第百八十二話 エピローグ 壱
まだ寒さが堪える季節だ。
早朝、居館から出た難升米は、白い息を吐きながら、空を眺めた。
王都の背後に聳える脊振山は、ようやく山頂まで雪が溶け、山肌が見え始めている。
春の訪れが近いことを、風よりも先に伝えてくれている。
種植え前の祈年祭が、本日に執り行われる。
例年この祭りには、多くの者が集まるが、今年はその比ではない。
王都とその周囲に住む人間たち以外にも、各地から人が集まっている。
王都には収まりきらず、柵の周囲にまで人が溢れているほどだ。
諸国の王や有力者もここへ来ており、仮住まいの屋敷の用意に、王都の者たちは奔走させられていた。
これだけ人が集うのも仕方がない。
ただの祈年祭ではないのだから。
今日は筑紫北部連合の新盟主となった台与の、正式な即位式も兼ねている。
そうだ。
あの台与が、とうとう女王となる。
また、白い息が漏れる。
今度は、寒さのせいばかりではなかった。
去年の秋、先々代の盟主、日御子の崩御から間もなく、女王の唯一の側近だった持衰と、天照軍の長、掖邪狗ら計千名からなる軍が、狗奴国領に攻め入った。
そして、一切の補給も受けられぬ状況でありながら、四千以上の狗奴国軍を破った。
本来なら喜ばしい事なのかもしれない。
だが、事態はそのような単純なものではなかった。
連合国は長引く倭国大乱を鎮めるため、日御子を御印に結束した国々の集まりであるからだ。
その根幹は戦の否定。
自衛の為の戦いならば正当化されるが、敵だったとはいえ、向こうから攻めてきた訳でもない国に侵犯するなど許されない。
しかも国王、狗奴健は討ち漏らしたものの、ほぼ全ての兵を殺し尽くしたという。
武器を捨て、逃げ惑う兵すらも、背中から斬り殺した。
虐殺と言ってもいい。
慈愛の王、日御子の軍の所業とは思えない。
ましてやその中に、天照軍までもが含まれているなど、とてもではないが見過ごせるものではない。
それが諸王の総意だった。
いや、多くの民も、同じ思いを抱えただろう。
疑念と非難は、日御子の後に立った弟王、穂北彦に向けられた。
それどころか、吉備と大和で起こった乱さえも、穂北彦の不徳により、神の不興を買ったが故と言われるようになってしまった。
穂北彦はそれらの言い分を全て認めた。
国を乱した咎は全て自らにあるとし、事後の処理を終えた後、連合国盟主の座を退いた。
それが数日前の出来事だった。
難升米は重い足取りを、新女王の居館へと向けている。
衛兵は一人もつけていない。
女王の居館は歩いてすぐの距離であるし、そもそも今は一人になりたかった。
「難升米殿」
「これは、張政殿」
目の前には、魏より遣わされた使者、張政が立っていた。
周囲には数人の供回りがいる。
皆、漢人の兵で、張政と共に倭国へやってきた者たちの一部だ。
張政が慣れた様子で、難升米に拝礼した。
そこでようやく、難升米は自分が棒立ちのままであったことに気付き、慌てて礼を返した。
「申し訳ありません、張政殿。かような所でお会いするとは思わず、つい呆けてしまいました」
そしてより一層、深々と頭を下げた。
「お止めください、難升米殿。何度か申し上げましたが、身分は貴方の方が上なのですから」
慇懃に畏まる難升米の肩を軽く抱き、張政が顔を上げさせた。
張政が言っているのは難升米が魏の天子より賜った、率善中郎将の位のことだ。
対する張政は塞曹掾史という位にあり、中郎将の難升米より官位は下だ。
「いえ、正式な大魏の官吏である張政殿に、無礼な態度は取れません」
「全く、相変わらず真面目な御仁だ」
張政は難升米を見ながら苦笑した。
「しかし、本当に驚きました。張政殿は、てっきり台与様とご一緒だとばかり……」
