第百八十四話 エピローグ 参・終
「わたしはね、なっしー。貴方に話したい事があるんだよ」
腰を落としながら台与はそう言った。
そして手を伸ばし、床を何度も軽く叩いた。
座れ、ということのようだ。
散々屋敷中を動き回った挙句、そのまま台与が座ってしまったせいで、上座も下座も無い。
難升米は却って居心地が悪かったが、それを台与に言っても無駄なので、渋々台与の前に座った。
「わたしにはお見通しだよ、なっしー。なんたって“色”が見えちゃうからね」
台与。そして日御子にもあった、人の心を見通す力。
台与はそれを良く、“色”と表現する。
亡くなった日御子も同じ事を言っていたと、生前の持衰から聞かされたことがある。
だが台与の言っていることが、難升米の何を指しているのか分からなかった。
「……なっしーさ、なんかジメジメして、ウジウジした色が見えるんだよ」
それは最早色ではなく質感なのでは。と、口にするのは止めておいた。
「……ウジウジ、ですか」
「余計なこと、考えてる……」
不意に台与が、琥珀色の瞳を炯々と輝かせ、難升米を見据えた。
先ほどまでの、何処にでもいそうな少女の顔から、神と意を通わす巫女の顔へと変貌した。
思わず、気圧された。
この瞳の前では、心をさらけ出すしかない。
そう思わせる力が、彼女にもあるのだ。
「……日御子様に持衰様。そして穂北彦様までもを我らは失いました。御三方無くして連合国を支えなければならぬという不安を、知らず知らずに感じていたのかもしれません」
そして、難升米は頭を深々と下げた。
「お許し下さい。決して、台与様の御力を懸念している訳ではございませぬ。これは飽くまでも、私自身の不甲斐なさに対する迷いでございます」
「いや、さっきまで台与様のこと、ボロクソ言ってたぞ」
掖邪狗の軽口に反応する余裕もなかった。
台与の瞳は、まだ難升米を捉えて離さない。
見なくとも、それが分かる。
「違うよね。なっしーはもっと、自分に向けて考えてる。なんかさ、じじ様やおじ様に悪いとか、そんなこと考えてるよね」
じじ様とは持衰のことで、おじ様は穂北彦のことだ。
台与は穂北彦と、そしてその姉に当たる日御子の血族だ。
と言っても二人の伯父の玄孫に当たるのが台与なのだそうで、その血は最早他人と言っても良いほどに離れている。
「……私は、大魏より黄幢を賜り、台与様の下、倭国の民を導くようにと。そう天子様に申し付けられました。それは、王さえも凌ぎ得る、絶大な権威です。ですがそのような資格は、私にはありません」
「台与様の言う通りだ。余計なこと考え過ぎ。お前以外に誰がいるってんだよ」
掖邪狗が溜息をついた。
煮え切らない難升米の態度に呆れ返っているようだ。
「無論、私は全力を尽くす。国々と、台与様と、民のために。だが、私は陰でいい。栄誉は要らない、受けてはならない。なぜなら、それを真に得るべき方は、持衰様と穂北彦様、或いはお前だ、掖邪狗」
「俺?」
自らを指差し、目を丸くした。
「お前もまた、国の為に持衰様と共に戦った男だ。そのために、お前は一時的とはいえ、連合国での立場を失っている。……済まないと思っている」
「お前が謝る事じゃねーだろ。俺は俺に出来ることをやったまでだ。大体、俺が国を率いられるわけがないだろ」
「……それは、そうなのだが」
「否定はしないのね」
掖邪狗の気持ちは理解出来る。
難升米が台与を助け、この国々を導いていくことを、持衰と穂北彦も望んでいた。
それなのに、何を思い悩むことがあるのか。
分かっている。
だが、理解と感情は別だ。
「やっくん達に嫌なことを全部やらせて、自分だけが皆から称賛される。それが、とっても悪いことだと思ってるんだね」
台与の声が優しく響いた。
ふと見ると、その声音と同じような柔らかな笑顔を、難升米に向けていた。
その顔を見ていると、心地のいい暖かな光に、全身を包み込まれるような感覚に覆われた。
先ほどまでの台与とは別人だ。
十三歳の少女が突然、円熟した大人のように変貌した。
女王としての台与の一端を、垣間見た気がする。
だが、それは長く続かなかった。
「けどさ、それは違うんだよ。寧ろなっしーは、怒っても良いくらいなんだよ」
指で真っ直ぐに鼻っ面を指して、厳しい目を向けた。
いつもの少女の顔で。
「怒る……、私が」
「そうだよ」
