載斯烏越の絶叫と、衆目のざわめきが森の中を揺らした。
だが、俺にはそんなものは気にならなかった。
ただ懐にある、かつて見知った少女の温もりに、俺の感覚は牛耳られていた。
「じじ様、じじ様」
心地よさそうに、彼女は俺の胸の辺りに頬を擦り寄せている。
十二歳の俺の身体は、今の彼女より少し小さい。
立派な大人が子供に甘える姿は、何とも奇妙に映ることだろう。
「台与……」
俺は両手を上げながら、どうしたものかと思案する。
何故台与がここに居るのかとか、邪馬壹国はどうなったのかとか。
そんな疑問は吹っ飛んでいた。
今はただ、どうやってこの異常事態を収めるのか。
それが最優先だ。
「はあ〜、じじ様だ〜」
台与はまるでこの場に俺と自分以外は存在しないかのように、ひたすら俺の感触を楽しんでいるようだ。
顔の覆いは完全にずれて、誰にも見せてはならないはずの尊顔は、白日のもとに晒されてしまっている。
「とととととと、台与様、ヤバいですって」
載斯烏越が台与の顔の前で手をバタつかせている。
他の人間から見えないようにしているのだろう。
「おい、お前ら。ぼーっとしてんな。台与様を引き剥がせ」
そう叫ばれ、慌てて兵たちが人混みをかき分け、台与のもとに近寄って来た。
両腕を掴み、台与を俺から引き離そうとする。
だが、この華奢な身体の何処にこんな力があるのだろうか。
兵たちが数人がかりで引っ張っても、台与はびくともしなかった。
「だー、こうなったら仕方ねえ」
載斯烏越は俺ごと台与を担ぎ上げた。
そのまま輿板まで走り、俺たちを乱暴に投げ置いた。
「痛って」
一応俺が下敷きになるように投げたようだ。
焦っていても、最低限女王への配慮は忘れなかったようだ。
「神殿まで撤収〜。全力で走れ」
掛け声に従い、一行が全力で駆け始めた。
「間違いない、あの御方だ。巫女様が再びお戻りになられた」
主人の叫び声が、後を追うように耳に届いた。
呆気に取られている内に、俺は神殿の中へと放り込まれた。
中には見慣れた祭壇が設えられており、広間の中で一段高くなっている。
祭壇を目にした瞬間、台与は別人のように大人しくなった。
何をしても離さなかった俺の身体からあっさりと離れ、台与はゆっくりと祭壇に足をかけた。
ずっと手に持っていた青銅鏡を棚に飾り付け、台与は両膝をつき、神への祈りを捧げた。
心地よい音色のように、祝詞が広間に反響している。
御子様の厳かで神秘的な声、日御子の鈴の音ように澄みながら、芯に力強さを感じる声とも、また違った響きだった。
太陽の温もりに包み込まれているような、そんな体温と頼もしさを感じさせる祝詞だった。
広間の中には、俺と載斯烏越の二人だけだ。
載斯烏越は聴き慣れた音楽を楽しむように、目を細めながら微笑んでいる。
俺は祝詞に耳を傾けつつも、祭壇に祀られた青銅鏡に目を向けていた。
間違いなく、あれは日御子が所持していた物だ。
鏡を通してまた彼女に出会えたような、そんな錯覚に襲われた。
「ふう……」
声が途切れ、台与の溜息が聴こえた。
最後にゆっくり頭を下げ、座ったまま俺たちに向き直った。
載斯烏越、そして俺へと、彼女の視線が移動する。
にこりと笑ったまま、暫く俺を見つめ続けていた。
俺も黙って、台与を見返していた。
心の中が、喜びと感動で満たされていく。
今ここに台与が居ることは、俺たちにとって好ましい事ではない。
それなのに、この心の動きはどうしようもなかった。
「台与様、説明してもらいますよ。何であんな事しちゃったんですか。この奴婢の坊主に、何処かで会ったことあるんですか」
最初に口を開いたのは載斯烏越だった。
その問いかけに対して、台与は不思議そうに笑った。
「会ったことも何も、じじ様じゃない」
「だからそのじじ様って……、あっ」
何かに気付いた顔をした。
そして、見る見る顔が青ざめていく。