二年前に女王日御子が遣わした返使として、張政は倭国を訪れた。
日御子が形作った連合国を観て、日御子の人柄に触れた張政は、彼女に心服した。
魏に許される限り倭国に留まることを決めた彼は、まるで日御子に仕えているかのように振る舞うようになった。
そして張政は日御子の没後すぐ、持衰に請われ、台与の師となった。
漢語、そして進んだ中華の思想、教養を、毎日のように台与に伝えた。
台与の即位を報され、魏の天子、曹芳が使者に託した檄文の内容も、張政が彼女に説明をしていた。
台与は張政を「先生」と呼んで慕い、張政もまた、台与を日御子に代わって自身が仕えるべき主だと、本気で思い定めているようだった。
必然、二人が過ごす同じ時間は、互いに誰よりも長かった。
まるで、かつての日御子と持衰のように。
「難升米殿をお迎えに上がるようにと、台与様に頼まれましてな。それに私も、最後に少し貴方と二人で語らいたかった」
「最後、ですか。そうですね……」
張政が微笑をたたえながら頷いた。
彼は今日の即位式が終わり次第、速やかに魏へ帰ることになっていた。
台与が即位し、日御子の崩御後の混乱が収束に向かった今、しばらくは倭国の動向を間近で観察する必要はないという、魏の判断だった。
「もう少し、台与様を間近で見守らせて頂きたかったのですが、残念です」
「滞在を延ばせるように、あちらに掛け合うことは出来ないのでしょうか」
女王として即位すれば、台与は日御子のように、孤独な立場となる。
その上で師と慕った張政まで離れてしまえば、流石の台与でも気落ちしかねない。
「……先ずは歩きましょうか、難升米殿」
難升米の問いかけに答えず、張政はそう言った。
何かある。
難升米はそれを察し、黙って首肯した。
「我想和難升米大人隻身詳談。你們且退下」
「可是……」
「在後面遠遠地跟著就行了」
「明白了……」
張政が供回りの兵たちに声をかけた。
難升米も漢語を理解できる。
二人で話したいので離れて歩くようにと、張政は言っているのだ。
兵たちは少し躊躇しつつも、言われたように難升米たちから距離を取った。
「行きましょう」
難升米と張政は、ゆっくりと女王の居館に向かって歩き出した。
その後ろから、漢人の兵たちがついてくる。
大声で話さなければ、声は届かない位の距離だ。
「天子が、いえ、太傅が台与様へ宛てた檄文。それと一緒に、私に報せが届きました」
太傅とは魏の重鎮、司馬懿のことだ。
十年前、難升米が連合国初の使者として洛陽を訪れた際、司馬懿と出会っている。
魏の冊封を与え、破格とも言える下賜品の見返りとして、司馬懿は難升米にある条件を課した。
弁韓に倭国の基盤を作り、魏を脅かす高句麗への抑止力となれと。
そのために難升米は弁韓に出兵して斯蘆国と戦い、任那の地に、倭国の拠点を置いた。
そしてそれは、魏に利するのみでなく、司馬懿の政敵である曹爽との政争に対しての、楔ともなるものであった。
使えるか使えぬか。
物珍しい獣でも見るかのように、興味深そうに嘲りながら。
難升米を映していた冷たい瞳が、頭の中に呼び起こされた。
「洛陽で事変が起きました」
脊振山から吹き下ろす風に乗って、張政の言葉が冷たく、難升米の耳を打った。
「今年に入ってすぐ、曹大将軍とその一派が、司馬太傅によって悉く誅殺されたとのことです。太傅は最高位の丞相の任に就かれ、今や魏の朝廷は、完全に司馬丞相の掌中にあります」
「何と……」
「とは言え、司馬一族に密かに反発する者は多く、未だ予断は許されぬ状況。信用できる味方を、丞相は一人でも多く求めておられる」
「それゆえに、張政殿が急遽、呼び戻される事になったと」
張政がゆっくりと頷いた。