そう言うなり、腰を浮かして膝をついたまま、一気に台与が距離を詰めてきた。
鼻先にもう台与の顔がある。
「台与さっ……」
堪らず難升米は尻餅をついた。
そんな様子を特に気にした風でもない。
四つん這いになって、更に難升米ににじり寄った。
台与の髪が揺れ、胸元が僅かに覗く。
難升米は必死に顔を背けた。
「じじ様とおじ様の事なんて気にしなくていいんだよ。寧ろ二人とも、“なっしーに全部任せられてラッキー”くらいに思ってるよ」
「何を突然。そんなわけないでしょう」
「あるよ。本当に貧乏くじ引かされたのはなっしーなんだから。それなのに二人に負い目まで感じて上げちゃうなんて、お人好しにもほどがあるよね」
持衰はただ一人でその身に数多の返り血と虐殺者の悪名を背負い、狗奴国の芽を摘んで逝った。
穂北彦はその悪政の咎をすべて引き受け、不徳の王として寂しく玉座を降り、邪馬壹国の片隅で不遇な余生を過ごしている。
そんな二人よりも、自分の方が不幸だと。
「わたしの言うこと信じられない?」
口を引き結んで何も言わない難升米に、台与が更に問いかける。
「だったらさ、本人に聞けば?」
「……無理を仰らないで下さい。持衰様はもういらっしゃらないのです」
「おじ様がいるじゃん」
「穂北彦様にも、簡単にはお会い出来ません」
「何で」
「何でって……、あの方はほぼ幽閉されておられるんですよ。私が会いに行けば、諸国の王たちに無用な疑念を抱かせ、あの方の身にさらなる累いが及ぶかもしれないのです」
「内緒で会えばいいじゃん」
「そんなこと出来るわけ……」
「あるんだな。もうそこに居るし」
「………………………………は?」
女王の屋敷は広間の中に、幾つかの仕切り布がかけられている。
その内の一枚が揺れたかと思うと、向こう側から影が現れた。
老人だが端正な顔立ち。
身なりは質素だが、どこが気品と威厳のある振る舞い。
そして、豊かで美しい白髪。
その髪色は、女王日御子と全く同じ輝きを放っていた。
「よう、難升米」
「穂北彦様。なぜここに」
「わたしが呼んだの」
「また?」
難升米は声をひっくり返して叫んだ。
なぜこうも立て続けに信じられないことが起きるのだ。
だが狼狽えているのは難升米だけで、周りの人間は平然としている。
穂北彦がここにいる事を、難升米以外は全員が知っていたのだ。
「やっくんを呼ぶついでに、ついてきて貰ったんだよ。もちろん、兵に紛れてね」
「久し振りに出歩けて愉快だったぞ」
「呑気に笑い合ってる場合ですか」
叫んだ後、急に目眩いが襲った。
感情の起伏が激しすぎて、身体がついてこない。
「台与様、穂北彦様。いくら女王と先王とはいえ、こんなことは許されません。掖邪狗は張政殿の機転で問題無いとはいえ、穂北彦様ばかりは同じようにはいかないのですよ」
「だから内緒なんだよ? なっしー」
「そうだぞ、難升米。ちゃんと内緒だ」
「こ……の、二人は……」
遠くてもやはり同じ一族だ。
なんだこの軽さは。
自分がこれだけ国や穂北彦の事を思い、苦悩していると言うのに。
難升米は次第に腹が立ってきた。
勢いよく腰を上げ、台与と穂北彦を睨めつけた。
物凄い形相だった。
「台与様、穂北彦様、あなた達は王族としての自覚が無いのですか。こんな勝手な真似をして。ようやく纏まりかけているこの国が、またも分裂してしまったら、どう責任を取られるおつもりか」
「「ごめんなさい……」」
二人とも床の上に小さく座り、口を窄めた。
「掖邪狗、お前もお前だ」
「お、おれ?」
難升米の矛先は、他人事のように笑っていた掖邪狗にも向けられた。
「主君が道を誤ろうとする時、身命を賭して諫めるのが臣下の務めだろう。穂北彦様を連れ出すのに、なぜお前は反対出来なかったのだ」
「いや、だって面白そうじゃん」
「愚か者過ぎか、お前は」
屋敷が震えんばかりの大音声だった。
戦でもここまで声を張り上げたことはない。
台与などは鼓膜が痛むのか、両手で耳を塞いでいる。
「それと、あいつはどうした。載斯烏越は。大和からこちらへ戻るよう、招集命令は出ているはずだろ。余計な奴らは居るのに、肝心の男がなぜ顔を出さないんだ」
狗奴国に大打撃を与えた今、最も気になるのは同盟相手の大和国だ。
今や倭国において、連合国政権の次に強大なのはあの国だ。
先の動乱後の動向、新女王即位に対する大和の出方。