「じじ様って、確か……、持衰様の事だったような……」
「そうだよ、あえちゃん。忘れちゃったの?」
「……台与様、“あんな事”があったばかりで、ショックなのは分かりますが、気を確かに持って下さい。持衰様は、その……」
「うん。死んじゃったよね」
少し残念そうな顔で、台与は答えた。
「え、いやじゃあ、目の前のこいつは? あ、まさか持衰様の親戚? いや、あの人に身内なんて……」
載斯烏越は混乱しているようだ。
だが、俺の方は大混乱だ。
台与がここに居るだけでも受け入れ難い事なのに、俺が持衰だと見破られた。
なぜそんな事に。
「……顔か」
俺は右手で自分の頬に触れた。
“観測者”である俺は、肉体が死を迎えた際に、ナビが俺の魂を取り出して保管する。
その後、転生先の肉体が誕生した際、ナビが俺の魂をそこへ移す。
当然、前の身体と転生後の身体に血の繋がりはない。
本来は全く別の外見になる筈だ。
だが、魂には俺のオリジナルの遺伝情報も保存されているらしく、別の肉体に生まれ変わろうとも、外見的特徴は概ね受け継がれるように出来ている。
だから台与も、俺の顔を見て気づいたんじゃ……。
「それは無いね」
俺の考えを読んだのか、ナビがそう断定した。
「確かにキミは何度生まれ変わっても、同じような顔になる。でも、台与が知ってるキミの顔は、七十過ぎのお爺ちゃんの姿だよ。流石に今の十二歳の姿とは結びつかないよ」
確かにそうだ。
現に台与と同じように、前世の俺を知っている載斯烏越も、俺の今の姿を見ても、何の反応も示さなかった。
だとすれば後は……。
「共感覚」
だろうな。
俺は密かにナビに頷いた。
台与と先代女王の日御子には、共感覚という体質が備わっていた。
通常、人は五感の内、それぞれ対応する一つの感覚器官で脳に信号を送る。
例えば音を聴けば、それを聴覚だけで感じ取る。
普通の人間にとって、音は“聴く”だけのものだ。
だが、共感覚者の台与にとっては違う。
彼女にとって、音は“聴く”ものであると同時に“視る”ものでもあるのだ。
台与は人の声に、“色”を感じる。
「台与にとって人の“声の色”は、それぞれ全て違って視えるんじゃないかな。例えば指紋のようにね。彼女にとっては、同じ“声の色”が見えれば、それは同一人物って事になるんだよ」
外見や年齢なんて関係ない。
仮に一度死んでいたとしても。
“声の色”が一緒なら、それは同じ人間。
台与にはそれが、当たり前過ぎるくらいに当たり前なんだ。
だから俺が持衰である事も、彼女にとっては疑問を差し挟む必要がない程に、当然の事なのだ。
もうこうなっては仕方ない。
この状況を受け入れるしかない。
「載斯烏越」
「あん?」
載斯烏越が青筋を立ててガンを飛ばしてきた。
やはりムカつく。
「河内への初めての旅の続きか? あの時は祖父と孫だったが、今は私の父親でも演じてるつもりか」
私の言葉を聴いた載斯烏越の顔が、一瞬で凍りついた。
そして次第に恐怖で引き攣っていく。
「どどどどどど、どうしてそれうぉうぉうぉうぉ」
「分かるだろう。私が持衰だからだ」
「うわーーーー、持衰様が化けて出たよーーーー。台与さまーーーー、祓って祓ってーーーー」
くそ、そう来たか。
俺は頭が痛くなってきた。
「たいっっっっへん、ご無礼仕りましたーーーー」
床を叩き割らん勢いで、載斯烏越が額を打ちつけた。
先ほどまでと立場が逆転している。
「もういい。私と分からんでも無理はないからな」
俺は手を払いつつ、載斯烏越に許しを与えた。
あの後、台与と二人で散々載斯烏越に説明を行った。
二時間ほどかけて、ようやく俺の転生を理解したようだった。
「流石は持衰様。寛大なるご叡慮、真に痛み入ります」
そして再び頭を下げた。
あー、ウザい。
調子が良いのは昔からだが、コイツここまでだったか?