「帯方郡太守、王頎殿を経由して、私に帰還命令が下りました」
「そうですか……。ですが張政殿、貴方が戻される理由は、それだけではございますまい」
「難升米殿……」
「倭国の利用価値が薄れた、という事ですね」
曹爽が結んだ大月氏国と結んだ功績に対抗するため、司馬懿は倭国を冊封した。
だが大月氏国と比べ、倭国はあまりにも小さかった。
司馬懿は梯儁や張政を倭国に派遣し、この国を調べ上げ、時に支援を施した。
張政が曰く、実際以上に倭国を強大に見せるよう、脚色を行わせた気配もあるらしい。
「政敵の曹爽が死んだ今、これまでほど倭国に人を割く必要はない。それよりも、今はご自身の足元を地固めするが先決。丞相はそうお考えなのでしょう」
「……やはり大した御仁だ、難升米殿は。だからこそ、後を託せる」
いつの間にか、台与の居館の目の前にまで来ていた。
人の往来が激しい。
即位式の準備に向け、巫女や兵たちが慌ただしく動き回っている。
張政はそこで足を止めた。
後ろにいた兵たちも、距離を保ったまま立ち止まる。
「難升米殿。貴方は私を、正式な魏の官吏だと仰り、礼を取られた。確かにその通りだが、私にとってそれは、深く心に刺さる現実なのです」
張政は少し顔を伏せて微笑んだ。
「出来ることならこのまま私も、あの方にお仕えしたい。もちろん、それは許されない。魏には妻子もいる。私はあの国を、丞相を裏切るわけにはいかない」
どう言葉をかけていいのか、難升米には分からなかった。
いや、分かってはいたのだが、自分にそれを言う資格があるのか、自信が持てなかったのだ。
「私が言う事でないとは百も承知だが、台与様のことをお願いいたします」
はい、と言えばいい。
もう張政はここへ帰って来ることはない。
ならばせめて、心にも無い言葉だとしても、彼を安心させてやるのが、真心ではないのか。
なのに難升米は、頷くことが出来なかった。
「正直な人だ、貴方は。よくそれで、あの司馬丞相とやり合えたものだ。いや、その実直さあればこそなのかな」
張政が口を開けて笑った。
いつも悠然とした彼の、こんな姿を見るのは初めてだった。
「何かが、胸に引っかかっているのですね」
「私は、持衰様と穂北彦様がなされようとしていることを知っていました。お二人は連合国の未来の為に、名誉と命を犠牲にされた。なのに私は何も出来なかった。だからこそ私は、この国の為に自分の生を捧げなければならない。それは分かっています。ですが、まるでこの国の代表のように、張政殿の想いを託される資格が、私にあるのでしょうか」
「逆に、貴方以外にその資格がある者が、他にいるのでしょうか。親魏倭王を除いて、天子より個人的に下賜品を賜ったのは、倭国において貴方以外には存在しません」
二年前、初めて張政が倭国を訪れた時、彼は曹芳に託された黄幢を携えてきていた。
その黄色い軍旗は、即ち率善中郎将の難升米に、日御子のため、“倭国の兵を善く率いろ”という、天子からの詔勅であった。
その時をもって難升米は、名実ともに臣下の最高位となったのだ。
それは、諸国の王にも比肩する権威だ。
張政はそのことを言っているのだ。
「真にその栄誉を賜るべきは、私ではなく持衰様です」
「……全く、貴方という人は」
煮え切らない難升米の態度に、張政は遂に吐息を漏らした。
「まあ、私の言葉で貴方の心を動かせるとは、最初から思ってなどいませんでした」
張政は再び足を踏み出しながら、難升米の背を軽く叩いた。
「そろそろ行きましょう。鉄のように冷たく固まったその負い目を、炉に放り込んで溶かしてくれる方が、この先に待っています」
もう一度優しく手を叩き、張政は台与の屋敷へ足を踏み入れて行った。
ただ黙って、難升米はその背に続いた。