それらも早めに掴んでおきたかった。
それに大和との折衝、魏への朝貢の任を務めたことのある男なら、今がどれだけ大事な時なのかを、ここの連中よりも分かってくれるはずだ。
「“余計な奴ら”って、おまえ……。私は一応元王だぞ」
穂北彦の呟きは無視した。
「載斯烏越は来ないぞ」
「何だと」
掖邪狗がしれっと言ってのけた。
「なぜだ、大和で何か起きたのか」
噛みつかんばかりの勢いで、難升米は掖邪狗に詰め寄った。
「まあ、ある意味起きたっていうか……」
難升米から顔を離そうと上体を反らしながら、掖邪狗は問いに答える。
「大和にいる馴染みの女が、故郷に帰っちまったんだよ。長いこと放ったらかしにしてたから、臍を曲げちまったんだな。あいつは今、そのご機嫌取りだ」
「そんな女、ずっと放っておけ」
「俺に怒鳴るなよ」
難升米が飛ばした唾を袖で拭いながら、掖邪狗が抗議の声を上げる。
「全く、どいつもこいつも。こんな時にどこまでお気楽なのだ。台与様の周りにはまともな奴はおらんのか」
「そう。それだよ、なっしー」
琥珀色の瞳を輝かせ、またも台与が難升米を指差した。
「わたしはこんな感じだし、張先生はいなくなっちゃっうし、やっくんはおバカで、あえちゃんは女好き。こんな国を纏めたいって、誰が思うのさ」
自分で言うか。
だが、かなりの説得力があった。
難升米も別の意味で、この国から逃げ出したくなっている。
「私はパスだ。蟄居出来てマジで助かった」
「俺も無理。天子様から黄幢や位を貰っても無理。三日で滅ぼす自信しかない」
「じじ様も嫌々やってただけだからね。基本あの人、日御子様と一緒にいたいだけの人だったから。ムッツリじじいだから。今ごろ向こうで、日御子様に会えて喜んでるよ」
そう言って三人は、うんうんと頷き合っている。
そして黙っていた張政が、顔を上げて笑い出した。
「張政殿」
「いや、失礼……。ですが難升米殿、これでお分かりになったでしょう。この中で、誰が最も気の毒なのか」
張政、台与。そして周りの人間を見渡し、そして溜息をついた。
やられた。
そういうことか。
最初からこの者たちは、これが狙いだったのだ。
「……私、ですか」
「正解」
嬉しそうに、台与が手を叩いた。
難升米も吊られるように、口元を綻ばせた。
そして息を吸い、またゆっくりと吐き出した。
腹を決める為の、難升米の覚悟の時間だった。
「……わかりましたよ。主君にここまでして頂いたのだ。これに心より応えねば、却って臣下の礼を失するというものだ」
持衰が、日御子が、そしてここにいる皆が、難升米を必要としている。
ならば自分も、少し自惚れてみるとしよう。
それが本当の意味で、後を託し、死んでいった者たちに応えることになるのだ。
それを、台与たちが気付かせてくれた。
「なっしー、じゃあ」
「はい、台与様。臣の頂きに立ち、私が貴女とこの国を護る。かつて持衰様がそうなされたように。それが出来るのはこの私だけ、なんでしょう」
「そういうこと」
そう言って笑った台与の表情は、今日目にしたどれよりも、日の御子を継ぐに相応しい、眩しい笑顔だった。
もしかしたらこの顔が、本当の台与の笑顔なのかもしれない。
難升米の鉄のように冷えた心は、張政の言葉通り、無理矢理に溶かされてしまった。
「穂北彦様、掖邪狗。お二人にも感謝いたします。私の心を掻き乱し、凝り固まった思い込みから抜け出す為の、きっかけを作って下さった。国の政に関心の無い芝居まで打って」
難升米がそう言うと、穂北彦と掖邪狗、そして台与の笑顔が固まった。
その表情のまま顔を見合わせ、同時に難升米に顔を向け直した。
「「「んーん、あれは本当。だって面倒いし」」」
王都の北内郭に建てられた主祭殿。
この建物は、集落の中のどの建物よりも高く、内郭を覆う柵すらも、上から見渡すことが出来る。
女王がその最上段に上がれば、集落の中心部である王都に入りきれなかった者たちも、辛うじてその姿を視認出来るはずだ。
高床になった主祭殿のその下で、難升米たちは台与の後ろに控えていた。
周囲は巫女たちが囲っている。
祭殿の階に足を掛けた瞬間、台与は本当に御子王となる。
神に身を捧げ、祈りに生涯を費やす存在に。
男子である難升米たちは、もう近づくことも、顔を拝することも出来なくなる。
「よし」