俺は載斯烏越を無視して、台与を見つめた。
高座の上から、にこにこと嬉しそうに俺を眺めていた。
その表情はあどけない、十二歳の頃の彼女のままだ。
けれども、俺の知っている台与よりも確実に大人になっている。
「……えーと、大きくなったな」
久し振りに会った親戚のおじさんか俺は。
いや似たようなものだけど。
聞きたいことは大量にあるのだが、会話の糸口が掴めず、当たり障りない事を口走ってしまった。
「じじ様は小さくなられましたね」
少し悪戯っぽい笑い方も、俺の知ってる台与のままだ。
確か、今年で丁度三十のはずだ。
確実に成長はしているのだが、童顔で小柄のせいか、まだ二十前後にしか視えない。
「まあ、生まれ変わっちまったので」
「それも奴婢の子に」
「前世の行いが悪かったからな」
台与と顔を見合わせて笑う。
「けど、非道い扱いはされてないようですね」
俺のために必死に頭を下げる主人の姿を、台与はちゃんと見ていたようだ。
「ああ、いい人に拾われたよ」
「ずっと、笠縫に?」
「うん。土を耕して田植えして……。最近は土器を作ったりしてる」
古墳時代の平凡な日常。
貴い時間。
だけど……。
「じじ様がお幸せで何よりです」
そう呟いた台与の笑顔が、心からのものである事は、共感覚の無い俺にも理解できた。
俺の平和な日常を、台与は祝福してくれている。
だけど。
だけど台与は。
「お会い出来て、本当に嬉しかったです。わたしはずっとここに居ますから、時々こっそり会いに来て下さいね」
「あの、台与様」
広間の隅で小さくなっていた載斯烏越が、突然口を挟んだ。
「あえちゃん」
台与は少し険しい顔をしながら、首を横に振った。
「でも、持衰様なんですよ。あの持衰様なら連合国を」
「ダメだよ、あえちゃん。じじ様はもう……」
「待ってくれ」
台与の言葉を、俺は途中で遮った。
「じじ様?」
「……聞かせてくれ、台与、載斯烏越。俺が居なかった二十年の間に、連合国が、筑紫がどうなったのか。なぜ、台与がここに居るのかを」
沈黙が神殿内に覆い被さった。
台与は少し切なそうな微笑をたたえ、載斯烏越は二人の顔を交互に窺っている。
「あの時と同じですよ。河内で不作が続いているから、御眞木彦さんに頼まれたんです。“何とかしてー”って」
「あの時とは立場が違うだろ。女王がそれだけの理由で、国を離れられるわけがない」
「じじ様のお陰で平和になったんです。なっしーたちが居れば、連合国は心配ないから……」
難升米の名を口にした途端、台与の顔が曇るのを見逃さなかった。
「台与、お前に嘘は向いてない」
「別に、嘘なんかじゃないもん……」
「台与」
はっとしたように、台与が俺を見た。
「分かってる、分かっているんだ。お前がここに居る時点で、いま何が起こっているのかは」
台与の顔が僅かに歪む。
そこには、諦めと悲しみが浮かんでいた。
「ただ、詳しい状況までは分からない。頼む台与。“私”に聞かせてくれ。この二十年の間に、何が起こったのかを。……皆を救うために」
「せっかく、苦しい事から離れられたのに……。生まれ変わっても変わらないんだね、じじ様は」
「先に教えてやろう、台与。バカは死んでも治らないんだ」
呆気に取られたように口を開け、そして台与が口を押えて笑い出した。
俺も可笑しくなって吹き出した。
載斯烏越だけが、置いていかれたようにポカンとしていた。