台与が気を入れるように、掛け声を出した。
首に掛けた勾玉が揺れる。
手には龍紋をあしらった、青銅鏡を捧げ持っている。
どちらも先代女王、日御子から受け継いだものだ。
装束は白絹で編んだ衣の上に、花紋が浮かぶ白い羽織を羽織っている。
かつて難升米と都市牛利達が魏に遣わされた際、下賜品として与えられた物だ。
「行かれるのですね」
「うん、みんな待ってるから」
背を向けて祭殿を見上げていた台与が、難升米達に振り向いた。
高床の陰になっているはずなのに、その顔は輝いて見えた。
もう、この顔を見ることはない。
目に焼き付けるように、難升米たちは台与を見つめた。
この先彼女は、永い永い、孤独との戦いに明け暮れる事になる。
なのに普通の少女でいられる最後の時間を、難升米の為に費やしてしまった。
今になって、自分の不甲斐なさが歯痒くなる。
「なっしー、言ったでしょ。ネガティブ禁止だよ」
「台与様……。ですが私は、残された貴重なお時間を、私如きの為に使わせてしまいました」
「なっしーの為に使えたから良かったんだよ。驚いたり怒ったりするなっしーの顔、面白かったしね。凄く、いい思い出になった」
そう言って本当に可笑しそうに、台与は悪戯っぽく笑った。
「それにさ、わたしと直接合わせる最後の表情が、そんなんで良いの」
「……そうですね。貴女の前で、辛気臭い顔は似合わない」
「そうそう、その調子」
微笑みを浮かべた難升米を見て、台与の笑顔が更に大きくなった。
「張先生。たくさんのこと、教えてくれてありがとうございました。わたし女王になれて良かったよ。張先生に会えたんだもん」
「私もです。貴女様のような素晴らしい方に、私の知をお授けすることが出来た。これほどに光栄なことは、この先訪れる事はないでしょう」
「大袈裟だなー」
照れ臭そうに、台与が頬を掻く。
「張先生、元気でね」
「はい。台与様のご健勝を、私も魏より祈り続けましょう」
張政は穏やかに微笑んだ。
だがその瞳の奥には、一抹の寂しさが確かに見え隠れしていた。
「やっくん。張先生のこと、無事に送り届けて上げてね。戻ったら今度は、なっしーのことも見てあげてね」
「任せて下さいよ。難升米は俺がいなきゃダメですからね」
「台与様、お言葉ですが不本意です」
苦い顔をする難升米を余所に、掖邪狗は愉快そうに白い歯を見せていた。
「あえちゃ〜ん、好きな人とは上手くやるんだよ」
「いやー、面目ないです。台与様」
載斯烏越が苦笑する。
台与の即位式が始まるこの直前に、載斯烏越は何とか間に合ったのだった。
必死に走ってきた載斯烏越に、難升米は思い切り白い目を向けた。
「おじ様、時々は遊びに来てね」
「ああ、台与。月イチで遊びに来るぞ」
「それは勘弁して下さい、穂北彦様」
そして台与は再び、ゆっくりと一人一人を眺め回した。
そして満足したように一つ頷いた。
「んじゃ、行ってくるね」
そう言って台与が片手を上げた。
まるですぐその辺りに出掛けるような、軽い口調で。
傍らの巫女の一人と目を合わせると、巫女は頷き、台与に頭飾りを嵌めた。
薄布が垂れ下がっており、それが台与の顔を隠す。
もう、台与は言葉を発さなかった。
次の言葉は、主祭殿の向こう側を埋め尽くしている、女王の民たちに向けられるものになる。
階を一つずつゆっくりと、だが迷いなく力強く、台与は上がっていった。
見ていますか持衰様、日御子様。
あなた達が繋げようとした想いは、いま確かに次代へと受け渡されました。
持衰様。いま、永き大乱が終わりを迎えますよ。
歴史はきっと繰り返される。
だが、この平穏を一日でも長く守り抜く。
難升米にとってそれは、十分過ぎるほどの希望だった。
白く揺れる台与の背中を、誓いの思いと共に見つめ続けた。
第三章・完
ここまでお読み下さりありがとうございました。
書き始めた時は誰にも見向きもされないだろうと思っていましたが、予想以上に読んで下さる方に恵まれて、感無量です。
本当にありがとうございました。
何とか続けていられるのも、覗きに来て下さる方々のお陰です。
最終回っぽいですが、物語はまだ続きます……。
少しでも気に入って頂けたのなら、評価やブックマーク、ご意見ご感想などを送って頂けますと、今後の創作活動の励み・参考となります。
こんな小説ですが、応援して頂けますと幸いです。




